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芹沢先輩に友達になって欲しいと言われた

ホラー回かもしれません。

 解離性同一性障害を調べた時、必ずといってほど話題に上がってくる単語がある。


 その単語が、記憶だ。


 いくつもの人格を持っている解離性同一性障害は、人格同士がそれぞれの記憶を保有している。


 そして、同じ脳を使っているにも関わらず、人格同士が保有している記憶を共有することはあまりない。


 それこそ、俺自身が姫城誠の生まれてから入れ替わるまでの記憶を持っていなかったように。


 断片的に姫城誠本人が悪夢という形で見せてくることはあるが、それ以外の彼の記憶は知らない。


 正直なところ、別に知らなくても良いかと思っている節はある。


 その記憶を知ったとしても、これからの俺の意思決定や振る舞いにはあまり影響しないと分かりきっているからだ。


 まだ断片的な記憶しか見たことがないが、姫城誠はそこそこに可哀想な人生を送っている。


 だから、同情くらいはするかもしれない。


 というか、したとしてもそれくらいだろうな。


 では、続けて人格の話をする。


 人格についての討論は、心理学・哲学・医学・科学などあらゆる面からアプローチされているようだが、人格を構成している要素は大きく分けて三つあると言われている。


 その三つは『記憶』・『意思』・『身体の同一性』のことを指すようだ。


 この要素のどれか一つでも欠けてしまったら、人格は崩壊してしまうらしい。


 つまり、今の俺は、『前世のゲーム知識を含めた常識的な知識』・『別の日本で生きてきたゲーム好きな成人男性の意識』・『姫城誠の身体』の三つで構成されていることになる。


 お偉い学者先生が提唱する人格の構築要素を考えるに、俺が俺で無くなる時──それは、このどれかが消滅した時だと推測できる。


 そして、消滅する要素として有力なのは、『前世のゲーム知識を含めた常識的な知識』と『別の日本で生きてきたゲーム好きな成人男性の意識』なのだと思う。


 これら二つが消滅するタイミングはきっと──姫城誠の『記憶』と『意識』がこの身体で目覚める時なのだろう。


 だから、俺は何処かへと行ってしまうのではない。


 この体で再び、永遠の眠りにつくことになる。


 しかし、命の危機にも等しい重大な懸念事項なのに、そこまで深刻に悩めないのは、まだそこまでこの一説を信用できていないのかもしれない。


 それか、俺自身が、この生に執着していない──なんてカッコつけた理由でもあるのかも。


 兎にも角にも、医師免許も持っていないようなど素人が、ああだこうだと机上の空論を弄っていても仕方がない。


 姫城誠の記憶と意識が目覚めない以上、俺はこの身体の主として生きていかないといけないのだから。




 ◇◇◇




 いつから俺は、この人にとって、そこまで気を配ってもらえる人になったのだろうか。


 俺を『手離せない』のだと告げた芹沢先輩は、鈍い光を双眸に宿して、俺の片頬をずっと撫でている。


 ──まるで、そこに俺がいることを確かめるような手つきでだ。


「俺、記憶喪失のこととか話しましたっけ?」

「ううん。誠君はウチに加入する前に交通事故に遭っているでしょう?一応、ダンスとはいえ、激しい動きをすることもあって、プロデューサーから上級生は健康状態について申送りを受けてたんだ。だから、最初の頃はよく透君とシュウ君の2人がくっついてたでしょう。あの子達、心配性だから」


 確かに思い返せば、加入したばかりの時は逆浪先輩や古坂先輩がよく傍にいたような気がする。


 てっきり、初めての後輩ではりきっていたから、新入生にかかりっきりになっていたものだとばかり思っていたのだが、本当の理由は俺の体調を気遣ってのことだったのか。


「記憶喪失の件は分かりました。でも、人格の件は誰も知らないはずです」


 プロデューサーが俺を心配して、上級生達と健康状態を共有していたことは致し方ない。


 (むし)ろ、担任兼顧問として、ここまで俺に目を掛けてくれるのかと少し感動すらした。


 だが、記憶喪失は兎も角として、解離性同一性障害(憶測)の方に芹沢先輩が辿り着いていることは見過ごせない。


 この件については、交通事故の捜査に来ていた刑事はおろか、かかりつけ医のオジサンさんにも言ったことがないからだ。


 誰にも話したことがない人格交代についてまで、どうして芹沢先輩が把握しているのかと言葉だけでなく、目でも問う。


 芹沢先輩は簡単な推理だよというように、口元を緩めた。


健忘症(けんぼうしょう)や認知症を患って、性格が変わってしまうことは(まま)あるらしいね。でも、それでも味覚や趣味嗜好の全てが変わってしまうケースは滅多にないんだって」


