街中の聖女 17
〜今までのあらすじ〜
隣国エビリスからリュファーニアの王子ヴィルヘルムのもとに嫁いできたアルマリアは、ある日変死事件を処理する場面に遭遇する。流れで血の痕が続く森に行くことにしたアルマリアたちは魔物に襲われ、いったんはばらばらになった。合流したのち、突如現れたアルマリアの友人の助言に従い、元凶と疑わしいもののもとへ向かった。待ち受けていたのはひとりの女と、奇妙な男。なんやかやの問答を経て、同行者のひとりが言う。「あなたは、魔物を、食べたのか」
おそらくきっと絶対今までの内容を覚えているひとはいないと思うので前書きします! 次回更新時には削除致します。
地の国に堕ちようと、私はおまえの骨を忘れない。
魔物に喰われて血に塗れ、さらには跡形なく消えてしまったおまえのことを。
*
「え……?」
茫然と、呟いたのは誰だったのか。
アルマリアは、クオルディスの言葉の意味を理解しきれず、ひどく緩慢に、何度も、何度も瞬きを繰り返した。息が詰まって、呼吸ができない。どくんどくんと心臓だけが鐘をつくように鳴る。
魔物を、食べた?
それは、とアルマリアの思考はそこで停滞して先へと進まない。
————それは、つまり、どういうことなのだ?
女を除きただひとり、理解しているのだろう青年を凝視する。それはアルマリアだけではなく、ヴィルヘルムやリカルド、エンナも同様のようだった。
問うような視線を一身に受け、彼は、クオルディスは言う。
彼こそ、その意味を理解できない——理解したくない、というように。
低く。
「この、女は。魔物の、肉を、おそらく……喰らったの、です。人にとって害にしかならないだろう、そんなものを、栄養に摂ったのです——言葉の、通り」
えい、よう?
背筋を冷たいものが這い降りる。栄養? それは、パンを食べるように、葡萄酒を飲むように、果物や鶏の肉を食べる、ように?
その上、人を、人の血を、呑んだ?
「すーんごい、まずいのよねえ。最初は吐きそうになっちゃった」
女が明るくぼやく。尖らせた唇のおののくほどの赤さが、見る者を惑乱させる。なんて、自然に言うのだろう。その異様さ。不可解さ。
それは、未知なるものへの恐怖とするには、あまりにも——
「な、ぜ……そんな」
そんなことをする、意味はどこにあるのだ。
「だって、勝ちたかったんだもの」
にっこりと、女は即答する。勝ちたかった。何に——魔物に?
アルマリアは愕然とした。
このひとは、魔物に勝つために、魔物の同類になろうとしたのか!
——狙いをつけられても喰われないように!
(むしろ……喰らい返したというの……!)
胃が逆流するような苦みが口の中に溢れた。信じられない。それは、いったい、どのような気持ちなのだろう。生きることの執着か、それほどの成し遂げたい思いがあるというのか。何が彼女をそこまで駆り立てる!
そうでなくとも、それは——
(狂ってる)
もはや、狂気の沙汰だ。
言葉を失うアルマリアを正気づかせたのは、背後でえずくようなくぐもったエンナの呻き声と、それを気遣うリカルドの声だった。
次いで甘い腐臭、地を這うような唸りが轟く。
「ふふ、うふ、ふふふふふ、ふふ」
女は嗤う。とびきりの喜劇を待つ子供のように無邪気に、惨劇を夢見る狂人のように邪悪に。
繋いだ手のはしから、ヴィルヘルムが動揺するのが分かる。アルマリアははしたなくも舌打ちしたくなった。
(こんなに、多く……まるでエビリスのようではないの!)
聖王家の教えがどうなっているのかは定かではないが、少なくとも国を覆う守護に罅が入ったのは事実なのだろう。押し寄せる気配は、自国では忌まわしくもよくよく慣れた、獲物を探す魔物のもの。このままでは、女の言う通り、ここ一帯が魔窟に変わる。
ぞっと血の気が引いた瞬間、アルマリアは迷わず懐から短剣を取り出し腕を斜めに切りつけた。一瞬頭を真っ白にする痛みとともにどっと血が溢れ、すぐさまじくじくとした鈍痛が身を蝕んだ。ぽたたっ……と地面に血の玉が垂れる。
「アルマリア!? 何をして、」
「私の血は毒です」
蒼白になって声を荒げるヴィルヘルムに、しっかりと目を合わせて告げる。そう、この血は毒。絢爛な花が蝶を誘うように匂いで魔物を誘惑し、噛みつかれたそのとき流れる血が彼らを殺す。まるで食虫花。
魔性の国エビリスで、彼女はそのような身で生まれ落ちた。
——破滅の子、アルマリア!
