置き去った記憶こそが、我を責める
意識を取り戻し、真っ暗な中、身を起こす。今までずっと倒れていたらしい。
ここがどこだか分からない。ひんやりとして、表面のざらついた、無機質な床を手のひらに感じつつ、目の前に転がっている携行照明へと手を伸ばす。
携行照明を拾い上げ、その光をあちこちへと向け、ようやく自分が延々と続く廊下、無数に張り巡らされたパイプラインに囲まれた中に居ることに気づく。
「ウ゛ゥ゛ゥ゛ー……。」
声を出そうとしても、自分の口元からは濁った唸り声が上がるばかりである。
驚いて口元に手を持っていき、そして自分の口があったはずの箇所には骨格ごと露出した大顎、鋭く発達した大牙が備わっていることに気づかされる。一瞬、全身に悪寒が走り、先ほど手に取ったばかりの携行照明を取り落とす。
……が、自分が人間からかけ離れた顔を有していることについて驚愕の念が浮かび上がってくる前に、それが至極当然の事実であることを思い出す方が先であった。
「……ウ゛ン゛。」
自分はリズァーラー。この大きく変異し発達した牙を用いて、地下都市における処刑任務を担当していた。
気持ちを落ち着かせようと深呼吸しかけたが息を大きく吸い込むことは出来ず、人間と異なってリズァーラーには呼吸の必要などないことも思い出す。
この場所が暗闇に包まれているのも当然のこと、既にこの地下都市に生きている人間はおらず、活動可能なリズァーラーたちも地上世界へと去って……自分だけは地下都市へと戻ってきた。
「ア、ウァ゛、ウゥゥ゛。」
何のためかと言えば、そう、マナコ。ずっと処刑任務を共にし続けたマナコが、最後の任務でリズァーラーの苦手とする乾燥剤を噴きつけられ、活動停止状態になってしまっていた。
彼女を再び活動可能な状態に戻すためには、新鮮な人間の死体が必要だ。まだ腐敗していない血肉は、本質が菌類であるリズァーラーにとって最良の養分液となってくれる。
人間が死に絶えた後、新鮮な死体の入手は不可能と思えたが、奇跡的に生き残りを見つけて殺害し……自分が運んでいた死体袋の中に、ちゃんと収めていたはず。
「ウ゛ゥ゛ゥ゛ゥ゛……。」
そこまで思い出し、きちんとその死体が収められているか不安になり、すぐ近くに転がっていた死体袋の口を緩める。
せっかくここまで運んできた、そしてマナコの活動再開のために欠かすわけにはいかない死体を、きちんと紛失していないか確かめたかったのである。
それに、自分の為すべきことは思い出したものの、自分自身の名前は思い出せない。マナコは、自分のことを何と呼んでくれていたっけ……。
「ア゛。」
リコ。
死体袋の口を引き下げ、内部に収められていた死体の顔を見ると同時に、自分の名を思い出した。
この死体が何者であるのかも、同じく。マナコ……お姉ちゃん。私は、ようやく自分が本当は誰だったのか思い出して、あの懐かしい家でお姉ちゃんにまた会えたはずだった。
なのに、どうして?あの時、お姉ちゃんは私を遠ざけたり、怒鳴りつけたりしたことを謝って、私のことを抱きしめてくれたのに……。
「ウ゛、ウゥ゛、ウ゛ゥ゛!」
ハリコは激しく首を横に振るった。そう、自分の名前はハリコ。
処刑任務に携わっていた時、相棒のリズァーラーであるマナコから常に"リコ"と呼ばれていただけで、本来はハリコという名前だ。剥き出しの頭蓋骨に、目や前頭部ばかりは皮膚が貼り付けられたような姿をしていたため、そう名付けられたのだ。
この死体袋に詰められている人間は、誰と勘違いしたのか自分に謝りながら抱き着いてきたので、ちょうどよく無防備な首筋に噛みついて殺害したのだ。大切な存在には違いない、マナコちゃんを活動再開させるための貴重な養分だ。
違う、私はリコ。マナコは私のお姉ちゃんの名前。お姉ちゃんは、マナコは人間、私よりずっと勉強ができて、真面目で、自慢のお姉ちゃん。リズァーラーのマナコなんて知らない。
私はお姉ちゃんのこと、一度も嫌いになんてなっていなかった。お姉ちゃんは泣いて謝っていたけれど、私が勉強の邪魔ばかりしていたら、どっか行けって思うのは当たり前だもの。
だから、お姉ちゃんに抱きしめられたとき、全然怒ってなんかないって、伝えたかったのに。どうして牙を突き立てたりしたの?