 その前口上を聞いた瞬間、俺は自分の杜撰(ずさん)な身の振り方を悔いることになった。


『記憶喪失だから、多少可笑しなことをしても目を(つむ)ってくれるだろう』と、かなり自由奔放に振舞ってきた自覚はある。


 その軽率さから、芹沢先輩には尻尾を掴まれてしまったようだった。


「事故に遭う前の姫城誠君は人参が大嫌いで、特に付け合せのグラッセなんかはよく残していたみたいなんだ。それに元々少食なタチなこともあって、寮の食事をよく残す困った新入生としてパートさん達に覚えられていた。

 けど、事故に遭った後の誠君は一切の好き嫌いをしなくなった。それどころか、人参を含めた青臭さの強い野菜を筆頭に全て平らげるだけでなく、米粒の一つも残さずに食べる君にパートさん達はかなり驚いたらしい。こんなに綺麗に食事を食べることが出来る子なんだって」


 ·····おい、姫城。


 お前の人参嫌いのせいで、俺達の人格交代が芹沢先輩にバレちまってるじゃねぇかよ!


 意外な方角から掴まれた尻尾に、胸の内で盛大に地団駄を踏む。


 もし、この場に先輩がいなかったら、脇目も振らずに頭を掻き毟っていたことだろう。


 ──っつーか、先輩の口振りを聞くに、姫城のやつは人参だけじゃなくて、他の野菜も残してるっぽいな·····。


 そこまで思い至った俺は、この身体の背がどうしてそこまで伸びていないのかの理由を何となく察した。


 姫城の低身長は遺伝もあるだろうが、絶対好き嫌いしまくっていた事も関係ある。


 特に姫城誠は、社畜のシングルファーザーの家庭で成長期を過ごしている。


 あの親父さんの事だから、夕飯代を現金で渡しているだろうし、姫城誠の食わず嫌いぶりを聞くに好きな物しか購入してなさそうだ。


 ──残り僅かな成長期で絶対に背を伸ばしてやるから、マジで俺に感謝しろよな。


 姫城誠への説教がまた一つ増えたことはさておき、芹沢先輩の推理に再び耳を傾ける。


「そして、姫城誠君は大のエンジュファン──特に二葉さんの熱烈なファンだった。彼はまだ二葉さんが学生アイドルをやっていた時に会ったことがあるらしくて、その時から二葉さんに入れ込んでいた。ライブの全通は当たり前、グッズもコンプリートするし、突発的なSNSの配信も絶対に見逃さない。姫城誠君にとって、二葉さんは人生そのものだったんだろうね」


