十二章 春詠・十五
さて。そろそろ行こうか。
支度を終えた私はまた指輪を嵌めて、向こうの世界に行く。
今回は氷蓮ではなくあの女の方に用がある。
「ハル、あの世界は今のままだと死んだままだよ」
本棚に本を片付けている時、背後から突然言われた。
振り向くと、ソファに座ってくつろぐ遊焔がいた。珍しく燥焔は居なかった。
「どういう事だい?」
私はまた本棚に本を戻し始める。
いきなり出て来ていきなり消えるのももう慣れた。
「うん、あの世界には生贄——神とか管理者とか、まあそういったのが居ないから、ちゃんと活動しないんだ。だから見つけなよ、生贄」
「成程」
だから何も無いという気配しか無いわけだ。
裂かれる前の静欒なら、何も無くてもなんとなく草木や空気、空間ですらもなんとなく生命力の様なものを感じられていた。
でも今の世界には『物がある』というだけで『物から出る生命力』という様なものを感じない。例えるなら美しき死の世界、かな。
「生贄を見つけたとして、どうすればそれを世界に捧げられるんだい」
生贄はもういるからね。処理方法さえわかればいい。
「ああ、手順は教えるよ。多分ハルならできると思う。駄目そうなら俺達が補助するよ」
「そうかい。ありがとう」
本を片付けた私はソファの方を向く。
「それは今すぐ習った方がいいかい?」
「んー。まだかな。ハルの身体がまだ術に耐えられないから、もう少し後かな」
遊焔はじっと私を見て、検分してから言った。
「わかった。生贄は生きてた方がいいのかい、それとも死体の方がいいのかい」
「どっちでも大丈夫だけど、腐敗の進み過ぎた死体は駄目だね」
遊焔とのやり取りを思い出しながら、どっちがいいのか考えて、あの女が死んだ後に処理をする事にした。どのみち今の私に力量がないのだからね。
さて、以前着いた場所とあまり変わらない所だけれど。
外に人の気配はないが、洞窟のあの暖簾の奥には人の気配があった。
「失礼するよ」
私は遠慮なく暖簾を捲って何に入る。
「あら。あなた、確か皓緋と一緒にいた人ね」
あの女——歌蓮は軽く驚いた表情をしたが、特に気にする風もなく、寝台で眠っている氷蓮の頭を優しく撫で始めた。
私はぐるりと洞窟の中を見回した。
意外にきちんと生活しているんだねえ。もっと杜撰、というか適当な作りかと思ったけど。
木箱をバラして棚や寝台を作るなんてね。器用な事だ。
一通り中を見終えた私は二人のいる寝台へと進む。
氷蓮は具合が悪い様で、眉間に軽く皺を寄せながら眠っていた。
そんな氷蓮の側で、歌蓮はゆっくりゆっくりと優しく慈愛に満ちた表情で氷蓮の頭を撫でている。
「ふうん。随分と弱っているね」
私は氷蓮を一瞥し、そう言った。
「ええ。この子、ここの環境になかなか慣れなくて、少しでも無理をしたり朝晩の寒暖差とかでもすぐに体調を崩すの。無理する必要なんて何も無いのに、ちょっと根をつめるだけでもこうなっちゃうんだから。ほんと困った子なんだから」
まあそれはそうだろうね。氷蓮は半分しか無いからねえ。そりゃあ体調も崩すだろうさ。
けれども歌蓮は氷蓮が体調を崩しているというのに、それすらも愛おしくて可愛いと思っている様で、心配気な表情はなく、ただ愛おし気な眼差しで氷蓮を撫でている。
その様はまるで——
「母親の様だね」
そう。夫婦というより、姉弟というより親子という括りが一番しっくりきた。
「あら、そんな風に見えたかしら」
歌蓮は気を悪くすることもなく答えた。
「ああ。病気の子を慈しみ宥める母親に、ね」
「ふふ。嬉しいわ。私、この子の母親もしてたもの」
「そうなんだ。でも普通、妻が母親みたいだなんて言われて喜ぶ女はいないんじゃないかい」
「まあ普通はそうよね。妻が母親みたいだなんて言われたら、妻としては腹が立つわよね。でも私は氷蓮の中の全ての『女』の立場になりたいの。妻、姉、母、娘、妹、友——。氷蓮の想像する全ての『女』は私じゃないと嫌なのよ」
ふうん。成程ねえ。
この女は強かさ、傲慢さ、慈愛、色欲、母性——、何と表現すればいいのかわからないが、そういった全ての感情が滲み出るような、強い自信と勝ち誇ったような笑みを見せた。
何だろうねえ、その謎に満ちた笑みは。何か腹が立つけど、悔しいとも思わないのも変な感じだ。
「強欲だな」
「そうよ。私は欲しいものは必ず手に入れるわ」
私は答えず軽く肩を竦ませ、別の話を振った。
「君の体調はどうなんだい」
「私? 私は問題ないわね。毎日元気に楽しく生活しているわ」
「そうかい。やっぱり君は、というか緋月の身体か。身体はこの世界で生きていける様になっているね」
「そうね。そのために作った子だもの。ちゃんと役に立ってもらわないと困るわ」
「その身体も随分君と馴染んでいる。もうほぼ同化していると言ってもいい」
「あら、そうなの? あなた、よくわかるわね」
「まあね。一つ質問だけど、君はその子が亡くなったら一緒に逝くのかい」
「うーん、そうねぇ。その時の状況によるかしら」