占者は怯懦した。
王は嘆いた。
妃は死した。
新たな王妃は拒絶した。
闇より濃い黒髪がアルマリアの頬を滑り、魔物を殺す血と同じほど赤い唇が痛みに開閉を繰り返す。浅い息は喘鳴と変わらず、瞳は揺らぐ。たたらを踏んだ身体は傾ぎ、しかし危うくも体勢を保つ。
彼女は見せつけるように血をしたたらす腕を掲げ、女を睨んだ。
「あなたが、魔物を、呼び寄せるなら」
ごくり、と唾を呑む。舌が絡げて、うまく喋れない。
意識が遠のきそう。
脆いおのれの身体はすでに、麻痺し始めている。
唇を噛み締める。歯が赤い唇の肉を食い破り、その端からも鮮血が伝う。
「すべて、この血で殺します」
魔物を喰らい人を殺し、聖王国を厭う女は初めてその秀麗な顔を苛立ちに歪めた。憎悪と侮蔑を孕んだ視線がアルマリアを刺し貫き、引き攣った唇から獣の如き怨嗟が放たれる。
「おのれ災厄の王女。魔性の娘! おまえが——おまえさえいなければ! おまえの存在こそが人を殺す。魔物を招く忌まわしき娼婦が!」
気が触れたように次々と上がる叫びに、アルマリアは瞠目した。
「……あ、なた、は……エビリス、の……?」
おそらくこの呟きは彼女には届かないだろう、けれどアルマリアは打たれたように気づいてしまった可能性に色をなくした。
「死ぬがいい、その血であがなえぬほどの魔物に塗れて喰われてしまえ! 地の底に墜ちろ! のたうちまわれ! 惨めに転がり醜く喰われ骨すら呑まれて消え失せろ!」
ずる、ずるり、ずる、
女の罵声に重なるように足音がする。肉体を持たない魂の残骸に惹かれてやってきた魔物たちが、今度はアルマリアの血に誘われる。巨体を引きずり、醜悪な匂いを振り撒き、耳鳴りに似た鳴き声を上げて。
クオルディスとリカルドが不穏な気配に勘づいたのか、警戒するように構えを取る中、アルマリアはさらに焦りに焦っていた。
(どうしましょう……こんなに……捌ききれない。いっぺんに襲われたら、私たちどころではなく、民家に被害が……)
それに血を流し過ぎた。目眩がする。必要だからやったこととはいえ、はやまったかもしれない。もう少し時機を窺うべきだった。
そして、女の言葉。
“災厄の子”。
その通りだ、とアルマリアは思う。もし自分の身が彼女の恨みの原因にあるならば、とそう考えるだけで今すぐ首を掻き切って死にたくなる。
「醜くは、ならないでしょうね」
しかし、おそらく誰もが聞いていなかったことについて、リュファーニアの王子が呟いた。は? と空気が止まる中、彼はにこやかに続ける。
「腐乱死体になったアルマリアは、さぞかし美しいでしょうから」
それはもう爽やかに——だがうっとりと。
勝手に想像上の腐乱死体にされたアルマリアはこの局面でずっこけそうになった。なぜ今それを言う。
「あ、の……ヴィルヘルム、様……?」
あなたの嗜好は誰も聞いてません、と言下に匂わせてもまったく分かっていないのか、大丈夫ですよ、と彼はひとり幸せそうだ。
「もちろん、白骨のみになっても、いずれかが欠けても、貴女はきっと素晴らしい美女になる。いつまでだって私が愛で続けましょう」
やめてほしい。本気で。
激していた女はすっかり鎮火し、「……頭おかしいんじゃないの……?」と洩らした。彼の妻としては否定したいところだが、いまいち否定できる要素が思い浮かばない。そんな彼女たちの微妙な雰囲気などものともせず、彼はいかにも貴公子然として、ものやわらかに微笑む。
「ですから、みすみす貴女を魔物の手に渡すなど、そんなもったいないことは私がさせません」
はっとアルマリアは上向いた。瞬きをする。食い入るように、彼を見る。そうしてから緩やかに表情を崩した。総合するとわりと酷いことを言われているはずなのに、嬉しい、と驚くほど自然に思えた。
だから、その優しい言葉を、噛み締めるようにして、頷く。
はい、と震える声で。
それに被さるように、冷めた声が落とされる。
「なあに、それ。どんな風に守ってあげるっていうのよ」
