街中の聖女 18
世界は醜悪なほど不平等でありながら、無慈悲なまでに公平だ。
誰かが慟哭する夜に神の御手より赤子が生まれ、女が死に絶えた朝にひとりの男が妻を娶る。
そして光り輝く道の下で、ひそやかに罪は紡がれゆく。
*
目覚めると、まばゆい白色が波のようにたゆたっていた。
それは昇ったばかりの陽の光が、真っ白な窓掛け越しに溶け込んだものらしかった。穏やかな風がふわりと吹き込み、澄んだ朝の空気を部屋の中に招き寄せる。ぱちぱちと瞬き、アルマリアは身を起こす。私、いつの間に眠っていたのかしら。
ぼうっとした頭を働かせて、ようやく自分が気絶したことを思い出した。そうだ、ヴィルヘルム様やエンナたちまで魔物に襲われて————
「……っ!」
掛布を撥ね除け、寝台を出ようとしたとき、何か重たいものを感じた。戸惑って視線を下ろすと、その重たいもの——ヴィルヘルムの片肘が、のんびりと身じろいだ。
「え……、え? ヴィルヘルム様、どうして」
ヴィルヘルムは軽く瞠目し、素早い動作で乗り出してくると、アルマリアの額を片手で覆った。それからその手をするりと彼女の頬へ滑らせ、じっくりと顔色を覗き込む。どぎまぎする彼女の内心をとんと考慮せず、ずいぶん長い間見つめ続けたが、やがてほっとしたように表情を緩めた。心底安堵した、そういう顔だった。
「ああ、良かった。熱も、冷めていますね」
「えっ……、ねつ、ですか」
彼は微笑を苦笑に代え、不思議そうな妻の頭を、まるで幼子にするように優しく撫でる。
「そうです。出血多量と疲労で、貴女は高熱を出したんですよ。ぜんぜん意識も戻らなくて」
おそらく、彼は自分が深く息を吐いていることを自覚していない。やつれた頬にも、憔悴して力のぬけた背にも、色濃く残る隈にも。眉間に刻みついた皺はようやくほぐれ、瞳はよわい光が揺らめく。
アルマリアは理解した。
このひとは、たぶん、アルマリアを心配していたのだ。
ずっと。
忙しい身だろうに、おそらく夜からついていてくれたほど。
熱、とアルマリアは繰り返す。茫然として。彼女はゆるゆると自分の腕に目を向けた。清潔な包帯が丁寧に巻かれている。何度も、巻き替えられているのが分かる。
失態だ。
アルマリアは顔をしかめそうになるのを、必死でこらえた。なんてことだろう。自分に出来得る最善を尽くしたつもりで、結局は後手後手で、そのうえこんな失態を犯すなんて。
(お荷物になってどうするの!)
私が、とアルマリアは歯噛みする。私が、このひとを、守るべきだったのに!
