第四章 華子の策略 ―― 鯛の夕餉
菜々子は、皇太后のもとへ呼ばれていた。
「菜々子、帝は最近どうですか?」
皇太后に尋ねられ、菜々子はしばらく黙っていた。
「皇后として入内してから、もうだいぶ日も過ぎましたね。帝のお渡りはありますか?」
「……」
菜々子は答えず、静かに首を横に振った。
皇太后は困ったように息をついた。
帝がこれ以上、中宮に心を寄せぬよう、皇太后は中宮を内裏から実家へ移し、さらに中宮自身からも、帝に対してそのような思いはないと伝えさせていた。
しかし、若さゆえか、帝はまだ気持ちの整理がつかないようであった。
菜々子も事情は承知しているらしく、無理に帝を求めようとはせず、ただひたすら帝が心を開いてくれるのを待っているようだった。
「菜々子、今宵は陰陽寮で調べたところ、日もよいとのことです。今夜こそ、帝のお心を慰めて差し上げてはどうでしょう」
「……はい」
菜々子はためらうことなく答えた。
その返事に、皇太后も少し安堵したようだった。
さっそく皇太后は女御たちを集め、今夜の準備を始めた。
もちろん、その中には華子もいた。
華子は表向き、皇后のために熱心に準備を手伝っていたが、心の中では今夜も失敗に終わるよう、あれこれと思案していた。
菜々子は身体を清め、衣を選び、髪を整えるなど、一日がかりで準備を進めていた。
その傍らで、華子が声をかけた。
「皇后様、今宵は帝と夕餉もご一緒になるのでしょう?」
「ええ。帝のお好きなものを揃えて差し上げてくださいね」
「かしこまりました」
華子はそう答えると、その場を離れた。
渡殿まで来ると、周囲に人がいないことを確かめ、そっと身をかがめた。
「帝のお嫌いなものは何かしら?」
すると、物陰から黒い影が現れた。
「魚でございます。以前、骨が喉につかえて以来、魚はあまり召し上がりません。とりわけ鯛は小骨が多く、苦手にしておられます」
「そう。ところで、今日は鯛があるの?」
「はい。今夜も用意されております」
「わかったわ」
華子は何事もなかったかのように立ち上がり、すぐに菜々子のもとへ戻った。
「皇后様、帝はお魚がお好きなようでございます」
「まあ、そうなのですか」
「はい。中でも鯛がお好きなようで、厨房でも、いつでも召し上がれるよう毎日用意しているそうです」
「そうでしたか。それでは、今宵は鯛をお出ししましょう」
菜々子は嬉しそうに答えた。
すると華子は、周囲の女官たちにも聞こえるように尋ねた。
「皇后様、今宵のお魚は鯛でよろしゅうございますね?」
「ええ、鯛をよろしくお願いしますね」
「かしこまりました」
華子は深々と頭を下げた。
こうして、菜々子は何も知らないまま、帝が最も苦手とする魚を夕餉に用意することになった。
その夜、菜々子は心を込めて帝を迎えた。
しかし、夕餉に並んだ鯛を見た帝の表情は、たちまち曇った。
「これは……鯛か」
「はい。帝がお好きとうかがいまして、ご用意いたしました」
菜々子は微笑んだ。
だが、帝は箸を取ろうともしなかった。
「……そうか」
それ以上、帝は何も言わなかった。
せっかくの夕餉も、二人の間には気まずい空気が流れ、菜々子が思い描いていたような夜にはならなかった。
翌朝になると、皇后が帝の嫌いな鯛を夕餉に出したという話は、いつの間にか内裏中に広まっていた。
「皇太后様も、中宮様も、あのような失態はなさらなかったのに」
「やはり、安信殿のご息女では……」
いつしか話は、菜々子個人の失敗から、その生まれや父親にまで及んでいた。
菜々子は人づてにその噂を耳にし、深く心を痛めた。
帝を慰めようとしただけなのに、どうしてこのようなことになってしまうのだろう。
菜々子には、何がいけなかったのかさえ、わからなかった。
「まったく子供じみた事を・・・・」とその様子をみていた、人影がつぶやいた。
しかし、ある夜、思いもよらぬ事件が起きた。
