第6話 GAME OVER とニューゲーム
プツン。
世界から、音が消えた。
色も、匂いも、重力さえも消失した。
あるのは、思考すら凍てつくような、絶対的な虚無と静寂だけ。
……ああ、そうだ。
僕は死んだんだ。
シルフィの優しさに包まれて、あの極上の幸福という猛毒に肺を焼かれて。
(……嫌だ)
意識の底で、渇きにも似た衝動が蠢いた。
嫌だ。あんな、ふわふわした雲の上で溶けるような最期なんて御免だ。
俺が欲しいのは、そんな綺麗なものじゃない。
もっと、泥臭くて、鉄錆の味がして、胃液が逆流するような――「生の実感」だ。
その瞬間。
漆黒の闇に、無機質な文字列が青白く浮かび上がった。
> [ GAME OVER ]
> [ 死因:幸福死(現実世界への強制送還および物理的排除) ]
> [ コンティニューしますか? ]
> [ YES / NO ]
迷う時間は、0.1秒もなかった。
僕は、声にならない絶叫で「YES」を叩きつけた。
戻してくれ。
あの、薄汚くて、理不尽で、暴力的な……でも、最高に心臓が跳ねる、あのクソったれな世界へ!
ピコンッ!
耳の奥で、脳髄を直接揺さぶるような、どこかで聞いたことのある軽快な電子音が鳴り響いた!
「異世界ひゃっは―――――!!」
自分の絶叫で、鼓膜が震えた。
「……え?」
視界いっぱいに広がる、馬鹿みたいに青い空。
頬を撫でる風は、むせ返るような甘い花の香りを運んでくる。
背中に感じる聖剣の重み。足元のフカフカした草の感触。
ここは……。
記憶にある風景。僕が最初に転移してきた、あの草原だ。
心臓が、ドクンドクンと早鐘を打っている。
動いている。脈打っている。
「はは……生きてる……!」
その事実に、心の底から安堵が込み上げてきた。
よかった。死にたくない。助かったんだ。
その「安心」がトリガーだった。
『ピコン』
> [ 警告:『安心感』を検知しました ]
> [ 恐怖ゲージが低下しています……残量 5% ]
ガクンッ、と膝が折れる感覚。
背中に感じていた頼もしい聖剣の質量が、一瞬で霧散する。
黄金色に輝いていた伝説の鎧は、風に吹けば飛ぶような、ヨレヨレのパジャマへと変換されていく。
そして、空になった掌には。
あのじっとりと熱を帯びた、手脂でぬちゃつく不快なスマートフォンの感触が、強引に戻ってきた。
[ モード切替:一般人(最弱) ]
以前の僕なら、ここで絶望していただろう。
だが、今の僕は違った。
(これだ……!)
僕は震える指で、その不潔で、安っぽくて、ストレスの塊のような端末を強く握りしめた。
指先に伝わる、じっとりとした不快な熱。
それこそが、僕が「生還した」という何よりの証拠だ。
愛おしい。
この不快感が、どうしようもなく愛おしい。
「グギャ、グギャギャ!」
前方から、下品な笑い声が聞こえた。
顔を上げる。
そこにいたのは、薄汚い腰布を巻き、小汚い棍棒を持った一匹のゴブリンだった。
以前の僕なら、恐怖で腰を抜かしていただろう。
ヘビー級プロレスラーのように見えたその巨躯。
だが、今の僕には、それがまるで――。
「……天使か?」
「グ?」
ゴブリンが、訝しげに首を傾げる。
僕は、ふらふらと立ち上がった。
足が震えている。恐怖じゃない。歓喜だ。
「会いたかった……!」
僕は両手を広げ、全力でゴブリンに向かって駆け出した。
「グ、グギャ!?」
ゴブリンが棍棒を構える。
その先端には、赤黒いシミがこびりつき、鼻が曲がりそうな鉄錆と腐敗臭を放っている。
その臭いが鼻腔を突き抜けた瞬間、脳髄が痺れるような不快感が駆け巡った。
これだ。
この、吐き気を催すような「死の臭い」こそが、僕のガソリンなんだ!
「うおおおおおおお!!!」
僕は、構わずゴブリンの懐に飛び込み、その薄汚い緑色の身体に抱きついた。
「グ、グギィッ!?」
「すー……、はぁー……ッ!!」
僕は、ゴブリンの首元に顔を埋め、思いっきり深呼吸をした。
強烈なドブ川の臭い。
何ヶ月も風呂に入っていない獣の体臭と、腐った肉を食った直後の口臭が、ダイレクトに肺を満たす。
頬に押し付けられた肌は、垢と泥でザラザラとしていて、脂ぎった粘液が糸を引いて僕のパジャマに付着した。
汚い。臭い。最悪だ。
生理的な嫌悪感で、全身の毛穴という毛穴が開き、鳥肌が一斉に立ち上がる。
だが――それこそが僕の力になる。
『ピコン!』
> [ 恐怖値を検知:生理的嫌悪(Lv.MAX) ]
> [ 急速充電開始……20%……50%……!! ]
「ははッ! 溜まる! 溜まっていくぞぉぉ!!」
掌のスマホが、みるみるうちに冷徹な鋼の温度を取り戻していく。
僕は涙目で、ゴブリンの腰布を握りしめながら叫んだ。
「もっとだ! もっと俺を不快にしてくれ! その汚い息を吹きかけてくれよぉぉ!!」
「グ、グギャアアアアアアッ!!」
ゴブリンが、悲鳴を上げた。
魔物としての本能が、目の前の人間を「異常者」だと認識したのだ。
こいつはヤバい。関わってはいけない。
ゴブリンの瞳に、明確な「ドン引き」と「恐怖」の色が浮かぶ。
ドンッ!
ゴブリンが、全力で僕を突き飛ばした。
尻餅をつく僕を見向きもせず、ゴブリンは棍棒を放り出し、脱兎のごとく草原の彼方へと逃走していく。
「あ、待て! 行くな! 俺を脅してくれええええ!!」
這いつくばって手を伸ばすが、ゴブリンは二度と振り返らなかった。
後に残されたのは、静寂と、ゴブリンの体臭が染み付いたパジャマの自分だけ。
「……はぁ、はぁ……」
僕は大の字になって、草原に寝転がった。
心臓は早鐘を打ち、冷や汗が背中を濡らしている。
不快だ。最高に気分が悪い。
おかげで、スマホのバッテリーは「80%」まで回復していた。
僕は、空に掲げたスマホの画面を見つめる。
黒い画面に映る自分の顔は、泥と脂で汚れ、ひどくニヤけていた。
わかった。
ようやく理解した。
この世界で生き残る方法は、ただ一つ。
「幸せ」という猛毒を避け、全力で「不幸」という名の蜜を啜ること。
そして、そのためには。
あのゴブリン程度じゃ足りない。
もっと強烈で、もっと理不尽で、僕の心臓を物理的に縮み上がらせてくれる――「最強の充電器」が必要だ。
「……シルフィ」
脳裏に、あの銀髪のヤンキーエルフの蔑んだ目が浮かぶ。
あの、地獄の底から響くような巻き舌の罵倒。
安タバコの煙と、シトラスの香りが混ざった、あの矛盾した匂い。
会いたい。
今すぐ会って、あの冷たい靴底で踏みつけられたい。
「待ってろよ、マイ・ハニー(充電器)……!」
僕は弾かれたように起き上がると、パジャマの土汚れを払うこともせず、彼女がいるはずの方角へと全速力で走り出した。
(続く)