「貴女こそ、なぜ我が国をそれほど憎むのです」
ヴィルヘルムの当然の問いに女はクッと片頬を歪めた。
「なぜ、なぜ、ね。自国の身勝手さも知らず、よく言うわ。——彗」
「何……、ッ!」
刹那、黒い影が疾風のように駆けてきてヴィルヘルムに襲いかかった。あわやというところで抜き放たれた彼の剣が魔物の男の爪を防ぐ。ぎりぎりと圧し負けそうなところで拮抗する彼の後ろで、アルマリアはおのれの血に濡らした指を押しつけようと踏み込んだが、女の叱咤に似た命令に反応した男は、すんでのところで飛びずさった。そうこうするうちに足並み揃えてやってきたほかの魔物たち——おそらく、リュファーニアの国境近辺に棲息する魔物たちが、四方を囲み始める。ぎらついた、けれど空洞の眼が、アルマリアを酔ったような恍惚とした姿で見つめている。
ひた、ひた、ずるり、
そのうちの一匹が、いま一歩、闇を凝らせたような足を踏み出した。それはとかげのような頭と、いくらかの魚のひれ、ぬめる太い足を三つ持っていた。アルマリアはひといきでその魔物に近づき、血を擦りつけた。すると瞬く間に砂の城の如く崩れ落ち、爆音と耳をつんざく絶叫を轟かせて消滅する。続いてその後ろの魔物に挑みかかろうとしたとき、誰かが彼女の名を呼んだ。視線を走らせれば、ちょうどアルマリアの背に迫っていた首の長い魔物をリカルドが切り捨てるところだった。目を丸くすると今度は前方で、どこから取り出したのか、二本の取っ手から直角になった鎌のようなものを巧みに操り、クオルディスが二匹の魔物を切り倒した。思わぬ加勢にど肝を抜かれたが、慌てて声を張り上げる。
「リカルド様っ、エンナの傍に……!」
「大丈夫です!」
彼女の声を遮ったのは、エンナ本人だった。リカルドの背に付き従うように隠れながら、毛深い魔物に蹴りをくらわせている。ぼよん、と魔物の腹が揺れた。そこをすかさずリカルドが剣先で突く。アルマリアは絶句した。エンナ、強い。
(リュファーニアの侍女って、戦闘もできるの……?)
そんな場合ではないのについ疑問に思ってしまった。倒せるほどではないだろうが、最低限の自衛は可能に見える。
二人の連携に目を奪われている間にクオルディスは次々と魔物を殲滅していく。男性にしては細い身体が軽やかに黒い影の間を飛び回った。血の代わりにぬめりとした黒ずんだ靄と液体が噴き出し、あたりに散ってはねばついた跡を残して溶け消える。
あまりの猛攻にもう無茶をしないでくれと喚きそうになったが、むりやり口をつぐみ、アルマリアも後を追うように走り出した。腕を突き出し、低く宣言する。
「あなたがたの欲しいものは、ここです」
いくらでも、貪るがいい。そして滅べ。
歓喜の咆哮をあげて腕を伸ばした魔物はアルマリアの血に触れた瞬間消え失せ、相次いで突進してくるものをクオルディスが仕留める。それを幾度も繰り返すうち、とうとうアルマリアはふらついた。呑まれかけたところを間一髪で避けたものの、きりの無さにさしもの彼女も閉口した。息もずいぶん上がっている。それは、他のものたちも同様だろう。リカルドとエンナは相変わらずふたりで応戦しているし、ヴィルヘルムは男のがむしゃらな動きに何とかやり返している。最悪な想像が嵐のように脳裏を過る。苦戦する彼らを、高みの見物を続ける女が文字通り嘲笑った。
「無駄、無駄、無駄。さっさと諦めてしまえばいいのに! あは、はは、愉快ねえ。なんていい景色なの。自国の守りのために存在も忘れるほど魔物を拒絶して、ゆうゆうと暮らしてきた残酷なリュファーニアの王子様。自分のお国が壊れる様子はいかが? お可哀想に白雪姫、せっかく魔物のいない幸せな国に嫁いできたっていうのにねえ」
思い知れ、と甲高い声で彼女は罵る。万を越える悪意を込めて。
「リュファーニア近隣の悲劇を。悲惨さを。魔物の恐ろしさを! 思い知れよ!!」
