第7話 運命の再会、あるいは変質者
息が切れる。肺が焼けるように熱い。
フカフカした草原を、泥だらけのパジャマ姿でひた走る。
平和だ。あまりにも平和すぎる。
頬を撫でる風は優しく、鳥のさえずりは脳が溶けるほどに心地よい。
このままではマズい。「安心感」という猛毒が、僕の生存本能を蝕んでいく。
早く。早く摂取しなければ。
もっと強烈で、理不尽で、胃の底が冷え込むような「本物の恐怖」を!
「……いた」
視界の端、輝く銀色の髪が揺れた。
透き通るような白い肌、宝石のような碧眼。
間違いなく、シルフィだ。僕の運命の充電器。
以前の僕なら、彼女の機嫌を損ねないよう、細心の注意を払って声をかけただろう。
だが、今の僕は違う。
「普通」の接触では足りない。彼女の導火線に、最短距離で火をつける必要がある。
(ぶつかる……!)
僕は走る速度を緩めない。
いや、むしろ加速した。
「うおおおおおおお!!!」
「……あ?」
彼女がこちらに気づき、振り向いた瞬間。
僕はブレーキをかけることなく、砲弾のようにその華奢な身体へ突っ込んだ。
ドガッ!!!
「ぐッ……!?」
鈍い衝撃音が、頭蓋骨に響く。
硬い。見た目の華奢さに反して、彼女の体幹は鋼鉄のように強靭だ。
跳ね返された僕の方が、無様に尻餅をついて転がる。
ジンジンと痺れる肩の痛み。
土の感触。
そして、鼻先をくすぐったのは――。
「……っ」
これだ。
鼻腔を突き抜ける、鋭い柑橘の香り。
その奥に潜む、喉をイガイガさせるような安タバコのスモーキーな残り香。
この「矛盾した臭い」こそが、僕にとっての酸素だ。
肺いっぱいにその空気を吸い込み、僕は震える顔を上げた。
そこには、太陽を背に受けて仁王立ちする、銀髪の少女がいた。
「……おい」
空気が、凍りついた。
鳥のさえずりがピタリと止む。
彼女がゆっくりと、僕を見下ろす。
整った眉間に、彫刻刀で掘ったような深い溝が刻まれていく。
美しい唇が歪み、般若の形相へと変貌する。
「……あぁ?」
ゴゴゴゴ……と、地鳴りのような重低音が鼓膜を震わせた。
可憐な喉から発せられたとは信じがたい、ドスの利いた唸り声。
治安の悪い駐車場でしか聞けない、あの特有の「殺気」が、物理的な重圧となって僕の全身にのしかかる。
「どこ見て歩いとんじゃ、ワレェ」
来た。
これだ。
背筋を氷柱で貫かれたような、ゾクゾクする戦慄。
胃の腑が縮み上がり、心臓が早鐘を打ち、冷や汗が一気に噴き出す。
怖い。
本気で怖い。
今すぐにでも逃げ出して、布団被って震えていたいほどに恐ろしい。
だからこそ――充電される!
『ピコン!』
> [ 恐怖値を検知:ヤンキーエルフへの畏怖 ]
> [ 急速充電開始……80%……120%……!! ]
全身の血管が収縮し、生きるための活力が満ちていく。
この殺気が、僕を「生」へと繋ぎ止めてくれる。
「あぁん? 黙ってんとちゃうぞコラ。慰謝料の準備はできとんのか? 金がないなら臓器で払うか? あぁ?」
シルフィが、僕のパジャマの襟首を乱暴に掴み上げる。
至近距離。
碧眼の奥にある絶対零度の殺意が、僕の眼球を刺し貫く。
通常の人間なら、ここで恐怖にひきつり、許しを乞うだろう。
僕だってそうだ。足はガクガク震えているし、歯の根も合わない。
けれど、それ以上に。
溢れ出してくる感情があった。
それは、「感謝」だ。
「……ぅ、ぐッ……」
僕の目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
恐怖のあまり歪んだ顔で、鼻水を垂らしながら、僕は震える声で絞り出した。
「あ、ありがとう……っ!!」
「……は?」
シルフィの動きが、ピタリと止まった。
「ありがとう……! 怒ってくれて、ありがとう……! 君のその殺気が、最高に怖いよ……! ゾクゾクする……! もっと、もっと僕を罵ってくれ……!」
僕は、襟首を掴む彼女の手に、自分の両手を重ねてすがりついた。
指先に伝わる彼女の体温と、強烈な殺意。
それが嬉しくて、尊くて、涙が止まらない。
「うぅ……っ、待ってたんだ……君のその、タバコ臭い息と、暴力的な言葉を……っ!」
静寂。
草原に、僕のすすり泣く声だけが響く。
シルフィは、僕の襟首を掴んだまま、口をポカンと開けて固まっていた。
般若のようだった顔から、徐々に怒気が抜けていく。
代わりに、その美しい瞳に宿ったのは――。
「……何やこいつ」
それは、未知の生物を見るような、底知れぬ「ドン引き」だった。
「キッショ……」
バッ、と汚いものを触ったかのように、彼女が僕から手を離した。
僕は地面に叩きつけられるが、すぐに起き上がり、正座して彼女を見上げる。
「え、あ、あの……?」
「関わったらアカン奴や。これ、ホンマもんのアカン奴や」
シルフィが、露骨に後ずさりをする。
その視線には、さっきまでの「獲物を見る目」はない。
あるのは、「路地裏で死んだネズミを見る目」だ。
「近寄んなや。うわ、泣き顔キモッ。何感動してんねん。頭湧いとるんか?」
蔑みの言葉。
ゴミを見るような目。
グサリ、と心が傷つく音がした。
社会的な尊厳が、音を立てて崩れ去っていく。
『ピコン!』
> [ 恐怖値を検知:社会的抹殺(変質者認定) ]
> [ ボーナス加算……150%!! ]
(す、すごい……!)
暴力だけじゃない。
この「蔑まれる視線」もまた、極上のエネルギー源になるのか!
僕は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、満面の笑みを浮かべた。
そして、後ずさる彼女に向かって、膝行でにじり寄る。
「待ってくれ! 君が必要なんだ! 僕の充電器になってくれ!」
「ヒッ……! こっちくんな! 衛兵呼ぶぞ! いや、騎士団か!? どっちでもええわ、誰かこいつを捕まえてくれぇぇ!!」
異世界最強のヤンキーエルフが、悲鳴を上げて逃げ出した。
それを、パジャマ姿の変質者(僕)が、涙を流して感謝しながら追いかける。
これだ。
これこそが、僕が求めていた「理想の異世界生活」だ。
僕は確信した。
この女となら、どんな地獄でも生き抜ける、と。
(続く)




