天井の上層
上層へ続くというエレベーターの場所は、第8中央制御室からそれほど離れてはいなかった。1時間ほど宙を漂ってたどり着いたエレベーターのケージは、地上で宇宙服を探したもののような巨大なものではなく、プルトニウム鉱山でも見るくらいの、数十人が乗れる程度の大きさだった。
中に入り、パネルを操作するとエレベーターが動き出す。
「天井に来て、初めての“乗り物”だね」
手摺をしっかりと握って、身体が宙に放り出されないように注意を払いながら、アリューが言った。
「ずっと宙を漂うだけだったからな。ほとんどの物が動いてない、ってより、片付けられてて、物が無かったってこともあるが」
「ほんと、なーんにも無かったもんね。まさか、天井ががらんどうだとは思わなかったよ」
「パイクの話だと、上の方はそうでもないらしいが」
「そこが今の天井の本当の形ってことよね。パイクみたいな“人間”が生活してる」
動き始めこそ弱い加重を感じたものの、今は等速運動に入って力を感じない。速いのか遅いのかも体感では判らないが、一方の壁面から天井まで開かれた透明の窓の外の、壁面の流れを見る限り、かなりの高速で動いていることが視覚的に判る。
今、天井のどの辺りにいるのだろう?とカイムが思った時、窓の外に見えていた壁が消え、眩い光が飛び込んで来た。
「眩しっ」
アリューが思わず、手摺から離した両手で顔を覆い、カイムも片腕を、閉じた目の上に翳した。2人が恐る恐る目を開くと、見たことのない景色が広がっていた。
広大な大地が、緑色に染まっている。ところどころに大きな木が生え、緑色の葉を生い茂らせている。広い空間に何枚もの布が浮かんでいる。あの1枚1枚が、すべて人なのだろう。2人の住んでいた街の人口より遥かに多い。そもそも、この空間が街とは比べものにならないほど広い上、布人間は地面に足をつける必要もないから、地面からかなりの上空まで、満遍なく空間を漂っている。街の人間の数と比ぶるべくもない。
「広いねえ。向こうが見えないよ」
アリューが目を薄く開け、掌を翳して言った。
「まさか、こんな景色を天井で見られるなんてな。見渡す限りの植物なんて地上では見られないもんな」
「街の畑も広くないしね。あそこ、橋の街の畑は広そうだったけど」
「それでもここまでは広くないだろ。そもそも、暗くて見渡せないけどな」
「あの人たち、何してるんだろうね」
「さあ。布切れの動きを見ててもどんな意図を持ってるのか解らないよな」
「楽しそうではあるよね」
アリューは布切れの群を見ながら言ったが、カイムにはどの辺りが“楽しそう”なのか解らない。ただ、ふよふよと浮いているだけだ。
それでも、この景色は何か心に訴えかけるものがあった。かつて、地上にも広がっていたはずの、光と植物に溢れた世界。そんな地上なぞ、一度も見たことがないのに、郷愁にも似たこの感覚はどこから湧き上がってくるのだろう。人間の遺伝子に刻み込まれているのかも知れない。
「あれ?」
手摺から手を離していたアリューの足が床から離れている。床との距離が徐々に広がってゆく。カイムの足も床から離れていた。顔に翳していた手を伸ばして、宙に浮いてゆくアリューの足首を掴み、引き戻す。と、窓の外が壁になった。照明が発光する壁と床だけになり、細めていた目を大きく開く。
「ありがと」
「気を付けろよ」
「うん、ごめん、さっきの景色に圧倒されちゃって。もうすぐ到着かな」
「減速してるってことは、そうなんだろうな。重力があったら気にならない程度の減速だけど」
そう言った途端、手摺を握っている手に感じるほどの減速が始まる。2人の言葉をモニターでもしているのだろうか。いや、偶然だろう。
そのまましばらく、減速が続いた。上を見ると、流れる壁の奥、真っ暗だった進行方向に僅かな光が見える。減速は続き、窓の外の壁の流れが徐々に遅くなり、上に見える光はほんの少しずつ、大きくなってゆく。光はおそらく、エレベーターのトンネルの出口だろう。減速度から考えると、外に出た辺りで止まりそうだ。今度は何を見られるのだろう。
窓から見えていた壁がなくなった。エレベーターが静かに止まる。漆黒の闇の中に、眩い光を放つ、大きな天体が見える。太陽だ。地上で夏に見る太陽となんとなく違う。大気がなく、光の散乱がないからだろうか。
