第9話 借金という名のエネルギー
廊下での野宿から目覚めた朝、僕は重大な事実に気づいてしまった。
「……あれ? あんまり怖くない」
脇腹はズキズキと痛む。昨晩、シルフィに蹴られた跡は青あざになっている。
本来なら、この痛みこそが最高のスパイスのはずだ。
だが、どうしたことだろう。
バッテリー残量は「60%」。MAXまで届いていない。
(慣れて……しまったのか?)
人間とは、恐ろしい生き物だ。
「夜這いしたら蹴られる」という学習をしてしまったせいで、脳が予測可能な痛みとして処理し始めている。
予測できる恐怖は、もはや恐怖ではない。ただの「業務」だ。
マズい。非常にマズい。
このままでは、いずれ彼女の殺意すら「日常」となり、僕は平和ボケして死ぬ。
新たな刺激が必要だ。
物理的な痛みとは違う、もっと内臓を直接雑巾絞りするような、冷たくて重いストレスが。
「……おい、変態。いつまでそこで寝とんねん」
頭上から、不機嫌そうな声が降ってきた。
見上げれば、シルフィが蔑みの目で僕を見下ろしている。
その手には、朝食代わりの果実酒の瓶が握られていた。
「酒臭っ……」
「あぁん? 文句あるんか?」
「いえ! 素晴らしい芳香です!」
……待てよ?
酒?
僕は、彼女の手にある酒瓶を凝視した。
そして、閃いた。
物理がダメなら、社会だ。
この世には、暴力よりも恐ろしく、人を一瞬で破滅させる数字の魔法があるじゃないか。
「……シルフィさん。喉、渇いてませんか?」
僕は、にちゃりと粘つく笑みを浮かべた。
***
街一番の高級酒場「黄金の杯」。
昼間から薄暗い店内は、カビとアルコール、そして金を持て余した冒険者たちの脂っこい熱気で満ちていた。
「へぇ、自分、太っ腹やんけ。ここ高いで?」
シルフィがソワソワとメニューを見ている。
普段は安酒場の水っぽいエールしか飲まない彼女にとって、ここは未知の領域だ。
「遠慮しないでください。君には、最高の酒がふさわしい」
僕は紳士的に(内面は必死に)勧めた。
「マジで? ほな、この『ドワーフの火酒』……」
「安すぎます!!」
僕は机を叩いた。
「そんな数百ゴールドの駄水で、君の喉を潤せるわけがない! 店員さん! この店で一番高い酒を持ってこい! 年代物の、そう、ボトル一本で家が建つようなやつだ!」
「はあ!? 自分、アホか!? 破産するで!?」
シルフィが目を見開いてドン引きしている。
その「破産」という言葉の響き。
背筋がゾクリとした。
いいぞ。その単語だけで、バッテリーが1%回復した気がする。
「いいんです。君のためなら(僕の充電のためなら)、金なんて紙切れ同然です」
数分後。
恭しく運ばれてきたのは、琥珀色に輝く『古竜の涙(50年物)』だった。
芳醇すぎる香りが、逆に鼻につく。
「……知らんで。ウチほんまに飲むで?」
シルフィがおずおずとグラスに口をつける。
そして、その瞳が輝いた。
「……んっま!! 何これ、めっちゃ美味い! 喉焼けるけど最高や!」
「でしょう、でしょう! さあ、おかわりもどうぞ!」
グイグイと飲み干していくシルフィ。
空になるボトル。追加される注文。
積み上げられていく伝票の山。
僕は、その伝票の束を、震える手で手に取った。
一番下。
合計金額の欄を見る。
『合計:580,000 G』
「――――ッ!!??」
時が止まった。
58万。
日本円にして、約580万円。
たった一時間で。僕の全財産どころか、内臓を売っても足りない金額。
サーッ……。
音がした。
全身の血液が、重力に従って足元へ急速落下していく音だ。
指先が氷のように冷たくなる。
胃の底が鉛のように重くなり、吐き気が込み上げる。
払えない。
絶対に払えない。
この世界の借金取りは、日本のそれとは違う。
待っているのは「奴隷鉱山」か、あるいは「実験動物」か。
社会的死。人生の終了。
未来永劫、薄暗い地下で鎖に繋がれる未来が、リアルな映像となって脳内を駆け巡る。
怖い。
痛いよりも、苦しいよりも、ずっと「現実的」に怖い!
『ピコン!』
> [ 恐怖値を検知:経済的破滅(多重債務) ]
> [ ボーナス判定:『将来への絶望』 ]
> [ 急速充電開始……150%……200%……限界突破!! ]
「う、うふ、うふふふふふ……!!」
僕の口から、乾いた笑い声が漏れた。
顔面は土色、脂汗でびっしょりになりながら、ガタガタと震える手で伝票を握りしめる。
すごい。
暴力なんて目じゃない。
「数字」という暴力は、精神を直接削り取ってくる!
「おい、自分……顔色ヤバいで? 死にそうやんけ」
すっかり上機嫌で赤ら顔のシルフィが、心配そうに(いや、呆れ顔で)覗き込んでくる。
その顔を見て、僕は確信した。
こいつは、金食い虫だ。
歩く請求書だ。
僕を破滅へと導く、最悪の疫病神だ。
「最高だ……シルフィ……」
「は? 何言うてんねん」
「もっと飲め……! 借金まみれにしてくれ……! 俺を奴隷鉱山送りにしてみろよぉぉぉ!!」
僕は涙とよだれを垂らしながら絶叫した。
店中の視線が、憐れみと恐怖を含んだものに変わる。
「……あ、こいつ酔っ払ったな。めんどくさ」
シルフィはため息をつくと、残った酒を一気に煽り、伝票を僕の胸ポケットにねじ込んだ。
「ほな、ごちそうさん。ウチ先帰るわ。……あ、支払いは身体で払うとけばええんちゃう?」
「え?」
シルフィが店を出て行く。
残されたのは、僕と、58万ゴールドの伝票と、腕まくりをした屈強な店員たち(元Aランク冒険者)。
「お、お客さん……? お支払いは?」
店員の手が、僕の肩に置かれる。
その握力は、骨がきしむほどに強い。
「ひぃッ……!!」
恐怖。絶望。
そして、身体の奥底から湧き上がる、爆発的な魔力。
その日。
酒場「黄金の杯」の裏口から、黄金のオーラを纏った謎の変質者が、屈強な店員たちを音速で振り切って逃走する事件が発生した。
後に残ったのは、伝説の無銭飲食の記録と、
「借金がある限り、俺は最強だ」という、意味不明な書き置きだけであった。
(続く)