「アルマリア」
ふと、困ったような、可笑しそうな声が降ってきた。
「何か、小難しく考えているのでしょう」
「えっ、そんなことは」
「こういうときは、深いこと考えずに、養生することだけに専念していればいいんですよ。まあ、無茶をするなといったはしからあんな暴挙に出られたことについては、怒っていますが」
「暴挙……」
とは、なんだろう。目をぱちくりさせると、彼はきりりと真面目な顔を作った。
「必要だからといって、あんなにざっくりと自分の腕を裂くなんて、馬鹿です、馬鹿」
「ば、ばか」
ヴィルヘルムの口から、アルマリアに向かって馬鹿という言葉が出たことに、彼女はかなり驚いた。彼は自分に対して、なんとなく多少の遠慮と、押し進まない程度の、なんというか、礼儀的な線引きをしていた、と思う。けれどもこのとき、その線はさらりと越えられ、彼の中のわりと近い位置に配置されてしまったような気がした。それは、そう、とても、親しいもの同士の、距離感だった。
彼は、そのことに自分で気づいているのだろうか。……もし意識的にしているなら策士だ。そしてちょっぴり意地が悪い。
「そのうえ、ドバドバ血を垂らしながら大立ち回り。倒れて当然です。反省してください」
「ご、ごめんなさい」
「あまり信用なりませんが、とにかくもうこういう無茶はやめましょう。私たちの心臓を止める気ですか」
(し、信用ならない……心臓を止める……って……)
片頬が引き攣る。今日のヴィルヘルムは辛辣だ。ばっさりざっくり切ってくる。それくらい、彼を怒らせた——いや、心配させてしまった、らしい。
この、心配、というのが、アルマリアには、難しく感じてならない。
不可解だ。慣れない。奇妙な気持ちにさせられる。
だけど、うろたえるほどありがたくて。
幸せだなあとアルマリアは思った。涙腺が弛みそうだった。この気持ちを何とたとえればいいのだろう。嬉しくて、申し訳なくて、悔しくて、情けなくて、歯がゆくて、幸福で、そして悲しい。
世界は不平等で、きっと公平だ。その公平さは、ときどき不平等さよりずっと残酷なことがある。天秤をはかるのは神だ。人はそれに打ちひしがれたり、歓喜したりする。
アルマリアは今、歓喜している。同時に、溢れるのは罪悪感だ。このひとはアルマリアの無事を喜んでくれて、でもアルマリアは、自分がまだ息をしていることが不安でたまらなかった。この手は何不自由なくやわらかな肉を持ち、充分に手当てをされ、もったいないくらいの優しさを享ける。あまりにも現実とは思えなくて、ふわふわと心許ない浮遊感がある。足場は今すぐにでも崩れそう。その先にはおのれの罪の溜まった奈落が待っている。
——あのひとは、私の罪を洗い出すのか。
嵐のような罰で。
ほとばしるような憎しみを込めて、許さないと叫んだ女の激しい眼差しが、目裏に焼きついて離れない。
アルマリアは、復讐とは、ある種の、個々人においてのみ適用する正義のようなものだと考えとている。たとえそれが他者にとっては害にしかならないものだとしても、だ。それは信仰に身を捧げ、弾圧を撥ね除けて異教徒を掃討する、大陸彼方の過激な信徒のように。
きっと、あのひとはあのひとの正義を、その身を賭して実行するのだろう。
ならばその復讐はもはや、聖人の行いのようではないか。自虐的な思考が席巻し、胸を圧迫するこれは懺悔を求める衝動だ。失態続きで、どうやら悲観的になっているらしい。我がことながらさらに情けなかった。
と、黙り込んでしまったアルマリアに、少々慌てたようにヴィルヘルムが声を和らげた。
「すみません、言い過ぎましたね。さあ、精のつくものを食べて、元気になってください。貴女が起きられたことを、他の者たちにも伝えてきましょう」
「あ、——あの! 皆様は、ご無事、なのですか……怪我は……!」
アルマリアは勢いよく顔を上げて、ようやく最も知りたかったことを訊ねた。ははは、とヴィルヘルムは凄みのある笑顔になった。
「貴女が一番重傷です」
こわい。
え、あ、はい、とおののきながらこくこく首を振った。そんな妻の様子に呆れ果てたのか、これ見よがしに溜息をついて、ヴィルヘルムは立ち上がった。
