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夫に名前を覚えてもらえない妻ラウラの一年間、のち離婚  作者: 新井福


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09◇冬を拒むこと03

 その後。二人を見つけたイヴァンは、苦痛に顔を伏せてから、


「あぁ、イヴァン。お前もどうしてここに、」

「セルゲイ様。とりあえずペンダントを見てください」


 セルゲイが危うげない手つきで、首にかかっていたペンダントを取り出した。ラウラは彼がペンダントを持っていることを初めて知った。

 中から一枚の紙きれを取り出し、時間をかけて読み込む。セルゲイは、長い長いため息をついた。

 喪失感をまるごと呑むため息だった。


「そうか……戦争は、終わったのか」


「はい」


 三人で馬車に乗り帰路に着く。重苦しい空気で満ちていて、ドレスが体にのしかかるようだった。



◇◇◇

 


 セルゲイは、イヴァンの手によって無理矢理寝かされた。緊張状態だったセルゲイは、安心したように眠っていったとか。



「一年間くらいは、と思っていましたが、隠しきれなかったようですね」


 まだ起きていた、いや兄を案じて起きていたのであろうエリックスが指を組み苦笑した。


「ごめんなさい、わたし、私が帰りたくないと言ったから……」


「義姉上のせいではありません。この決断を下した、僕の責任ですよ。それに帰らないと決めたのは兄上なので、自業自得です」


 ――セルゲイは、戦時中の事故に巻き込まれ、以降二十四時間で記憶がリセットされるようになった。


「両親を早くに失くしてから、兄上は朝起きて一番に、ペンダントに収まった家族写真を確認する癖がありまして。だからペンダントに兄上の情報を端的に記した紙を忍ばせているんです」


 エリックスは語った。一日で記憶がリセットされる兄では当主として務まらない。当主の座をエリックスに移すことはできたが、次の問題が降りかかった。

 隣国との結婚。ルラ王国は優良株と結婚させることを渋り、あろうことかセルゲイを矢面に立たせたのだ。その頃はまだ名目上は当主だったセルゲイを。


 だから考えたのち、エリックスは決断を下した。花嫁には一年後離婚してもらおうと。セルゲイの事情はなに一つ伝えず。


「騙すような真似をして、すみませんでした」


「いえ、しかたのないことですわ」


 そう返すだけで精一杯だった。



 身軽なドレスに着替えて、化粧を落とす。エリックスの話を聞いてからぼんやりソファに座りつくしていれば、いつの間にか朝日が昇っていた。

 目に隈を浮かべながらふらふらと歩くラウラを、ラダとマーニャは心苦しそうに顔を歪めながら後ろを付き従う。彼女たちは――この屋敷にいる者たちは全員事情を知っていた。彼らが憐憫のまなざしを向けていた理由、どうして優しくしてくれたのか、一本の線として繋がる。


(そっか、私が積み上げてきたと思った時間は、セルゲイ様にはないんだ。それでも、)


 側にいたい。それだけを願う。

 この胸を巣食うものは絶望だけではなく、彼の苦しみに気づけなかった自責も多分に含まれているのだから。


 どんな気持ちで、セルゲイはラウラに向き合ってきたのだろう。

 毎朝起きて。どうしてここにいるのかわからず困惑して。親に助けを求めるのはごく自然なことだから、セルゲイはペンダントを開いたはずだ。ひらりと現れる紙きれ。読み終わったセルゲイは、どんな気持ちで振舞ってきたのだろうか。能天気に笑う妻は、腹立たしくなかっただろうか。

 初日、「君を愛することはできない」と言われた。その通りだ。毎日が初対面の人間に、愛を囁けるはずがなかった。


 一つ、ベッドは別々。

 ――朝起きて、困惑しきった姿でどんな酷い言葉を投げつけるのかわからないからだった。


 二つ、必ず毎朝名と役職を名乗ること。

 ――ラウラとは、毎日が初対面なのだから当たり前だった。


 三つ、不要な会話を禁じる。

 ――ボロを出して、ラウラが傷つかないようにするためだった。


 冷徹な夫だと決めつけた三か条は、優しさだけで構成されていた。


「はぁ……」


 ため息をついたところで、前方に人が歩いてくる。セルゲイだった。


「おはようございます、セルゲイ様。私はラウラ・エルゼ・フォレスター、あなたの妻です」


 染みついた挨拶をすれば、彼の顔色がみるみる悪くなっていく。


「そうか……イヴァンに聞かされてはいたが、本当に君は、私の妻だったのか」


 絞り出すような声だった。


 えぇ、とかなんとか話した気がする。そこからの記憶はなかった。

 気がついた時、ラウラはチョコレートケーキの材料を並べていた。


 卵と砂糖は泡立て、そこに生クリームと、きざんだチョコレートとバターを湯煎にかけたものを加える。最後に小麦粉をいれ混ぜれば、オーブンで焼き上げる。


 出来上がったチョコレートケーキを見て、ぼんやりあの日のセルゲイを思い出す。


 日は既に落ちかけている。

 晩ご飯を終えた後チョコレートケーキを出せば、セルゲイは一口食べた途端美味しいと口にした。


「私が作ったものなんですよ」


「そうか、私にはないセンスだな。野営の時一人でも君みたいな人がいてくれたらよかったのに」


 チョコレートケーキをお代わりするセルゲイの膨らんだ頬はいとけなく、ラウラは満ち足りた気持ちで椅子に体重をかける。

 

