番外編2・契約
氷蓮と黒曜の主従契約の話。
いい感じに黒曜が育った頃に、影武者として躾をしますが物凄く苦労します。まあ元は魔物なので。
しんと静まりかえる夜の回廊。
今日は定例の氷月の相手を王宮で行い、氷月の住む母親の宮へ送り届ける途中だ。
氷蓮の後を氷月は小走りで追いかける。
大人の氷蓮の足に五歳程度の氷月が追いつくのは無理だった。だが氷蓮はそんな事で歩を緩める事なく、先に進む。何故なら早く離宮に向かい、歌蓮を取り戻す術を調べ、準備しなければならないから。
「あっ」
背後で何か音がしたが、氷蓮は気づかず先に進む。
氷蓮はそのまま母親の宮の入口に到着し、出迎えた氷月付きの侍女に氷月を引き渡そうとして背後を向くと、誰も居なかった。
「氷月?」
王宮を出た時にはいたのに、今はいない。
氷蓮はしばらく考え、そういえば何か音がした様な。
そこで思いつく。ああ、あれは氷月が転んだ音か。面倒だな。
「あの……皇帝陛下……?」
何かを考えて立ち尽くす氷蓮に、氷月付きの侍女が恐る恐る声をかけた。
「ああ、お前はここで待て」
「畏まりました、皇帝陛下」
侍女は頭を下げた。
氷蓮は来た道を引き返すと、座り込んでいる氷月を見つけた。
氷月は手に何かを持って遊んでいる様だ。
こちらはわざわざ迎えに来たというのに、床に座り込み遊んでいる氷月を見ると、氷蓮は些か腹が立った。
「氷月」
はっとして氷月は氷蓮に顔を向けた。
「あっ、氷蓮、様」
氷月は黒い物体を持ったまま立ち上がる。
「それは?」
「あ、は、はい。あっちから、転がって来ました」
氷月は転がって来た方を指差した。
「ふうん」
こいつはおそらく魔物だろう。
王宮の結界をすり抜ける程度の魔物だから、力は強く無いはずだが……。
氷蓮は屈んで氷月に右手を出した。
手に乗せろと暗に言う。氷月も理解したらしく、その黒い物体を乗せた。
(おや……こいつは)
氷蓮はじっくりと黒い物体を検分していたが、口の端を少しだけ持ち上げた。
「これはもらうよ、氷月。ああ、それと早く母上の宮殿に戻りなさい。母上が気にしている」
「はい」
氷蓮は氷月など見向きもせず、すぐにその場を立ち去り離宮へと向かった。
氷蓮は離宮につくと研究室に行き、開けた一角に結界の陣を展開させ、そこに手にしている黒い毛玉を投げ入れた。毛玉はビリビリとしたかの様なもがき方をし、数秒後にその動きは止まった。
「お前、よくこの王宮に入り込めたな」
椅子を結界近くに移動させ、足を組んで座る。
毛玉は何の反応も示さない。
「話ぐらいできるだろう? まあできなければこのまま滅するだけだ」
毛玉は様子を伺う様な雰囲気を醸し出すだけで何の反応も示さない。
「どうやら滅されたい様だな。つまらない」
結界の陣が明滅し始めた時、毛玉が小さく揺れた。
「……お前、何だ?」
結界の陣は明滅を止めた。
「漸く口を開いたか。私は氷蓮。この国の皇帝だ。お前こそ何者だ。高位の魔物のくせに何故王宮に入れたんだ? ……いや、何故入ったんだ? お前の力は無いがお前の核は高位の魔物のもの。そのお前が力を捨ててまで入る程のものがこの王宮にあるのか?」
毛玉は少し沈黙した後話し出した。
「声が聞こえた。聞いたこともないふやふやとした声だ。妙に気をひかれて行ってみれば、小さなものがふやふやふにゃふにゃ鳴いている。だから——もっと近づいて見てみたいと思ったんだ」
「ほう?」
氷蓮は毛玉——魔物にさらに興味をそそられた様だ。
