街中の聖女 16
三日月の朱唇が笑みを零す。
——————寒気がするほど、美しかった。
*
彼は“異物”であった。
魔物にはこころというものがない。ない、と。少なくともないとされている。人の中でも——魔物の内でも。
魔物にとって“こころ”というものは精神の異常であり、感情であり、“魔物以外の生物には必ず存在するもの”だった。つまり魔物には“そういうもの”がないわけで、それ故彼らは“それ”を求める。即ちこころの祖たるたましいを。視認できぬ何ものかを。
それが魔物であり、終生拭えぬ本質である。
————だが、だが、だが。
彼には“こころ”があったのだ。
生まれ落ちた時から確とその身に宿していたのである。
それはあまりに異質なことであり、詰まるところ同族に排除されるに充分な理由であったのだった。
そも、魔物というのはそれほど同族意識に厚い生き物ではなかったが、かと言って決してともに行動しないわけでもない。生物を差別なく喰らう彼らも、同族ばかりは例外だ。というよりたましいのないものを襲っても仕方がないのだろう。
ただ、それでも微かな情はあるものだ。
けれど彼らと同じ生き物でありながら、別の性質も持つ彼は、魔物の中で孤立していたのである。
己の眼に異に映るものを煙たがるのは、ある意味自然の摂理であろう。至極残酷な、まさに人の性に連なる感情ではあるが。
まぁそういうわけで、彼はひとり、仲間と遠く離れた森の中、大きな木のうろを住処にひっそり過ごしていたのだが。
ある日、彼は捉えてしまった。
あどけない人の子の、清濁併せて故美しきたましいを。
——————いいや、それとも囚われたのか?
それこそいくら“こころ”があろうとも、己にはないその何かに焦がれて。
人に恋をした魔物のお話。
エビリスを中心に、各国で細々と知られるお伽噺のひとつだ。否、寓話と言った方が正しかろうか。
特に魔物の出現率が高いエビリスでは、決して、いいや少しでも、魔物に囚われることのないようにと、痛切な願いを込めて一度は語られる話だ。街中で吟遊詩人に、救護院で村医者に、家中で母親に。
エビリスの民で知らない者は、恐らく居ないだろう。
それくらい、有名なお伽噺だった。
だが。
「…………どう、いう」
「どういう? そのままだわ」
くすり、といっそ無邪気なほど笑う、けれど毒々しい女の背後で、白い月が淡く浮かんでいる。しかしその青ざめた月も彼女の白い髪に隠されて、アルマリアの瞳には映らない。
夜だった。
昂然と輝く星々すら呑まれそうなほどの夜空が、息苦しかった。何か、何か、酷く嫌な予感がした。嫌な——けれど気付かなければいけないような、何か。
取りこぼしては、いけないもの。
「あれはね、お伽噺なんかじゃあ、なかったのよ」
クオルディスが一歩前に出た。人を殴ったこともないような手が、僅かにアルマリアの前を阻む。まるで番犬のようだ、と思ってから、護ろうとしてくれているのだと気付いた。瞬間、こんな時だというのに叫びそうになった。血の気が引く。嫌。やめて、と喉からそんな訴えが吐き出そうだった。
こわい。
(…………なさけない)
護られることが、この女より、怖かった。
金の眼が皮肉気に煌めく。星のように。
冷たく。
「これはね、愚かにも人間の女に恋をして、そしてたかが獣に殺されたのよ」
何が楽しいのか、彼女は酷く愉快そうだった。アルマリアは一瞬思考が停止した。網膜の裡で光が爆ぜて、胸の奥深くまで混乱が来す。女のすぐ傍で沈黙したままの、黒い男を思わず見つめた。
恋?
そんな、——まさか。
(だって、あれは、お伽噺で……)
魔物は、人を喰らう、もので。
魔物が、人に、恋情を抱く、なんて。
「………………どうして?」
ヴィルヘルムがそっと眼だけでこちらを振り向く気配がした。あまり馴染みのない話だからか、エンナやリカルドが困惑しているのを感じる。
だが、クオルディスは何故か、小さく息を呑んでいた。
その反応が意外で、アルマリアはほんの少し奇妙に思った。まるで、魔物と多少近い距離にいる人達のような。
そんな懐疑が過ったのは一瞬。
「どうしてその方を食べなかったのですか」
アルマリアは問うた。全身が冷たく、けれど指先だけが熱かった。そこに心臓が移ったのかのようだった。
聞かなければ、と。急かされるように、思った。
長く黒い前髪に隠れた、淀んだ瞳がアルマリアを見る。——手を。手を、握りたい。誰かの——ヴィルヘルム様、の。
女の赤黒い爪が眼に痛かった。あんなにも凝っているのに、艶めいて、月を裂く。
『……食べる……?』
木枯らしのように浮いた声が、聞こえた。
男だ。黒い、——認めるならば、魔物である筈の男の声だ。クオルディスが一層背を屈ませる。リカルドの殺気がほんの少し、怖かった。
ごくり、と唾を呑む。
『あの、娘を? イレーネを? 何故? 何故食べる?』
「え……」
滔々と、まるで意識の他にあるような口調だった。夢現を漂うような。
——何故?