 ――今日が終わる。リセットが近づく。


 ラウラも自分のチョコレートケーキをちまちま食べだす。前回作った時と同じように外はさく、中はしっとりでとろけるような美味しさだった。

 絞られた生クリームの上に載っていたサクランボのシロップ漬けを、ひょい、セルゲイの皿に移した。彼が食べる手を留める。


「君のだろう?」


「このサクランボのシロップ漬けだって、美味しく食べてもらえた方が嬉しいでしょうから」


「この世で一番美味しそうに食べて見せる」


 大真面目な顔でこっくり頷くものだから、おかしくて少し吹きだしてしまった。イヴァンも後ろでひーひー肩を揺らしている。


 セルゲイは息つく間もなく平らげてしまった。きれいなお皿に達成感が満ち満ちる。


「美味しかった」


「よかった、この間も喜んで――」


 はっと口を押える。セルゲイにこの間なんてないのに。

 自分の今まで発言を立ち返り、どれだけ無神経だったのか。唇をかみしめた。


「ごめ、ごめんなさい」


 セルゲイの態度は、表面上は飄々としていて変わらなかった。


「気にするな」


 食べ終えれば、部屋に帰ることになった。

 セルゲイの部屋までついて行っていいかと聞けばセルゲイは快諾し、肘に手を乗せ歩く。


「寝る前の甘味は大敵ですからね、ちゃんと歯を磨くんですよ」


「了解した。ラウラも自分の歯を大切にしてやってくれ」


「私はちゃんと歯を磨くいい子なので」


 屋敷の中はさほど広くもない。すぐに目的の場所に辿り着く。

 するりと乗せていた手が落ちた。


「じゃあ、おやすみ」


 リセットの時間は刻一刻と迫っている。


 セルゲイは、寝て起きたら今日のラウラを忘れてしまう。あんなに、一緒に楽しくケーキを食べたのに。一緒に笑い合ったのに。

 積み上げた時間を、ラウラだけが抱えて生きていく。重くて重くて、持ってほしくて。


 背中にしがみついていた。


「ラウラ……っ?」


「嫌、嫌……、行かないで、お願いだから……っ」


 私を忘れないで、そんな残酷なことは言えなかったけど、きっとこれも似たようなものだった。けれど止められない。幼稚で大人になりきれないラウラが喚く。

 きつく、セルゲイのシャツを握り締める。


「ラウラ」


「寝ないでください」


 困ったような声が降ってくるが、駄々っ子は止まらない。


「お願い、お願い――」


「はーい奥様。もうお休みの時間ですよ」


 セルゲイから引きはがすように、イヴァンにひょいと持ち上げられた。そのまま、嫌々と言い続けるラウラをどこかへ運んでいく。


 セルゲイはラウラを感情の読めない顔で暫く見てから、部屋に入って行った。



◇◇◇



 空き部屋に連れてこられたラウラは、ソファに腰を下ろした。イヴァンは悪くないのに、セルゲイと引きはがされたからと顔をツーンと背けた。


「奥様」


「なに、イヴァン……って、なにをしているの?!」


 イヴァンは土下座し、頭を床にこすりつけていた。


「僕なんかの頭では軽すぎるかもしれませんが、ご容赦ください。奥様、いえラウラ様。セルゲイ様と予定通り離婚してください」


 ラウラがここに残りたいと言い出すことを、イヴァンは見抜いているようだった。

 イヴァンはずっと頭を下げたまま、話を続ける。上げなさい。声をかけても彼はきっと上げないから、ラウラはあえて言わなかった。


「セルゲイ様があのような体になったのは、僕のせいなんです。戦時中、僕は部下でセルゲイ様は上司でした。僕を庇い、代わりにセルゲイ様が大けがを負い、以降記憶は二十四時間でリセットされるようになりました。セルゲイ様にある記憶は、事故に遭う前と、その日一日だけなんです」