「で、近づいてみてどうだった?」
「わからない。だが、あの生き物が我に触れた瞬間、全身がざわついて仕方が無かった。ざわついて、ざわついて——……」
毛玉はしばらく黙ってしまった。そのざわついた理由が何かわからず答えられない。
氷蓮は毛玉をじっと観察し、毛玉が何と表現すればいいのかわからないのだろう事を察した。
「ならばその生き物の側にいたいか、お前は」
「いたい」
毛玉は即答した。
「いいだろう。その生き物の側にいられる様にしてやろう。ただし、お前が私の言う事をきくという条件付きだ。どうする?」
「いいだろう」
「契約は成立だ」
結界の陣がビカリと光り、毛玉は全身の毛が逆立った。結界の陣は消え、氷蓮は椅子から立ち上がり毛玉を拾った。
「お前の核に隷属の印を刻んだ。これがある限り、お前は私に絶対服従だ」
毛玉はボンッと全体を膨らませ、柔らかな毛皮は雲丹の様に鋭い棘となったが氷蓮は平然と掌で転がしている。
「なんだ、核に契約印を入れたのが気に入らないのか? 核に契約印を入れるのは当然だろう。お前は魔物なんだ。今はこのような姿だが、いつ主人に牙を剥くかわからない様な獣をそこらに放るわけがないだろう。だが、お前はそのおかげで氷月に側の居られるのだ。ありがたく思え」
毛玉の鋭い棘が徐々に形を崩し、また元のふわふわとした毛玉に戻った。
「……あの生き物は氷月と言うのか?」
毛玉がぼそりと問う。
「そうだ。だが今お前を氷月の側に行かせる訳には行かない。少しの間、私が教育してやろう」
毛玉は何か不穏なものでも感じたのか、身体全体が一瞬悪寒に襲われたが、あの生き物——氷月の側に居るには氷蓮に従わねばならないという事は理解しているので、逆らう事はできなかった。
数日の間、毛玉の魔物はここで暮らす上で必要な事を氷蓮に叩き込まれた。
それを破れば即始末されてしまうので、毛玉は腹立ちながらも氷蓮が教えた事柄を頭に入れた。何故そうしてはいけないのかという理由は理解できてはいないが、してはならないという事だけは理解した。
そして、姿も毛玉から子猫に変えるよう指示されその様に変化した。本来の姿と似た様な姿なので変化は容易かった。そして満を持して氷月の元へと向かう事になった。
氷蓮は籠に毛玉——子猫を入れ、母親の宮殿にいる氷月の元を訪れた。
本を読んでいた氷月は驚きながらも、本を机の上に置いて氷蓮の側に寄る。
「氷月、これをあげよう。大事にしなさい」
氷蓮は持っていた籠を氷月に渡した。氷月はわたわたしながら籠を受け取ると、氷蓮は用は終わりとすぐに帰って行く。
「あ、あの氷蓮様……!」
氷蓮は氷月の声に振り返る事なく去って行った。
氷蓮はそのまま離宮へと向かい、寝室に入ると縁に座る。
「ふふ。あの毛玉、中々の高位魔物だ。今は力は無いが、数年、数十年もすればいい身代わりになる。そうすれば歌蓮を取り戻す準備に割ける時間も増える。ああ、だが——もし邪魔をするなら殺してしまえばいい。契約印があるのだから」
氷蓮は寝台に上がりそのまま身体を横たえた。
その隣には女物の衣装が、人が着ているような状態で置かれていた。
氷蓮はその衣装を引き寄せぎゅっと抱きしめた。
「ああ、ああ、歌蓮、歌蓮! 早く早く逢いたいよ。逢ってまた私を抱きしめて欲しい、氷蓮、愛していると言って欲しい……歌蓮、姉様……んっ、はっ……」
薄暗い部屋の中には氷蓮の切なげな声とくぐもった喘ぎだけが響き渡った。