取り戻した平静は、変わり尽くし、暫しのみ
マナコに手を引かれ、真っ暗な排水管内部を通り抜ける経験も、ハリコは久々であった。
やがて暗闇の向こうに、相変わらず無造作に置かれただけの工業用照明の光が覗き、それに照らされたカビまみれの生活空間を見た時、ハリコの口からは懐かしさのあまり呻き声が漏れ出た。
「ウゥァ……。」
「またリコくんと一緒に、ここに帰ってこられるのは嬉しいですねぇ。あれから色々ありましたけど、この場所は全然変わってないんですよぉ。」
マナコの声が排水管内のジメついた空気の中で反響し、間もなく排水管の壁面に備えられた鉄製の小部屋からベスタとヤキバが顔をのぞかせた。
ハリコがこの処刑担当リズァーラーたちのねぐらへ戻ってきたことを、マナコは純粋に喜んでいたが、ベスタはそれ以上の意味を見出していたらしい。
彼女はいつになく切迫した表情で駆け寄り、確かに目の前にいるのがハリコであることを確認すると、そのまま彼の身体を強く抱きしめた。
「ウ゛ッ。」
「おかえりなさい、ハリコ。あなたまで失うことにならなくて、本当によかった……。」
四肢を失ったハリコが"任務"という名目で、ウィトゥスの研究施設へ送られることを知った時、それが廃棄処分を意味することをベスタは覚悟していた。
さらには少なからぬ時を共に過ごしたパートナー、シェルが正常な記憶能力を失い、任務運用に耐えないと判断されてからというもの、ベスタの心配事はチームという居場所が崩壊する恐れへと集約されていた。
「帰って来てくれて、ありがとう。ここから居なくなったリズァーラーの思い出を、同時に二つも抱えるのは重すぎる。」
ハリコの小柄な身を抱きしめるベスタの手は、ハリコの背を回って彼の両腕をしっかりとつかんでいた。この両手、そして両足こそ、シェルの身体から切断されてハリコの身に移植されたものであった。
「ウ、ウゥ゛。」
「ベスタさん、リコくんが窮屈そうですよぉ。」
ハリコの呻き声を聞いたマナコからの進言に、ようやくベスタはハリコとの抱擁を止めた。リズァーラーに呼吸は不要であったが、身体の圧迫によって息苦しさのようなものを感じるのは人間として有していた体の名残であった。
そんなやり取りを少し離れて見つめるヤキバも、また表情を和らげていた。リズァーラーとしては新入りながら、外見上は最年長の貫禄を有する彼の微笑みは、かつての古巣に戻ってきたハリコに十分すぎる安堵感を与えた。
「自分も嬉しいです、ハリコ先輩に戻ってきていただいて。ですが、一番喜んでいるのは、マナコ先輩ではないでしょうか。」
「ウゥ?」
ハリコは目を見開いてマナコの方を見る。
マナコはいつも通り、固定器具によって全開のまぶたの下に、白目に囲まれた瞳を震わせつつ、半開きの口から尖った歯の先を覗かせてハリコを見つめ返していた。が、まもなく視線を逸らして俯く。
ニタニタ笑う表情に変わりは無かったものの、彼女が照れていることは明らかであった。
「リコくんが戻ってきて、嬉しいのは皆一緒じゃないですかぁ。私だけが特別じゃないですよぉ。」
「そうでしょうか。ハリコ先輩がいない間、マナコ先輩は表情も沈みがちでしたので。今は、ずっと明るい顔をしていらっしゃいますよ。」
「ですかねぇ……。」
マナコは曖昧な言葉だけを返し、ヤキバから指摘されたばかりの表情を隠すように俯きつつも、ニタニタ笑いを崩さぬままにその場を離れて行った。
少し落ち着いた様子のベスタはヤキバと顔を見合わせて微笑む。顔面にギザギザに入った切りこみが口となっている彼女の微笑みは、その切りこみをよくよく観察しなければ確認できなかったものの。
「ハリコ、今はゆっくり休んで。栄養状態は十分でしょうけれど、すこしは落ち着ける時間が必要でしょう。」
「ウン。」
「あなたがいつも待機していた小部屋、ちゃんと空いてるわ。シェルを休ませる部屋として使おうかと考えていたけれど、もう必要ないものね……。」
発言の最後を多少沈んだ響きで語り、ベスタも多少俯きがちになりながら部屋へ戻っていく。ヤキバもまた、軽く会釈をハリコに送った後、ハリコに背を向ける。
いかに自分たちの居場所を確保しようとする思いが強かろうとも、リズァーラーが人間に命令される立場であることには違いない。自らの存在価値も、居場所も、人間の一存で簡単に定められ、また除去されてしまうのだから。
戻って来れたハリコとは違い、シェルはもはや復帰することなど決して無いのだ。真っ当な記憶能力も失い、更にハリコに与えるため両手足をも失ったのだから。
「……ウゥ。」
長きにわたる彷徨の末、やっと自らの居場所を取り戻したばかりのハリコは、自分たちの存在の不安定さを改めて実感し、溜息代わりの短い唸り声を吐いた。
ハリコがいつも待機場所と定めていた狭苦しい小部屋は、ベスタから伝えられた通りに以前のまま残されていた。
軋む鉄扉を開ければ、ジメついた空気が暗がりで満たされ、カビに覆われた壁面や天井に囲まれた、独り用の空間が久々にハリコを出迎えた。
「ウ゛ー。」
ハリコは、カビだらけのクッションがはみ出た椅子に腰かけ、扉を閉める。あまりに狭すぎるため、椅子に座ってからでなければドアを開閉する空間的猶予が無い。
たちまち、居慣れた闇で彼は包まれた。目を閉じていても開けていても変わらない、一切の光を遮断した、地下の深く深くに位置する、ハリコだけの安全地帯。
「……ウゥー……。」
安堵と共に、ハリコは再び溜息に似た呻き声を、今度は長く喉から漏らした。
こうしてじっと身体を落ち着けて、暗闇の中に身を委ねていれば、やがてまぶたの裏に浮かんでくるのは白い光に満たされた幻視である。
「……ウ。」
否、それはカティーによって連れていかれた最上層の居住区が地上からの崩落を受けた際、部分的に見えた地上の光景であった。だとすれば、あながちハリコの脳内だけで生み出された幻覚とも言い切れない。
あるいは、自分は物理的な視覚を遮断した時、遠く離れた地上の光景を受け取っていたのだろうか。そう考えながら、また強く憧憬を覚える地上の光景へ思いを馳せようとした矢先、彼の静寂を破る足音が近づいてきた。
パタパタパタ、と、その足音の主のそそっかしさを示す響き。やがて、久々だったため足を引っ込めておくのを忘れていたハリコの足先に、勢いよく開かれたドアの端がぶつかった。
「ウ゛ッ。」
「お仕事の時間ですよぉ、リコくん!さっそく、管理官さんから任務の通達です!」
どうやらハリコは、十分に休む時間も与えられることなどないらしい。
が、マナコの見開かれた目が輝いていたのと同様に、ハリコもマナコからの呼び出しを嬉々とした思いで受けていた。この場所、この役割こそが、彼らが安んじて身を委ねられるリズァーラーとしての扱いであった。
「こうやってリコくんと一緒に任務へ向かえるのは、久々ですねぇ、嬉しいですねぇ、えへへぇ。」
「ウン。」
「今度は、どんな処刑任務が待ってるんでしょうか、誰を処刑できるんでしょうか。ワクワクしますよぉ!」