周りには無数の星。何万、何億という星々が、光の玉をばら撒いたかのように散らばっている。街で見ていた、南の空を覆う真っ黒な天井はない。北から南まで、一面に広がっている。
「カイム、あれ」
アリューの声に、上ばかりを見ていたカイムは、眼下に視線を移す。地上を取り囲む天井──オービタル・リングが、足元に見えている。透明の窓から見える緑色は、少し前に通り過ぎた、無数の布地が浮かんでいた上層だろうか。
そして、天井の手前、少し南側に逸れたところに、天井とは独立した巨大な構造体が見える。周りには、小さな光が虫のように飛び回っている。
「あれって、パイクが言ってた宇宙船だよね」
「みたいだな。確かに、壮観だな」
天井に比べれば遥かに小さい。それでも、その巨体は“壮観”と形容するしかなかった。まだ建造中らしく、部分的に骨組が剥き出しになっている。動き回っている光点は、作業中のロボットだろう。何千体が作業しているのだろうか。
「あれで、外宇宙を目指すんだね」
「そう言ってたな。あれ1つで、何人くらい乗るんだろう?」
「かなり乗れるよね。私たちと違って、体積は大したことないし」
「うん。それこそ、他の星に移住するくらいの規模だろうな。探索レベルでなくて」
「そんなにたくさん出て行って、天井が空になったりしないのかな」
「さっきの上層の様子見たろ? 多分、何万人規模だとしても、天井の人間のごく一部だろうよ」
「そうだね。パイクやレザーみたいに、私たちみたいな人間や天井自体に興味を持ってる人は、宇宙に出て行ったりしないだろうし」
しばらく、2人は生まれて初めて見る、満天の星空、眼下に広がる天井、巨大な宇宙船に、魅入っていた。かつての人類が創り出した途方も無い建造物と、どこまでも黒い宇宙の深淵に、ある種の畏怖を覚えながら。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
しばらくの間、天井の“上”の世界を堪能して、カイムとアリューはパイクと別れた第8中央制御室に戻っていた。コンソール端末には、まだ布地が載っていた。2人を待っていてくれたようだ。
「ただいま。とっても凄い物を見せてもらったよ」
アリューは端末に向かって言った。
《満足してもらえたようだね。良かった。
こっちも準備は終わったよ。
レザーは先に帰った。
2人によろしくと言っていたよ》
そう言われても、2枚の布地は重なっていたから、今いるのが1枚だか2枚だか、カイムにもアリューにも判らないのだが。
「ありがとう。レザーにも改めて礼を言っておいてくれ」
《伝えておく。
それで、ホロパッドをもう一度接続してかれないか?
帰りのエレベーターの位置を送るから》
「うん、解った」
アリューが隣の端末のコネクタにホロパッドを繋ぐ。すぐに情報が入力された。
「ありがとう。大変だったんじゃない?」
《僕は見ていただけだから良く解らないが、
レザーは楽しんでいたようだよ。
オービタル・リングの設備を使えることなんて
ほとんどないからね》
「それなら良かったけど、でもやっぱりありがとう。私とカイムだけじゃ、また自動車で塔の壁を、のたのた降りて行かなきゃならなかったもん」
《役に立てて、嬉しいよ。
きっとレザーも同じだろう》
「そう言ってもらえると俺たちも嬉しいよ。パイク、これでお別れだな」
《でも、またいつか来るんだろう?》
「そうね。来たくなってら、いつでも来るよ」
「どうやって来るかはまた考えないとな。自動車に2ヶ月缶詰なのは、もう充分堪能したから、もっと別の方法で」
(流石にあれを何回もはきついしな)とカイムは内心で付け加えた。
《ああ、待ってるよ。
それまで、長いか短いか判らないが、お別れだな》
「うん。本当にいろいろありがとうね」
「レザーにもよろしく伝えておいてくれ」
《そうするよ。
それじゃ、外の通風路までは一緒に行こう。
そこで一先ずのお別れだ》
ふわりとパイクはコンソールから浮かび上がった。アリューもホロパッドを端末から外した。
2人と1枚は、空中を漂って第8中央制御室を後にした。