 こうやって、改めて人の口から姫城誠の長篠二葉へのオタクぶりを聞かされると、あまりに逸脱した熱心さにドン引きしたくなってくる。


 しかも、同性のオタクだ。


 曲が好きとか、性格が親近感を覚えるとか、そんなありふれた理由だけではそうはならないだろっていう惚れ込み具合なんだよな。


 長篠二葉が学生アイドルの時に会ったということは、恐らく姫城が小学生ぐらいの時くらいだろう。


 確か、長篠二葉が今年で26歳だったはずだから、高校三年間の間だとすると、姫城が10歳から12歳の間か。


 色々と多感な時期に出会ってしまって、以降拗らせているってことだよな。


 ──本当に、どんな出会い方をしたんだか。


「片や、誠君は私のファン·····で」

「自分で言いながら、照れるのやめてくれません?」


 そして、目の前のウチのリーダーは何処から聞きかじったのかは定かではないが、俺に推されているという事実を口にするだけで目元を赤く染めている。


 つい半目になってしまう俺の視線から逃れるように、先輩はスマホを持ったまま、手の甲で口元を隠した。


 ちらりと、こちらの顔色を上目遣い気味に伺ってくる。


「だって、今でも信じられないよ。アイドルとしてのセンスが抜群で、しっかり者の誠君が私のファンなこと。何かの聞き間違いじゃないかって、何度考え直そうとしたことか」


 嬉し恥ずかしそうな表情で上目遣いで見てくる辺り、どう考えても確信犯でしかない。


 これが女性アイドルであれば、あざといの一言で貢ぐことも出来るだろうが、悲しいことにこの人は同性アイドルだし、何なら俺の直属の先輩だ。


 罰ゲームというよりかは、もはや公開処刑の方が近いかもしれない。


 ──でも、ほんっっっとうに嫌でしかないが、これがガチで様になるんだよなぁ。


 エンジュのビジュ担当だと、界隈ファンの共通認識になっているだけあって、頬を染めてても、上目遣い気味でも素晴らしく似合う。


 世が世なら、美少年の小姓として名のある大名達からラブコールを送られていたことだろう。


 しかし、これまた非常に悲しいことに今は芹沢先輩による俺の隠し事を暴く推理ショーの真っ最中である。


 何をやっても絵になるんだよなと、ボケっとしている暇は無い。


「あと、君が集めているオツカレンジャーのこともあるよ。姫城誠君はそういった男児向けの趣味はからっきしだったみたいで、菓子パンを食べてはシールを集めている誠君のことは意外だって他の子達が言ってた」

「他の子達って?」

「A組のクラスメイト達や、姫城誠君の小中学校の同級生達のことだね」

「アンタ·····もしかして、その仮説を立証するためだけに探偵を雇ったんすか」


 A組のクラスメイトなら兎も角、姫城誠の小中学校の時の知り合いもあたったのだとすると、絶対芹沢先輩一人だけの手では足りない。


 ここまで徹底的に姫城の過去を洗ったのであれば、いくらオーディションに来た後輩の経歴を上級生権限で閲覧が可能だとしても、交友関係までは知ることが出来ないはずだからだ。


 それこそ──プロの力を借りない限りは。


 俺の質問に対して、芹沢先輩は微笑むばかりで何も答えてはくれなかった。


 それが答えなのだと理解した俺は、頬を撫でている先輩の手をやっと掴んで退ける。


 俺に手を返された先輩が、大人しく引っ込めている様子を見届けてから、俺はこれ見よがしに特大の溜息を吐いた。


「なんで、そこまでして·····」

「君を手離さないためだよ」


 心の底から出てきた感想は、食い気味に返されたことによって最後まで言いきることは出来なかった。


 続かない二の句に、口を(つぐ)む。


 たとえ、俺が何を言ったって、今の芹沢先輩には響かないのだと思った。


「私はもう二度と友達を失わないと心に決めた。意見の食い違いなどで交友が絶たれてしまった場合は仕方ないけど、不慮の事故や環境のせいで大切な誰かを失うのはもう嫌なんだ」