その娘は、獲物ではなかったのか?
(いいえ)
人は。
魔物の、食糧ではなかったのか。
人が、魚を食べるように。羊の肉を食べるように。草の種を見分けて食べるように。
「魔物は、人を、食べるのではないのですか」
虚ろな眼差し。
全てがどうでも良いと言いだげに、けれど憎悪のような感情を孕む、その。
昏い、眼。
ああ、深い、夜が。
押し寄せて、くる。
『……ああ、娘。おまえは、美味しそう、だな』
「————!」
アルマリアははっとした。ぞくりと背筋を悪寒が走る。憎らしくも懐かしい、故国では慣れた感覚。
そうだ。自分はそういう者だった。どうして失念していたのか。彼が魔物なのだとしたら、自分は今最も餓えを満たすに魅力的な“たべもの”だろう。思わずじり、と後退する。と、微かに揺れた拳を、暖かい手の平に包まれた。視線を向ける。険しい顔をしたヴィルヘルムのものだった。それだけで、ほんの少しの安堵が広がる。大丈夫、と今日幾度繰り返したかしれない言葉を再び呟く。
『だが、たましいは、いらぬ。娘、臓物を、寄越せ』
「え、——ぞうも、つ? なん、」
「彗。がっつかないで。品がないわ。確かに白雪姫は上等だけど、さすがにあんたでも食べたら死ぬでしょう。もうすぐここらでそれなりの臓物が集まるから、ちょっと待ってなさいな」
いささか不機嫌そうに女が爪の先を伸ばした。くい、と男の顎が摘まれる。……僅か、その伸びた爪が黒い皮膚に食い込んでいるのが分かった。どうして、とアルマリアは眼を細めた。他人事なのに、妙に生々しくて、痛ましかった。どうして、この人は、こんなことが出来るの。どうして、あの人は、何も言わないの。どうして。
この人達は、仲間ではないの?
それに——
(それに、どうして知ってるの)
私の血が、魔物を殺すと。
「……臓物が集まる、とは。どういうことです」
ヴィルヘルムの押し殺したような声に、クオルディスが眼を見開く。え、と戸惑うエンナが、不意に青ざめた。
「……エンナ? どうし、」
「……アルマリア様、何か、今——すごく、嫌な気持ちに、なりました」
「…………え?」
「今迄も、心臓止まりそうでしたけれど。何か、すごく——怖い、ような」
そう言って、ぎゅ、と胸元を押さえる。アルマリアはそっとヴィルヘルムの手を解き、エンナの方へ屈み込んだ。弱く笑って、エンナは大丈夫ですと言うように首を振る。大丈夫な訳がない。酷い顔色だ。どうして、急に。
(——あ、れ?)
ふとアルマリアは気付いた。風が、吹いていない。ずっと。
大したことではないかもしれない。けれど、何故かそれが居心地悪くて堪らなかった。そう、エンナが、嫌な気持ち、というような、もの。
「……こんな平和ボケの国にもカンの良い子がいるのね。ふ、ふふ。そうね、こんなところで、ちんたらしてる暇はないんじゃない? 王子様」
「……どういうことですか」
「怖いわ。ねぇ、彗」
『…………』
「無視しないで。不愉快ね。——そうよ、もうすぐ集まるの。たくさん死んだから」
くるくる変わる表情が、吐き気がする程気味が悪い。
死んだから、という言葉に、クオルディスとリカルド、そしてヴィルヘルムの三人が気色ばむのが分かった。言葉も出ないくらい喉を詰まらせてから、クオルディスが、まさか、と呟く。まさか。その否定を乞うような口調に、酷く胸がざわめいた。死んだから。それは、何が? ——誰が?