「おや。てっきり一緒に逝くと思ったのに」
「だから、状況次第よ。子供がいなければ勿論すぐ一緒に逝くわ。でも子供がいたら、妊娠中だったらすぐ一緒には逝けないわ」
「おやおや、随分と愛情深い。緋月のことはあっさり捨てたくせに」
くくっ、と嫌味をのせて笑う。
歌蓮は私を見上げ、軽く睨む。
「当たり前じゃない。氷蓮と私の子よ。できる限り大事に育てたいわ。あんな子と比べるなんて論外よ、もう!」
「ふふっ、それは失礼したね。でも君に氷蓮の子供ができることはないよ」
「あら、どうして?」
「氷蓮に子種がないから」
「何故そんな事がわかるの?」
「うーん、わかるからとしか言いようがないかな」
そっちはもう近親交配が強すぎて、子種が出来ない身体になっている。双子の肉体改造のせいか、見るだけで何となくわかる様になった。
「そう」
お互い暫く沈黙が続くが、歌蓮は相変わらず愛し気に氷蓮の頭を撫でている。
氷蓮の方は目覚める気配もなく、まだ少し苦し気な表情だ。
「ねえ、贈り物、ありがとう。とても助かったわ」
歌蓮が口を開いた。
「ああ。役に立ったなら良かったよ」
「氷蓮から話を聞いたわ。確かにこの世界には、生物はいない様ね。あちこち見て回っているけど、まだ一度も見かけないわ」
「そうだね。生物が産まれるにしてもまだ当分先の話だね。というか、君、そんなにあちこち回っているのかい」
「そうよ。氷蓮が動けない分、私が動かなきゃ。でもこの子、私ばかりが動き回るのを気にしてすぐ無理をするの。今まで色々頑張ったんだから、もっと私に甘えてのんびりしてくれればいいのに。ふふ」
歌蓮は愛おし気に氷蓮を撫でているが、その顔から慈愛の表情は翳り、淋しげな表情になる。
「でも本当はこの子、怯えているのよ。私が自分の知らない場所で死んでしまうんじゃないかって。だから私が帰ってくると心底喜んで、ほっとして抱きついてくるの。そんな氷蓮を見るともう、愛しく愛しくて愛し過ぎてちょっといじめたくなるぐらい可愛いのよ……て、あらごめんなさい」
少ししんみりとした空気になるが、歌蓮はすぐに気を取り直す。
「そう。だからここで暮らす事に不満とかは無いけれど、氷蓮のその不安だけは取り除いてあげたい。……ん、私はここにいるわよ。安心して」
氷蓮が小さく「かれん」と呟いたので歌蓮は安心させ、額に優しい口付けを落とすと、氷蓮の眉間の皺が少しゆるんだ。
「ねえ、君。私が君の願い——、氷蓮と一緒に逝く様、魂を繋げてあげると言ったらどうする?」
「勿論お願いするわ!」
歌蓮は何の躊躇いもなく即答した。私が少し引くぐらいの勢いで即断即決だ。
「それで、私は何をすればいいのかしら」
「っふふ。君は本当に察しがいいね。緋月とは大違いだ」
私は軽く笑い、アレがどれだけ愚鈍だったのかと改めて思った。
「本当に失礼ね、あなた。私をあんな子と一緒にしないで頂戴! それに大きな願い程、タダで叶うはずなんてないわ。裏があって当然よ。で、何をすれば良いのかしら」
「ふふ、話が早くて本当に助かるよ。私が君達の魂を繋いであげよう。寿命は均等になり、逝く時は同時だ。ついでに彼の身体は多少丈夫にはなるだろうけど、日光に弱い体質は治らない。対価は君にこの世界の母となって欲しい」
歌蓮はきょとんとした表情になった。私の言うことが突拍子もないことだったらしく、いまいち想像ができない様だ。
「知っての通り、この世界は産まれたばかり。生物なんて、君達しかいない。新しく生命を産むには栄養がいるんだ。本来であれば緋月の魂と肉体が二つの静欒の繋ぎになり、養分となるはずだったんだが——、予定通りには進まなかったから、この世界は生命が、生物がいないんだ」
「成程ね。わかったわ。でもそれはどうすればいいのかしら」
「特に何もしなくていいよ。君が逝ったら自動的にこの世界と同化する。完全に同化するまでは何百、何千年とかかる。それまでは君としての意識も残るから、この世界の成長する様も見られるよ」
「まあ。この世界の幽霊……ううん、お母さんになるのね、私。ふふ、楽しそう。ねえ、でも氷蓮はどうなるのかしら。私が死んだらこの子とは離れ離れになるのかしら」
「それは無い。彼の魂は君に同化する。彼の自我もゆっくりと君の魂に溶けこんで無くなるよ。一度繋いだ魂は分離できなく……はないけど、君達には必要ないだろう?」
「勿論必要ないわ。良かった。この子を一人になんて絶対にできないもの。ええ、喜んで契約するわ」
満面の笑顔で歌蓮は答えた。
「ありがとう、契約は成立だ。特に何もする必要はないよ。こちらで調整するから。ああ、そうそう。物資は定期的に届けるよ」
「よかったわ! 食べられる野草は結構あるけど、お肉やお魚はないからね、どうしようかなって考えてたの。だからもしまたあなたが来たらお願いしようと思ってたから助かったわ」
私はやや呆れながら歌蓮を見る。
「君は本当に強かというか、図々しいというか……まあいいよ。じゃあね」
私は立ち上がり、洞窟の外に出て行き、指輪に念じて自室に戻った。