帝は、皇太后からもたびたび小言を言われていたこともあり、今宵こそは仕方なく菜々子のもとを訪ねることにした。
菜々子のもとにも、帝がお渡りになるとの知らせが届き、女御たちも準備に取りかかった。
菜々子も身支度を整え、帝のお越しを待っていた。
ところが、その夜に限って、東宮からの報告や大臣たちとの話し合いが長引いてしまった。
帝は、とうてい今夜中に皇后の御座所へ向かうことはできないと判断し、弁少将を呼んだ。
「今宵はどうしても皇后のもとへ参れそうにない。すぐにその旨を伝えてまいれ」
「かしこまりました」
弁少将はそう答え、帝のもとを辞した。
しかし、使いの者は皇后の御座所には現れなかった。
帝からの伝言は、途中で華子の手に渡っていたのである。
華子は弁少将から事情を聞くと、誰にも伝えぬよう口止めした。
こうして、帝からの知らせは、菜々子のもとへ届くことはなかった。
菜々子は、いつまでたっても現れない帝を待ち続けた。
夜が更けても、女官たちは何も言えず、ただ静かに控えていた。
やがて夜は明けた。
皇后である菜々子が、一晩中帝を待ち続けたのである。
これは、宮中にとっても大問題であった。
そもそも皇后は、通常の貴族の妻のように夫の訪れを待つ立場ではない。帝が皇后のもとへお渡りになると決まっていた以上、その約束を果たせなかったことは、皇后の面目にも関わる。
まして、何の知らせもなく一晩中待たせたとなれば、これほど屈辱的なことはなかった。
この一件は、清涼殿の一室で仮眠を取っていた帝の耳にも入った。
「何? 皇后は一晩中、私を待っていたというのか?」
帝の顔色が変わった。
「弁少将を呼べ!」
ほどなく弁少将が参上した。
「昨夜、私が皇后に伝えるよう命じたことは、確かに伝えたのだな?」
「はい。間違いなくお伝えいたしました」
「では、なぜ皇后のもとには届いていないのだ!」
帝は声を荒らげた。
弁少将は飄々とした様子で答えた。
「確かに、女官にはお伝えいたしましたが……」
「女官?」
帝は眉をひそめた。
しかし、女官に伝えたのであれば、当然、皇后にも届いているものと思っていた。
その頃、皇后の御座所では、女官たちが誰一人として帝からの知らせを聞いていないと訴えていた。
この事態を知った皇太后は、激怒した。
すぐさま帝を呼び出した。
「帝、これはどういうことですか!」
「母上、私は間違いなく、今宵は参れないと伝えるよう命じました」
「では、なぜ皇后の周りの女御たちは誰も聞いていないのです?」
「それは……わかりません。弁少将も、確かに伝えたと申しております」
帝も必死に説明した。
しばらく沈黙が流れた。
やがて皇太后は、帝の顔をじっと見つめて尋ねた。
「帝は、まだ中宮のことを忘れられないのですか?」
「……母上には関係のないことでございます」
帝は顔をそらした。
「そうですか。では、皇后のことがお嫌いなのですか?」
「…………」
帝は答えなかった。
皇太后は、深いため息をついた。
「わかりました。帝、あなたはまだ心の整理がつかないようですね。しかし、時間は容赦なく過ぎていきます。いつまでも子供のように、自分の気持ちだけを優先していてはなりません。もう少し大人になりなさい」
そう言い残し、皇太后は帝を退出させた。
帝が去った後、皇太后は一人、しばらく黙っていた。
「まったく……困ったものです」
小さくつぶやき、また深いため息をついた。
「皇后様お話が・・・・・」と格子のそとから声をかけられた。
「だれだ?」
「内侍でございます。」
「いかがした、入れ」と皇太后がいうと
内侍はあたりをみわたし、部屋へ入った。
「内侍急にどうしたのですか」と皇太后が訝しげにみる
すると
筆をとり、
伝えたい内容をかいた。
「えっ!まさか」と声をだすと
唇に人差し指でえをおき
「この一件私にお任せください」とだけいって立ち去った。
もちろんその紙はすぐさま燃やしてからだ。
そうすべて影でみていたのは内侍であった。