女は嗤う。
美しく、うっそりと。
「ミュンチェス六番街コキュートス裏、マルグリット大聖堂墓地、鶏と兎亭ファーラー夫人の服屋の間にある路地、えぇとそれからあとどこがあった?」
歌うように紡がれる地名は、未だリュファーニアに不慣れなアルマリアにはほとんど覚えがない。だが。
「——エルストリッド五番街、扇子屋サルストリトスの、裏?」
震えるようなクオルディスの言葉には、酷く聞き覚えがあった。茫然とする。だって。それは。
——ああ、だけど。
記憶に蘇る声がある。余りにも近く、そして最も信用に足る声が。
“——人と魔物の仕業であろうよ”
「ああ! そうよ、それ。それが確か、最後だったかしら。とびきり丈夫な臓物ね。それもこれもほとんど彗の為にだったのだけど、漸く私にも益がくるわ」
くすくすと心底嬉しげに彼女は嗤う。
嗤う。
嗤う。
嗤う。
——万感の悪意を込めて。
「貴女が殺したのか! マリーシャ、……彼女達を!」
「そうよ?」
けろりと女は答えた。二の句が継げなくなるほどあっさりと。恐らくクオルディスもそうなのだろう、続きを口に出来ずに絶句している。当然だ。どうしてこんなに簡単に肯定されると思うだろうか。
「何故、殺したのです。あのように、無惨に。一体何の意味があったと?」
クオルディスより幾分冷静にヴィルヘルムが聞く。けれど冷え冷えとした眼差しが紛れようなく怒りに揺れている。
女はことんと小首を傾げた。
「魔物を呼び寄せる為よ」
当然でしょ? とでも言いた気だ。アルマリアは眉をひそめた。
「魔物、を……?」
「そうよ。別に美しい娘じゃなくても構わなかったのだけど。まぁそれは半分彗の為ね。臓物を与えてやったのよ。——そこの王子様もご存じないみたいだから程度も知れるけど、リュファーニアは大陸一の聖性を持っている。知っているでしょう? 白雪姫。膨大な守りが敷かれたこの地にはあんまりにも魔物が少ないのよね。居ない、と言った方が的確かしら。だけど一歩外に出れば魔物なんてうじゃうじゃしているわ。そういうのを、無理矢理この国に突っ込ませて、蹂躙させるにはどうしたらいいかしら?」
蹂躙。
ああ、まさに、その通りだ。アルマリアは思った。
彼女の言葉通り、数々の“変死体”は、確かにこの穏やかな国を歪ませる。
「ただの死、じゃあ意味がないの。民の心内を曇らせて、怯えさせ。そうして内臓の一部だけを彗に上げ、あとはそのまま。すると魔物に殺されたにも関わらず残った魂が抜け出ていくのよ。その甘い匂いに惹かれて魔物がやってくる。そうして少しずつ、外からも内からも聖性が食い破られる。それがあとちょっとで完成。それだけ。意外と簡単よね。ああそうそう、首に噛まれたような痕があったでしょう。あれは彗じゃないのよ。私が噛んだの」
「————え?」
どういうことだ。
この人は、人間なのではなかったか。
アルマリアの疑問が見てとれたのか、応えるように女が顎を引く。
「ね? お幸せな白雪姫。私、人間の、匂いがするかしら」
「何を言って、…………にお、い?」
クロプツェンの示した激痛が止んだのはこの人に会ったからだ。
そして、あの、黒い男がこの女の後ろにいたから。
だがそれだけか? 人と魔物。二つしか、選択肢は、ない?
本当に?
「……で、も。魔物、だったら。そんな、」
(“そんな”?)
自分は何と繋げるつもりなのだろう。アルマリアが長年怯え恐れ忌んできた魔物の姿は、大分型から外れてしまった。ならばこの女が魔物で、何が不思議なのだろう。
——でも。そうしたら、クロが言っていた“人”は誰?
「残念外れ。私はちゃあんと人間だわ。でも、」
「! ま、——さか。貴女は、」
くすくすと女が言いかけた時、圧されるようにクオルディスが叫んだ。眼を向けると、彼はこの数日でもついぞ見れなかった驚愕の面差しで女を見つめていた。途端、彼女は詰まらなさそうな顔になる。そうよ、と面倒そうに朱唇が動いた。
「そうよ。多分、当りだわ」
言ってごらんなさいな、と彼女は妖しいまでの貌で促す。アルマリアは息がつけなかった。ただぼんやりと、どうして彼に分かったのだろうか、と思った。彼は、きっと、魔物なんて知らずにいた筈なのに。
彼は呻いた。
呻くように、言った。
「貴女は、魔物を喰べたのか」