番外編1・出会い
黒曜と氷月(緋月)の出会いの話。
しんと静まりかえる夜の回廊。
前を歩く氷蓮の後を氷月は小走りで追いかける。
大人の氷蓮の足に五歳程度の氷月が追いつくのは無理だった。氷蓮は歩を緩める事なく、先に進む。
「あっ」
とうとう氷月は衣装の裾を踏んでしまい、転んでしまった。
「ゔっ……」
すぐに立ち上がろうとして前を向くが、そこには誰もいなかった。氷蓮に置いて行かれたのだ。
冷たい回廊に一人取り残された氷月は、すぐに涙をこぼした。
「ゔっ、えっ……。ひ、れん、さまぁ……」
氷月は声を押し殺しながらも泣いた。
転んで膝を石床にぶつけて痛い、石床は冷たく固い、氷蓮に置いて行かれて悲しい、氷蓮が戻って来なくて悲しい。泣く理由は沢山あった。
暫く石床に座り込んだまま泣いていたが、外壁側の方から、ころころと黒くて丸い物が氷月の目の前に転がって来た。
それは氷月の目の前で止まった。
「えっ、なに、これ……」
びっくりして涙は止まり、黒くて丸いなにかに興味が移る。
氷月は涙を手の甲で拭うと、その黒くて丸いなにかに恐る恐る右手を伸ばし、触る。
「あ……ふあふあだぁ……」
氷月はその黒くて丸くてふわふわなものを持ち上げて膝の上に置いて撫でた。
氷月でも持ち上げられる重さのものだった。
すると手足——前足と後足の様なものが出て来てぱたぱたもがき出した。
「きゃっ! ……お前、いったいなあに?」
氷月はそれを両手で顔の前に持ち上げた。
「氷月」
はっとして顔を声の方に向けると、氷蓮がこちらに向かって来ていた。
「あっ、氷蓮、様」
氷月は黒い物体を持ったまま立ち上がる。
「それは?」
氷蓮は氷月よりも、氷月が持っている黒い物体に興味を持った。
「あ、は、はい。あっちから、転がって来ました」
氷月は転がって来た方を指差した。
「ふうん」
氷蓮は屈んで右手を出した。
手に乗せろと暗に言う。氷月も理解したらしく、その黒い物体を乗せた。
氷蓮はじっくりと黒い物体を検分していたが、口の端を少しだけ持ち上げた。
「これはもらうよ、氷月。ああ、それと早く母上の宮殿に戻りなさい。母上が気にしている」
母上——氷月の祖母の事だ。
氷蓮が来て嬉しさで緩んだ顔が、一緒でまた暗くなる。
「はい」
氷蓮はすぐにその場を立ち去った。
後に一人とり残された氷月は、止まった涙がまた溢れ出し、涙で滲んだ視界で去っていく氷蓮の背中をただ眺めることしかできなかった。
数日後。
祖母の宮殿にいる氷月の元に氷蓮が突然訪れた。
手に籠を持って。
本を読んでいた氷月は驚きながらも、本を机の上に置いて氷蓮の側に寄る。
「氷月、これをあげよう。大事にしなさい」
すると、挨拶もなく持っていた籠を氷月に渡した。氷月はわたわたしながら籠を受け取ると、氷蓮は用は終わりとすぐに帰ってしまった。
「あ、あの氷蓮様……!」
氷蓮は氷月の声に振り返る事なく去って行った。
離れた所に控えていた侍女が心配そうに見るも、氷月に近づく事はなかった。
氷月は籠を持って長椅子に座り、蓋のついた籠を開けようとしたが、蓋の方が勝手に開き、中から何かが飛び出し、籠を蹴飛ばして氷月の膝に乗っかっている。
それは——
「にゃあ」
と小さく鳴いた。
「ね、猫!? あ、もしかしてお前、あの時の?」
子猫は立ち上がり、氷月の顔に頭を擦り寄せようとした。
「あ、やっぱりそうね! このふあふあはあのときの子!」
子猫はそうだとでも言うように、にゃあと鳴いた。
「ふふ、わかった、わかったからまって、きゃあ!」
子猫は元気よく氷月に戯れついて、氷月を揶揄う様にまとわりつく。
ひとしきり戯れあった後、氷月は膝の上で大人しくなっている子猫を撫でる。
「名前、きめないとね。なにがいいかなあ……」
氷月は子猫を撫でながら名前を考える。
「あ、黒曜。黒曜がいいわ。お前、まっくろだもの。黒曜石みたいにきれいで真っ黒だからね。お前は今日から黒曜よ。わかった?」
子猫は頭を上げ、氷月を見上げるとにゃあと鳴いた。
数年後。
祖母が公から引退し、代わりに祖母の宮殿の主となった氷月は一人、いや——一人と一匹で部屋の中で鬱々としていた。
月の光が差し込む窓辺に椅子を運び、座る。
その膝の上にひらりと黒曜が乗っかる。
「ふふ。黒曜、あなた大きくなったわね。毛もふわふわからしっとりに変わってしまって。でもどちらの手触りも好きよ、私」
氷月は微笑しながら、滑らかでしっとりとした毛を撫でる。
黒曜は気持ちがいいのか、ゴロゴロと喉を鳴らす。
「…………十五歳になったから、もうすぐ氷蓮様と『月命の儀』を行うけど。私、私を氷蓮様は愛してくれるのかしら。私は氷蓮様をお慕いしているけれど、氷蓮様は私の事なんて——」
氷月は黒曜を撫でる手を止めた。
黒曜は顔を上げ、じっと氷月を見つめる。
「ああ、ごめんね。はい、これでいい、黒曜」
また黒曜を撫で始めると、黒曜は尻尾を振った。
「ふふ。…………ねえ、黒曜。あなたはずっと私と一緒にいてね。氷蓮様の所に行っても、ずっとずっと一緒にいてね」
黒曜はじっと氷月の言葉を聞いている様だったが、黒曜は突然立ち上がり氷月の唇に自分の口をつけ、ちろりと氷月の唇を舐めた。
「え、ええっ!? こっ、黒曜!?」
氷月は驚いて黒曜を掴んで顔から離すが、黒曜の目はじっと氷月を見つめている。
「…………もしかして、約束したよって意味、かしら……?」
何となくそんな雰囲気を感じたので、氷月がそう言ってみると「にゃあん」と黒曜は鳴いた。この間合いで鳴かれると肯定してる様に思えてならない。
「そう、そうなのね。ありがとう、黒曜。約束よ。私達はずっと一緒。どちらか死ぬまで一緒よ」
氷月は黒曜を肩に乗せる様にして、抱きしめた。滑らかな毛皮が頬に触れて気持ちいい。
黒曜も喉を鳴らして、気持ちよさそうだ。
約束だよ、氷月。
僕達はずっとずっと一緒。
たとえ死んでも——一緒だよ、氷月。
黒曜の金色の瞳が力強くギラリと輝いた。