吐き捨てられた呪いの言葉に呼応するように魔物は唸る、叫ぶ、身を踊らせる。女の台詞の意味を考えたくてもその余裕はなく、アルマリアは髪を振り乱してもう何匹めかになる魔物を殺した。次に移ろうとしたとき、ふとクオルディスが足を滑らせるのが視界に映った。疲弊しているのだろう、随分と顔色が悪い————
「……っ、だめ!」
彼のおかした一瞬の隙をついて、熊面の魔物が嬉々として大きなあぎとを開けていた。アルマリアはすべての思考を手放し、彼の前へとまろぶように駆ける。クオルディスを突き飛ばした彼女の頭を、あぎとが覆う——絹を裂くような悲鳴が響き渡った。時が止まったかのような、おそらく数秒にも満たない間を置き、
弾かれたように魔物の群れが吹き飛んだ。
え? とアルマリアたちの誰もが停止した。弾かれた魔物たちは、ある一定の場所で線を引かれたように留まり、もんどりうちながらもまるで苛立つように暴れ回っている。だがやはり、こちらに向かってくることはない——できない、ようだった。
全身の力がぬけて、ぺたんと座り込む。何がどうなっているのだろう。飽和状態の頭の中で、ひとつの答えが煙よりも淡く浮かぶ。
まさか、これは。
「ちっ……腐っても聖王家か」
アルマリアの考えを肯定するかのような、憎々しげな舌打ちが聞こえた。はっと振り向くと、どこか苦しげな顔をした女が、ひたいを押さえながらふらりとその身を動かした。彗、と彼女は男を呼ぶ。呼ばれた彼も、先程よりもはるかにぎこちない、不自由そうな動きで彼女のもとに戻る。ふたりが視線を交わしたのち、男は彼女を抱え上げ、屋根からひといきに地上へ降り立った。全員が総毛立ったのだろう、険しい表情で警戒の姿勢をとる。そんな彼らを女は蛆虫を見るような目で睥睨した。
「加護の程度は分かった。それに、罅も入れてやったわ。だから、今日はこれでおしまい。——ねえ、絶望した? 憎悪した? 私を呪い殺したくなった? もっと絶望しろ、憎め、もがき苦しむがいい。私は白雪姫、あんたを許さない。この国を許さない。あんたたちの存在が、」
月よりもあざやかな金の目が炎を燃やす。焼き尽くすような強い眼差しが、爛々とぎらつき、アルマリアを睨む。
「エビリスやガルリドの人間を————私の弟を殺したんだ」
それは雷撃のようにアルマリアの身を骨まで貫いた。
息が止まる。
ああ、これこそが罪。
目の前が真っ暗になる。
あ、と喉が震え唾が詰まる。
激しく彼女を揺さぶった動揺を知ってか、女はもう目を合わせることなく、魔物の男は真っ黒な足をぐんと曲げると、高く飛んで魔物の群れの中に突っ込んでいった。
「待て!」
瞬時に追おうとしたリカルドを、ヴィルヘルムが鋭い制止の声を上げて止める。しかし、とリカルドは躊躇ったが、主がゆっくりと首を横に振るのを見て追撃を諦めた。
ヴィルヘルムはアルマリアの傍まできて、片膝をついた。気遣わしげな視線があたたかな温度をともなって降ってくる。それは痛ましさに代わり、彼の手は剣の柄を放り捨て、そっと妻の肩に触れた。
アルマリアはぼうっと彼を見上げた。
罰してほしい、と痛切に思った。
ヴィルヘルム様。
(聖なる血を引くお方、)
わたしを、
「アルマリア? ……アルマリア!? エンナ、この近くの医者か、いや、警邏隊を呼んでくれ! リカルドはこっちに! クオルディス殿、エンナに付き添ってくれ! ——早く!」
血相を変えたヴィルヘルムが、いつになく必死に命じる声が聞こえる。それを最後に、アルマリアは意識を失った。
はやい風が雲を追い立て、不穏にきらめく月が見え隠れする。暗闇に閉ざされた夜は深く、人の影も血の痕も覆い隠してしまう。
夜明けはまだ遠い。
ヴィルヘルム様。
どうか。
どうかおねがい。
(わたしを、罰してください)
もう災いを、招かぬように。
たいっっっへん長い時間がかかり、申し訳ありませんでした……! 畏れ多くもいまだお待ちくださった方、本当に本当にありがとうございます……! 久々過ぎて指が震える……