お姉ちゃんは、最期の瞬間まで、私に許してもらえなかったんだって……そう考えながら、死んだ……!
「ア゛ァ゛、ア゛ゥ゛ゥ゛ゥ゛ッ!」
知らぬ間に、自分の顎にかけられた自分の手が、まるで自ら顎を引きちぎろうとせんばかりに力を込めている。
慌てて手を振り払い、頭を激しく振るいながら、ハリコは脳天を再び壁面のパイプに叩きつけた。頭をぶつけてはまたしても意識が遠ざかるかもしれないが、この際、思考の中に響く何者かの声から逃れられるならば手段を選んでいられなかった。
単に自分の意に背いた意思だったためではない。あまりにも強烈な嫌悪と哀切が、思考の中へダイレクトに流れ込んでくる感覚には、短時間でも耐えられなかった。
「ウァ、ウゥ、ウ゛ゥ゛ゥ゛……。」
全身を打ちのめすような強い痺れとともに、倒れ伏すハリコ。幸いなことに、今度は意識を失うことはなかった。
おあつらえ向きに、自分の意思や記憶とは違う内容を語る、あの謎めいた声も思考の中から追い出せたらしい。いや、単に黙っただけかもしれない。あれは後から自分の中に入り込んできたのではなく、もともと自分の中枢に潜んでいたような感じだ。
自分の内部の沈黙を不気味に感じる経験など、味わうことになろうとは思いもしなかった。
「……ウ゛ー……。」
あらためて、静けさに身を沈め、しばらく死体袋の中身と見つめ合ってみるが、もうハリコ自身以外の意識が浮かび上がってくることはなかった。
一時的な安堵とともに死体袋を閉じ、ここに至るまでやっていたように、死体の足部分を抱えて引きずり始める。単調な運搬作業であったが、自分の思考を停滞させてぼんやりしていては、またしてもあの強烈な嫌悪感を伴う、知らぬ自我が頭を擡げるかもしれない。
不気味な感覚が蘇ってこぬように、そして自分本来の役割を忘れぬように、ハリコはこれから先の予定を頭の中に描きながら歩を進めていった。
「ウ、ウゥ゛、ゥ゛。」
これから、マナコちゃんのところへ、この死体を持っていく。マナコちゃんの身体は、ウィトゥス博士の研究施設だった場所で寝かせてある。
あそこには、死体の処理装置がある。もう自動では機能しないけれど、ハンドルを回せば手動で死体の砕断が出来る。死体を砕いて攪拌して、出来上がった養分液にマナコちゃんの乾涸びた体を浸してあげれば、またマナコちゃんは活動できるようになる。
この新鮮な死体を届けるのも、マナコちゃんのため。マナコちゃんが活動できるようになれば、この静かになった地下都市の中で、ずっと一緒に居られる。
「……ウン。」
……そう。
お姉ちゃんは、そのマナコとかいうリズァーラーの養分にするために、殺されたんだ。
いいよ。お姉ちゃんの身体を持っていきたいなら、持っていけば。その先に、お姉ちゃんと同じ名前のリズァーラーが居るんでしょ。居場所を教えてくれたら、私もお返しに教えてあげる。
世界で一番大切な相手を奪われたら、どんな気持ちになるか。




