002 誕生
*** ハル ***
「・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・XX」
・・・XX?って何だ?
うーん、と呻いたつもりが、耳に入ってきた自分で発したはずの言葉は日本語ではないようだった。
そもそも今俺はどこにいるんだ?記憶が曖昧で、一香と駅で別れた後の家路をどうにも思い出せない。ほろ酔い程度で済ませていたはずだが・・・。
ふと右手を見るが、よく見えない。雨の中持っていた傘はもちろん見えないし、それらしき感触もない。
「・・・XXX?」
またこの謎発音。メガネは?と言ったつもりだったんだが。
そう言えば声がやけに甲高い。赤ちゃんのような・・・いやむしろ、赤ちゃんそのものの声に聞こえる。
・・・マジで?
意識が比較的はっきりしてきたことで、頭の中の冷静な部分が顔を出し始めた。
右手、よく見えない。左手、よく見えない。
お腹より下、見えない。そもそも下を向けない。
声は甲高く、母音ばかりが聞こえる。
さっきから背中にずっと何かが当たっている。つまりは仰向け。
周りには人の気配を感じるが、よく見えない。
「XXXXXXXXXXXXXXXXXXX」
「XXXXXXXXXXXXXXXXXXX」
「XXXXXXXXXXXXXXXXXXX」
声を聞く限り数人の男女が話しているようだが、案の定何を言っているのかわからない。
・・・焦燥が募り、悲しみが後を追うように込み上げる。
今日は仕事じゃなかったのか?
一香は?
俺の部屋はどうなってる?
携帯は?
諸々の支払いは?
失踪?
・・・そもそも俺が俺である根源たる”俺”はどうなった?
沸き続ける様々な感情と思いに押しつぶされるように意識は途切れ、俺は眠った。
***
「グレン、女の子だよ。ほんとにお疲れ様・・・ありがとう。」
「ありがとうパルパ。・・・可愛い顔してるわね」
「そうだね。君似のこの眼、吸い込まれそうだよ」
「ふふっ。私、幸せよ・・・」
「俺もさ!」
生まれたての赤子を抱えた父が、ぐったりした様子の母とともに第一子誕生の喜びを分かち合っている。
出産を手伝ったらしい若い女性も無事に赤子が生まれたことに安堵し、胎盤や汚れ物を処理しつつ彼らの会話に口を挟んだ。
「名前はどうされるんですか?」
父パルパは女性の方を振り返り答える。
「ああ、スクアレット。この子の顔をみて決めたよ。・・・グレン、クレアと名付けたいんだが、どうかな?」
母グレンはパルパの抱く赤子を見つめた。
「クレア?・・・いい響きだわ。クレア=ソロジー。これ以上ないくらいしっくりくる」
「ありがとうグレン!クレア・・・元気に育ってくれよ、クレア!」
スクアレットはクレアを抱え穏やかに目を細めるパルパと、生まれたてのクレア、それからグレンに改めて祝福の言葉を送った。
*** ハル ***
やあ。俺の名前は神代晴。学生時代からの友人には名前のままハルと呼ばれている。大仰な名前にたまに引け目を感じる 24歳だ。
いや、24歳だった。
ここ数週間、もとい無数の寝起きではっきりと悟ったことがある。
・・・つまり、俺は生まれたての赤子になってしまったらしい。
記憶と思考だけがはっきりしていて、それにもかかわらず五感の全てはまどろみと新鮮さを孕んでいる。
世界の構成要素はきちんと分離された存在として認識できず、アモルファスな情報がひたすら飛び込んでくる。
近くには大体誰かの気配があり、時折女性の声が近付くと柔らかな感触と暖かい液体が体に染みる。
マンガやラノベ世代であれば、この状況を把握すれば誰だって一つの結論に至るだろう。
「XXXXXX」
・・・やっぱり母音らしき発声しかできないが、そうじゃない。要するに。
(いわゆる異世界転生かよ・・・)
*** ガイナ ***
むむ。一瞬、ものすごく残念な思いを向けられたような気がしたけど、気のせいかな?
「トラミ、今何か私に変なこと思った?」
「え?バッザルの定期配信を観てただけよ?」
「そう、ならいいわ」
訝し気にトラミが私を見るけれど、談話室には今私たちしかいない。やっぱり気のせいか。
私の願い通り、トラミの助けで一人の人物を私の世界に移すことには成功したみたい。干渉の頻度と濃度が増えると良くないという定説は守って、生まれたことを確認しただけだけど。
「がんばってね」
両手に抱えた球体の中の星に特に意味のない独り言を投げかけて、気分を高めてみたりする。
・・・開始してしまった以上今できることは殆どないから、できることが増える日を待つばかり。
ただ、いくつかのアイテムを散りばめたり、象徴的な存在の刷り込みをしたりと仕掛けは済んでいるから、できることが増えると言っても私側から積極的には無理なんだけど。
あとは星を覆う雲の移ろいを眺めるか、指向性の高い個体を追ってみるくらい。
要するに、ヒマ。
バッザルの定期配信でも観よう・・・。
『さぁ今回はレーディングの世界にお邪魔します!科学と魔法の融合が素晴らしいとの前評判ですがその真相やいかに?!』
最近は世界が複雑化しすぎて、"うまくいかない"ことも少なくないみたい。
うまくいかないのにも色々とパターンがあって、世界への働きかけが逆に創った本人を、固有の概念を通して害したりもするんだとか。イマイチその意味は実感できないけれど、そういう現象が目撃されているらしい。
バッザルの紹介している世界は安定しているところが多くて、観ていて安心感を覚える。もっとも、世界の情勢が落ち着いているとかそこに住む人々の心が平穏であることと、単に世界として成功しているかどうかは別問題なんだけれど。
多分、世界観がはっきりしているとか、中心的な役割を担う人物の物語性に一貫性があるとか、そういうところが成功の成否の理由だと私は勝手に思っている。
私の世界。私の世界の住人たち。
生まれたての星とその歴史。
不意に出来ては立ち消える雲の様に、不安と期待がいつまでも寄せては返していく。
*** ハル ***
やあ、特に代わり映えしない赤子のハルです。いえ、ハルではなく、最近自分に向けられている言葉に”オエ”という響きが多い気がするので、自分の名前は”オエ”なのかもしれないと思って悲しい日々のオエ(仮)です。
ただ喜ばしいことに、俺はいわゆる異世界転生らしいと確信し始めたこの状況を受け入れられつつある。
五感と快不快以外に、明らかに俺が感じたことのない"モノ"が体内と体外にある。多分これは、魔素とか気といった類のものだろう。そう思わなければこの新たな感覚に説明がつかないし、むしろそうであってくれと願う。
仕事はともかく、一香も日本での生活も奪われたことが無情にも現実であると折れた心が認識してしまった以上、王道の剣と魔法のファンタジーを望んで何が悪い。そう開き直ることにしたわけだ。
この未知の感覚、頼むから赤子の幻想で終わらないでくれ・・・。
今更だろうが何だろうが、どうせなら普通の異世界転生を。そんなことを考えながら、俺は相変わらず母乳を飲んでおしっこや便を変えてもらいつつ、起きては寝てを繰り返している。