 俺に手を追い払われた先輩は気にした様子もなく、手持ち無沙汰になった両手で膝を抱えると、体操座りになった。


 片手でスマホを持って、ギュッと背中を丸めて縮こまっているその姿は、完全に自分の世界に引っ込んでしまっているようにも見える。


 だが、それでもこれだけは言わなければならない。


 数日前の夏の宵に告げられたせいで、今日までの日々を悶々と悩ませてくれた例の言葉のことを。


「あの、そもそもの話なんすけど·····先輩って、俺と友達になるのが嫌なんじゃないんすか?」


 すっかり両膝に顔をつけてしまっていた先輩は、俺のその言葉を聞くなり、俊敏な動きで顔を上げた。


「どういうことかな?」


 どうしてか、いつもは笑んでいる筈の両目が珍しく吊り上がっている。


 何処からどう見ても、怒りの空気を漂わせている芹沢先輩に戸惑いながらも、俺は口を動かし続けた。


「だって、先輩は俺にはライバルでいて欲しいって」


 通し練習が始まった日の夜。


 芹沢先輩にコーンスープを奢ってもらったあの時に、俺は告げられた。


『我儘でごめんね。お願い、誠君。君には俺と同じ景色を見てほしいんだ。ただ端に、隣や後ろで並んでいられるのは嫌だ。ずっと俺の正面に立っていて欲しい』


 友達として切磋琢磨するように隣で支え合うのでもなく、


 背中を預けられるような心を許した存在でもなく、


 真正面から挑んでくる挑戦者であれと突き放したのは、アンタだった筈だ。


 俺の言葉の真意を探るように暫く先輩は剣呑な目つきで俺を眺めていたが、こちらの言いたいことが分かったのか、ゆっくりと力の入っていた目元を緩めていった。


「ああ、あの時のことかな。アレは·····俺をライバルとして追っかけてくれたら、君はずっとこの世界にいてくれるのだと思ったからそう言ったんだ」

「·····は?」


 会得が言ったとばかりに、あの日のことを紐解いて話して聞かせてくれる先輩に、失礼ながらも目が点になる。


 大変に申し訳ないが、全くもって要領を得ない種明かしだった。


 そんな俺の戸惑い顔をすぐ間近で見ているはずなのに、芹沢先輩は口を止めることなく話し続ける。


「その頃は、まだ交代人格についての理解もあまり深くなくてね。兎に角、誠君の意識がその体に定着する方法ばかりを考えていた。誠君はすごく負けず嫌いで、アイドルが大好きでしょう。だから、俺をライバルとして追っかけてくれている内は、この世界に留まってくれると思ったんだ」


 ·····それはまた、なんて。


「根拠のない、いい加減な仮説っすね。なのに、よくもまあ、あそこまで自信満々に言えたもんですよ」


 俺の多重人格説もかなり飛躍ばかりの出鱈目であるが、芹沢先輩の仮説はそんな俺の仮説よりももっとハチャメチャだ。


 思い立ったら即行動な人であることは一緒に過ごした短期間で存分に思い知らされていたが、それにしても見切り発車ぶりがエグすぎる。


 ベンチャー企業の社長だって、もうちょっと躊躇(ためら)いを知っていると思うわ。


「そうだね。でも、あの時はそれだけ必死だった。姫城誠の中身が事故の前と事故の後だと同一じゃないことに気付いただけでなく、ゼックラまで狙ってくるんだから。本当に少しも目を離していられない」


 またぞろ、目の中の光が危ない色になってきているような気がしてきて、気付かれないように先輩から視線を外す。


 ──そういえば、あの時って特訓をつけてもらった華園先輩から引き抜きの話を持ち掛けられたこともあったんだっけか。


 こっそり三年生から課されていた音程パート交換課題をクリア出来たのは、Angel*Dollの永遠のライバルとして目されているZ:Climax所属の華園先輩によるボイスレッスンのお陰だった。


 ただ、その時に俺は華園先輩直々にスカウトを持ち掛けられていた。


 その日のうちにしっかりとお断りを入れていたが、律儀にも華園先輩はその場に居なかった三年生達にも報告を入れていたらしい。


 そして、華園先輩が筋を通した結果、弱り目に祟り目だった芹沢先輩はますますと追い込まれたと·····。


 さすが、不運体質のZ:Climax。


 とんでもなく最悪なタイミングで動いてくれると、記憶の彼方でWピースしている華園先輩に石を投げたくなった。


「けど、交代人格は基本人格よりも立場が弱い。もう一ヶ月以上も表に君が出てきているから、今のこの身体の主人格は誠くんで間違いないだろうね。でも、だからといって、この状態がずっと続く保証は無い」

「ま、待ってください。主人格は姫城誠じゃないんすか?」


 最近、推し活動と学生アイドル生活に夢中なせいで、解離性同一性障害についての調べ物が全く進んでいない俺と違って、芹沢先輩はかなり見識を深められているようだった。


 世間話のノリで口に出される専門用語の数々に、俺の方が翻弄されてしまっているが、それにてんてこ舞いになるよりも先に聞き捨てならない言葉が聞こえてくる。


「恐らく、違うよ。基本人格の姫城誠君がこんなにも長いこと出てきていないのだから、その体の今の主人格は間違いなく君だ」

「じゃあ、アイツはもう二度と起きてこないってことですか!?」


 主人格は、体の主導権を持っている人格のことを指していたはずだ。


 あくまでも俺は、体の奥に引っ込んでいる姫城誠の代わりを務めているピンチヒッターの交代人格で、この身体の全権を握っているのはオリジナルの主人格である筈の姫城誠本人なのだが。