 なぜ、イヴァンはあれほどまでにセルゲイに献身だったのか。贖罪だったのだ、自分のせいで重い後遺症を負ったセルゲイへの。


「旦那様は、毎日――奥様に恋をしているんです」


「え」


 急に話が花畑の方へ飛んでラウラは硬直した。イヴァンは上司の恋愛事情をつらつら語る。


「毎日毎日一目ぼれをしては『かわいい』と言って、僕に色んな情報を渡すようねだってきます。奥様のよいところは楽々そらんじることができるようになりました。その時の表情ったら見ものでしたよ、思春期かよと何度ツッコみそうになったことか」


「あわわわ」


(毎日一目ぼれされてた?? 嘘……)


 頭から湯気が出そうだった。


 赤くなった頬を手でぱたぱた仰いでいると、イヴァンの声がすうと冷える。


「旦那様は幸せそうで、一年と言わずずっと奥様が側にいてくれたらいいのにと考えておりました。……奥様、旦那様の寝室に行った日のことを覚えていますか?」

「勿論よ」


『――……やめて、くれ。眠りたくないんだ、ラウラ……』


「僕は愚かにも、あの日初めて知ったんです。好きな(ひと)を忘れてしまうというのが、どれほどの恐怖か。以降聞き耳を立ててみれば、旦那様は毎日言ってました。忘れたくない、忘れたくないんだ、と」


 セルゲイのすすり泣く声は、イヴァンの精神をも疲弊させた。

 イヴァンが一時ラウラに冷たくなった理由。あれはラウラとセルゲイの接触を最小限にして、主人の心の傷を少しでも小さくしようと躍起になっていたからなのだろう。


 ラウラは知らなかった。セルゲイがそんなにもラウラを想ってくれていたことを。明るく場を和ませてくれるイヴァンが、どんなものを抱えていたのかを。


「私がいなくなれば、旦那様が泣くことはなくなるのね」


 この屋敷で他人は、ラウラ一人なのだから。そっか。ぽつりと呟きが漏れる。


 そっと椅子から立ち上がって屈んだラウラは、イヴァンの頬に手を当てた。


「セルゲイ様と予定通り離婚するわ。辛い役目をさせてしまってごめんなさい」


「いえ、すべては僕のわがままです。僕のせいで、セルゲイ様は、」


「やめて。イヴァンのせいではないわ。必要以上に自分を追い詰めないで、労わってあげて」


 ようやく上げられたイヴァンの顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。


「あなたは、悪くないわ」


「……勿体なきっ、お言葉です」


 そっか、ラウラだけは永遠に他人なのだ。


 そっか――。



◇◇◇



 残り一か月。荷造りは着々と進んでいく。と言ってもメイドたちが基本的にやってくれるため、ラウラの出番はほぼないに近しい。


 セルゲイへの朝の挨拶はやめてしまった。会っていないのだ。

 会いたい気持ちを持て余しながら、日がな一日庭を一望できるテラスで過ごしている。


 しかし今日はお茶飲み仲間がいた。

 ツェツィーリヤはなにも言わず紅茶を飲んでいる。彼女もセルゲイについて知っていたのだろう。

 ラウラだけがずっと蚊帳の外で、能天気に過ごしていたのだ。とんだ道化だと鼻で笑う。


「私は、あと少しでここを離れます」


「そう、寂しくなるわね」


 ツェツィーリヤが椅子をこちらに引き寄せ、隣に座ってきた。いつもの彼女なら絶対にしない無作法に衝撃を受ければ、肩にツェツィーリヤの頭が載る。そのまますりすりされ、大胆な行動にどぎまぎした。

 花の香りが漂ってくる。金髪が頬をくすぐる。


「本当に行ってしまうの? わたくし、また一人でお茶を飲むことになってしまうわ」


「ごめんなさい。でも決めたんです、セルゲイ様の側に私がいない方がいいなら、そうしようって」


「そう……セルゲイを愛しているのね」


(愛してる……うん、私は彼を愛しているんだ)


 セルゲイの記憶は一日でリセットされると聞いて、本当にラウラはセルゲイを愛しているのか不思議になった。ラウラの記憶を彼が忘れてしまうように、昨日会ったセルゲイにはもう会えないのだから。

 ツェツィーリヤに愛だと断言され、心がすっと軽くなる。


「手放すことが、ラウラの愛なのね。わたくしにはできなかった。みっともなく泣き喚いて、縋りついて。結局すべてを喪ったわ」


 ツェツィーリヤは多くを語らない。ラウラも深く触れようとはしなかった。


「ツェツィーリヤ様のも、愛ですね」


「うふふ」


 なでりなでり。頭を柔らかな手で撫でられる。陽の光をたっぷり浴びたシーツのように温かい。


「私、泣いてませんよ?」


「いいのよ、わたくしが甘やかしたいの」



 一か月後は、案外すぐに訪れた。

 ラウラとセルゲイは離婚届にサインをし、滞りなく離婚は成立した。



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