「それでは、まだ眠っていてください」
どうか安静に、と。
囁きを落とし、ヴィルヘルムは優しくアルマリアの唇をさらった。触れるだけのくちづけをされ、しかしアルマリアはみるみるうちに真っ赤になった。頬が火照って、突然降って沸いた混乱にくらりとする。夫の方はといえば、何が楽しいのかにこにこするばかり。
「ヴィ、ヴィルヘルム、様!」
「大人しくしていなければ駄目ですよ。——きなくさい話は、貴女が本調子になってからしましょう」
誰のせいで、と喚きかけ、付け足された言葉にハッと表情を改める。
アルマリアは唇を引き結び、座った姿勢のまま、深々と頭を垂れた。
彼は暗闇の中で、王宮にいるそのひとの目覚めを知った。
灯りのない部屋はしんと静まり、紗のような闇が落ちていた。唇が震え、喉が震え、瞼が震え、彼は全身で安堵の息をつく。良かった、と呟く。よかった、お目覚めになられたのだ。
そして、懺悔するように項垂れる。
(すまない、マリーシャ。おまえの仇を、討てなかったよ)
妹が大事にしていた、母の形見の髪飾りを握りしめる。古びた銀細工の、百合を象ったその飾りは、二重の形見となってしまった。
やるせない沈黙の暫しあと、ふいに部屋の机に置かれた鏡の面が揺らめいた。
彼は緩慢に瞬いた。いったい何だ——そう、腰をあげたところで、うっすらと人の影がさざなみのように立ち現れる。その影はやがてはっきりとした輪郭を持ち、芝居がかった調子でかつんとステッキを打ち鳴らした。
「やあ、失敬失敬。お邪魔するよ」
いやしかしこんな薄暗くして随分陰気ではないかね——などと失礼なことを言い放ちながら、その男がにこやかに温度のない笑みを浮かべる。クオルディスは驚きのあまり反駁すらできなかった。
「え、……あなた、は……」
確か、クロプツェン。魔鏡の主、クロプツェン=ルーサー。彼が誰だと悟ったことが伝わったのか、クロプツェンはうんうんと頷いた。
「良かった良かった、覚えていたようだね。さて、今日は少し確認にきただけなんでね、そう警戒しないでおくれ。そもそも警戒する対象でもあるまい」
そうだろう、白雪姫の忠実なる獣。
片目を妖しく輝かせて、彼は言った。
クオルディスは息を呑み、なぜ、とあえいだ。そうだ、あの時も。この男は、クオルディスを知っていた。
「なぜ————」
「なぜって、だって私はエビリス王家の真なる鏡。ましてや白雪姫の血に関係することに気づかぬはずがなかろうよ。なあ、追尾獣。自覚しているとは、この前までは知らなかったがね。いやはや、まさかリュファーニアにいようとはねえ。奇縁か、それともこれも運命かね」
「なに……どういう、意味ですか」
さあてね、とさも愉快げな声。クオルディスは困惑した。危害を加えにきたわけではないのは、確かのようだが。鏡。映すもの。エビリスの魔の鏡。何かが、頭の片隅で引っかかった。昔、母がまだ生きていた頃、マリーシャが生まれてまもない、うんと幼い頃に——
「ところで、その血の呪縛。解こうとは思わんのかね」
没頭しかけた思考は瞬く間に現実へ引き戻される。クオルディスは目を見開き、まさか、ときつい口調で言った。
「妹ともども、お仕えできるいつかを……それこそ叶わぬ願いだと、夢見ておりました。解く必要などありません」
「ふうん? まあ、いいがね。だがあまり中途半端に、あの子につきまとうのは感心しないね。アルマリアは、あれで頑固であることだし」
「中途半端なんて、」
「おまえはあの子をまるで知らぬはずだろう、それで完全とは言えなかろうよ」
ではね、と軽く片手を振り、待ったをかける間もなく、あっさりとクロプツェンは鏡の向こうへかき消えた。
「半身殿の、冥福を祈るよ」
そんな言葉を残して。
クオルディスはいきどころのない手を伸ばした姿勢のまま、茫然とした。いったい、何だったのだろう。わけが分からない。ていうか、本当に、何しにきたんだ。
まったくもって意味不明な襲来だったが、先程までのしんみりとした気持ちはすっかり吹っ飛んでいた。何だか異様に疲れたな、と思う。
寝台に背中から倒れ込み、彼は盛大な溜息を吐き出した。ぼそりと呟く。
「……とにかく、もう一眠りしよう」