 鬼気迫る俺の表情に、芹沢先輩が物言いたそうに目を伏せる。


「誠君。主人格がどんな存在か説明できる?」


 だが、抱えている膝に視線を落としたまま、俺の話に乗ってくれている様子のある先輩は、自分の気持ちを後回しにしてくれたようだった。


 俺の気持ちを優先させてくれた先輩に、なんとも言えない気持ちになる。


 だが、あの自分の望み通りにことを動かす癖がある芹沢先輩がくれた心遣いを無碍にも出来ず、有難く話を続けさせてもらうことにした。


「主人格は、この身体で一番主導権を持っている人格の事じゃないんすか。それこそ、先輩がさっきから言っている基本人格とイコール的な」

「そこから認識が違っているんだね。交代人格でも主人格になることは出来る。主人格とは、その時に一番主導権を握っている人格のことで、決してオリジナル人格である基本人格とイコールではないんだ」


「まあ、昔の論文とかだと基本人格という言葉がまだ無くて、主人格という使い方をすることもあるんだけどね」と補足してくれる先輩の声を聞きながら、なるほどとごちる。


 俺の解離性同一性障害への知識は、前世で得た情報がベースになっている。


 基本的にはネットで情報収集をしていたが、恐らくベースになっている知識が古かったこともあり、調べ方が偏っていたのだろう。


「ただ、交代人格がずっと主人格を務めるという保証は無い。絶対に消えない基本人格と違って、交代人格はいつ消えても可笑しくない不確かな存在なんだ」


 再び押し上げられた瞼の下から現われたのは、十分に潤みきった緑の瞳だった。


 眦から幾つもの筋を作って流れていく雫を気にせず、一秒たりとも俺から視線を逸らさないとばかりに力強い双眸で俺を射抜く。


「こんなこと、言っちゃいけないのは分かる。でも、どうしたって調べる度に思ってしまうんだ。なんで、誠君が交代人格なのかって」

「先輩·····」

「非人道的なのは百も承知だよ。それでも、私は君の解離性同一性障害を悪化させることはあっても、治療に貢献するつもりは一切ない!基本人格の姫城誠君には本当に申し訳ないけど、私が求めているのは君なんだから!!」


 その瞬間、左胸で動いている臓器が、一際強く波打ったのを感じた。


 頭の奥で、断続的に硝子が割れる音がする。


 鈴を転がしたように誰かが笑う声と共に。


「どんだけ、俺のことが大好きなんすか·····」


 真正面から叩きつけられた、今までで一番のクソデカ感情。


 これまでにぶつけられた『小早川昂汰の後釜を担って欲しい』とか、『いつか同じステージに立って、ライバルとして挑んできて欲しい』とはレベルが違う。


 俺には理解出来ないほどに、煮詰められてジャムみたいにぐちゃぐちゃになってそうなそれに返せた言葉は、我ながらパイ生地よりも随分と薄っぺらい感想で。


 そんなペラッペラな俺に対して、芹沢先輩は何を言っているのとばかりに満面の笑みを浮かべた。


「とってもだよ。エンジュに君をスカウトした時から、私はずっと友達になりたかった。だけど、私はエンジュのリーダーで、新入生の誠君はリーダーの私とは一定の距離を取り続けてくるんだもの。

 本当は庵璃君や雪成君のように、もっと対等な関係になりたかったんだ」


 無茶言うな。


 咄嗟に発しかけた文句を、どうにかこうにか飲み込む。


 その代わりに舌に乗せたのは、ここまで俺との縁を大事にしてくれようとしている芹沢先輩にとって、かなり酷なことだった。


「交代人格の俺は、ずっと先輩と一緒に過ごすことは出来ません。俺はこの身体を姫城誠に返すつもりでいます。先輩がそこまで俺のことを認めてくれるのは嬉しいんすけど、先輩の望みを受け入れることは出来ません」


 先輩の願いと、俺の願いは真逆のものだ。


 俺にずっとこの世界に留まって欲しい芹沢先輩。


 本物の姫城誠に、身体を返してあげたい俺。


 俺達の願いはどこまでも平行線で、どちらかが妥協するまでは決して未来でも重なり合うことはない。


 その事実を芹沢先輩もよくよく分かっているようで、静かに泣きながらも困ったように口角を上げた。


「分かった。いいよ、俺は俺で動く。誠君がどんなに姫城誠君に主人格を譲りたがっていたとしても、交代人格の役目を終えたらとっとといなくなろうとしていても、俺だけは諦めないから」

