第8話 最初の夜、ベッドは猛毒
街の宿屋「踊る大鷲亭」。
その一室で、僕は戦慄していた。
目の前にあるのは、真っ白なシーツが張られたシングルベッド。
中身がたっぷりと詰まった水鳥の羽根布団に、ふかふかの枕。
窓からは月明かりが差し込み、清潔なリネンからは、昼間の太陽をたっぷりと吸い込んだ「お日様の匂い」が漂っている。
……ヤバい。
これは、完全に「殺し」に来ている。
ゴクリ、と喉が鳴った。
僕の生存本能が、サイレンのように警鐘を鳴らしている。
この白い直方体は、ベッドじゃない。
「ふかふかの処刑台」だ。
「……寝たら、死ぬ」
試しに、指先で枕を押してみる。
沈み込むような柔らかさ。指の皮一枚隔てた先にある、吸い付くような布の感触。
『ピコン』
> [ 警告:微弱な幸福感を検知 ]
> [ バッテリー残量:12%……低下中 ]
「ひぃっ!?」
指先だけでこれだ。
もし全身でダイブすれば、数分……いや、数秒で意識を持っていかれるだろう。
「気持ちいい」と感じた瞬間に電源が落ち、現実世界のあの部屋で心臓が止まる。
安眠の完成だ。
「床だ……床なら硬いし、いけるはずだ!」
僕は布団を剥ぎ取り、板張りの床に直に寝転がった。
背中に伝わる木の硬さ。隙間風の冷たさ。
これなら少しは不快だ。これなら――。
……だめだ。
静かすぎる。
屋根がある。壁がある。モンスターが襲ってくる気配がない。
「安全」という事実そのものが、僕の心を温かい泥沼へと引きずり込んでいく。
『ピコン』
> [ 警告:安心感を検知。残量 8%……危険域です ]
「くそっ、なんて強力な結界(治安の良さ)なんだ……!」
このままでは、朝を迎えることなく死ぬ。
恐怖をくれ。
胃液が逆流するような、心臓を鷲掴みにされるような、強烈なストレスを!
その時。
僕の脳裏に、今日出会った「最強の充電器」の顔が浮かんだ。
隣の部屋。
銀髪のヤンキーエルフ、シルフィ。
彼女なら。
あの理不尽な暴力と、汚い言葉のシャワーなら、この致死性の安らぎを中和してくれるはずだ。
「……行くしかない」
僕はゆらりと立ち上がった。
足音を忍ばせ、ドアを開ける。
深夜の廊下は静まり返っている。
隣の部屋の前で立ち止まる。
ノック?
いや、そんな礼儀正しいことをすれば、彼女は「普通に」対応してしまうかもしれない。
必要なのは「怒り」だ。「殺意」だ。
寝込みを襲う変質者として、最大限の恐怖を引き出さなければならない。
僕は、ドアノブに手をかけた。
鍵はかかっていない。不用心なエルフだ。いや、彼女の強さなら誰も襲わないという自信か。
ギィィ……。
建て付けの悪いドアが、ホラー映画のような音を立てて開く。
部屋の中は暗い。
ベッドの上で、シルフィが規則正しい寝息を立てている。
僕は、忍び足で枕元まで近づいた。
月明かりに照らされた寝顔は、悔しいほどに整っている。
だが、僕が用があるのはその美貌じゃない。
スゥ……。
鼻を近づける。
漂ってくるのは、シャンプーの香りと――微かな、安タバコのスモーキーな残り香。
「……いい匂いだ」
肺が生き返る。
この、喉をイガイガさせるヤニ臭さこそが、僕の生命線だ。
僕は、彼女の顔の直上で静止し、ただひたすらに彼女を見下ろしながら、無言で立ち尽くした。
起こさないように。でも、目が覚めた瞬間に絶叫するように。
焦点の合わない目で、ニタニタと笑いながら。
……ん。
シルフィの瞼が、ピクリと動いた。
「……んぅ……?」
碧眼が、うっすらと開く。
視界のド真ん中、至近距離に、パジャマ姿の男が満面の笑みで見下ろしている。
数秒の沈黙。
そして。
「――ッ!!??」
シルフィが息を呑んだ。
恐怖で声が出ないのか、顔が一瞬で蒼白になる。
その瞳に、ありありと浮かぶ「絶望」と「戦慄」。
(いいぞ……! その顔だ……!)
僕の心臓が、歓喜で高鳴る。
さあ、くれよ。
僕に、生きるための活力を!
「ギ……」
「ギ?」
「ギャアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
鼓膜を突き破るような悲鳴。
直後、視界が反転した。
「死ねェェェェェ!! ボケェェェェ!!!」
ドガッ!! バキィッ!!
鳩尾に強烈な蹴りが突き刺さる。
身体がくの字に折れ、部屋のドアを突き破って廊下まで吹き飛ばされた。
「ガハッ……!」
背中を壁に強打する。
激痛。呼吸ができない。
肋骨が一本、いや二本はいったかもしれない。
「二度とツラ見せんな! このド変態!!」
バタンッ!!!
目の前で、ドアが乱暴に叩きつけられるように閉ざされた。
鍵をかける「ガチャガチャッ!」という焦った音が響き、中から「なんやあいつ……マジで無理……」という、震える声が聞こえてくる。
廊下に残されたのは、激痛に悶える僕一人。
冷たい床。
ズキズキと痛む腹。
全身を駆け巡る「殺されかけた」という余韻。
最高だ。
これ以上ないほどに、気分が悪い。
『ピコン!』
> [ 恐怖値を検知:殺害予告および肉体的苦痛 ]
> [ 急速充電開始……80%……MAX!! ]
「はは……、あー……痛い……」
僕は、硬くて冷たい廊下の床に頬を擦り付けた。
「おやすみ、シルフィ……」
僕は廊下の隅でダンゴムシのように丸まり、安らかな(他人から見れば行き倒れのような)眠りについた。
翌朝。
宿の主人に通報されかけたのは、言うまでもない。
(続く)