「アンタ、本当にわからず屋っていうか、我儘だな!?」

「聖仁曰く、俺は我儘猪だからね」


 何にも誇らしいことではないのに、自慢するように言い切る芹沢先輩に、ついがっくりと首が俯きそうになった。


 お目付け役を渋々務めているだろう虎南先輩の苦労が忍ばれる。


 過去の三大天使の映像を見る限り、本当はあの人もお目付け役を付けられる側の筈なんだからな。


「俺は絶対、役目を終えて潔く身を引きます」


 言い聞かせるようにもう一度、俺の願いを宣言する。


 だが、聞いて欲しい芹沢先輩は、『それはそれ、これはこれ』と言わんばかりの微笑み顔だ。


 わからず屋もここまで来ると、清々しいような気にさえなってくるが、やっぱり若干イラッとはする。


 しかし、そんな腹立つ笑顔の芹沢先輩に、俺という人間はやっぱり甘かった。


 ──俺ってば、本当に最推しに弱いんだよなぁ。


 今から吐き出す言葉は、芹沢先輩の事を本当に思うのなら、口に出すべきではないのだろう。


 それでも、こんなにも必死になって『友達になって欲しい』と全身全霊で訴えてくる彼を跳ね返すことは、これ以上出来そうにない。


 だから──。


「それでもいいのなら·····友達になってもいいっすよ」


 きっと後悔はする。

 間違いなく、する。


 だが、何回この出来事をやり直したとしても、きっと俺は同じ轍を何度だって踏んでしまうだろう。


 それぐらい、やっぱりこの人を、前世でも今世でも特別な位置づけに置いてしまっている。


 ──すっごく遺憾なことに。


 この時の芹沢先輩の顔を、俺は生涯忘れることは無いと思う。


 やっと降り続く長雨が終わって、曇天の隙間から差した陽光のような煌めきを帯びた緑眼と。


 その縁から零れた、さっきまで流していた涙とは全く違う水滴が顎先に滴る様を。


 誰もが待ち侘びていた晴天を受けて、綻ぶように咲いた朝顔のような大輪の笑顔が自分の為だけに浮かべられたという事実も含めて。


 そして、そのとんでもないご尊顔のまま、チワワのごとく、体操座りをしていた癖に、両手を広げて飛びかかってきたこともだ。


 あの細っこい足にどんなバネが仕込まれているのかと言いたくなるほどの脚力で、その場から真っ直ぐに飛んできた芹沢先輩を受け取る術しか無かった。


 結果、俺達の頭上にあった機材の乗った机は体勢を崩し、芹沢先輩ごと俺に降りかかった訳である。


 ガシャンドシャンと響いた盛大な物音を聞いて、咄嗟に先輩を庇おうとして上になろうとするも、俺の上部を陣取っている人がそうはさせてはくれなかった。


 俺の顔横に両手をついて、降ってくる机達の盾になった先輩は──全く悪びれた様子もなく、えへへと笑うのみ。


 この時、俺は顳かみに青筋を浮かべながら思った。


 物音を聞いて、慌ててやってくるだろう教師やスタッフ陣に盛大に怒られろと。


 その俺の望みはあっさりと数分後に叶えられることになるのだが、そもそも2人して近づくなと言われた機材の下にいたこと自体が問題だった。


 あの悪びれない顔を引っ込めて神妙な顔で叱られている先輩と一緒に俺も正座させられたこともきっと、生涯納得いかないことだろう。


 芹沢真白の反省顔は、もう二度と信用しねぇ。



※解離性同一性障害への見解は作者が論文やらドキュメンタリーをつまみ食いして咀嚼したものなので、諸説ありです。


これにて、最推し騒乱編一件落着です。


次回で多分、第二章の本編が終わります。

多分。

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― 新着の感想 ―
芹沢先輩が我儘でわからずやなところを認めて開き直っているところが可愛いです。 それに、誠くん「芹沢真白の反省顔は、もう二度と信用しねぇ」って思ってるけど結局は信用してしまいそうですよね。誠くんの芹沢先…
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