18
今でも鮮明に思い出す。
一度目の人生で、フレドリックと聖女が寄り添いあっていた光景のこと。
こんなに早く……?
もしかすると、一度目の人生でも彼らはこうして出会い、仲を深めていたのだろうか。
だとすれば――
「わたくしには、はじめから……」
勝ち目なんてなかった。
「エルミアーナ、どうしてお前がここにいるんだ?」
ただただ疑問をぶつけてくる、この婚約者のはずの男が憎いと思った。
「それは……」
エルミアーナはぎゅっと拳を握る。
「それは、わたくしの台詞ですわ……っ」
貴方はずっとわたくしを騙していたの? 影でその小娘と共に、憐れな女だと嘲笑っていた?
今の彼に聞いても仕方のない疑問ばかりが浮かび、叫び出しそうになるのを必死に堪える。
「エルミアーナ……?」
フレドリックがこちらへと手を伸ばす。
「――っ、触らないで!!」
反射的にその手を振り払ってから、そんな行動をとった自分にエルミアーナ自身も驚く。
「…………あ、わたくし……」
ふらつくように一歩二歩と後ずさる。
処刑を前にして、視線を逸らされた時にすら感じなかったような、深い絶望に思考が染まっていた。
「わたくし……」
エルミアーナは告げるべき言葉を見つけられず、フレドリックに背を向けた。そしてそのまま地面を蹴る。
どこでもいい。どこでもいいから、彼らの傍から離れたかった。
「ルミさん!?」
エレンナの声が遠くに聞こえたような気がしたが、止まる気にはなれなかった。
ただ、ここから離れて、どこか遠くへ。
頬に冷たい雨が落ちてくる。
重い雲がついに留めきれなくなった雨粒を落としはじめたのだと、頭の片隅にある冷静な部分では分かっていた。だが、服が次第に水を吸って重くなっても、足を止められない。
だが、雨で人通りが消えた街。その真っすぐな道の向こうに、人影が見えてエルミアーナは自然と足を止めた。
「…………お兄様」
彼はいつからそこにいたのだろう。その全身は、エルミアーナに負けず劣らず、ずぶ濡れだった。
彼がゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
そして、エルミアーナの目の前で止まると、何も言わずにじっとこちらを見下ろす。
「…………、」
もう一度「お兄様」と呼ぼうとして失敗する。何故か、喉が張り付いたように言葉が出ない。
だからエルミアーナも彼を見つめ返す。
よく見知った姿をしている。
だが、まるで表情が抜け落ちたかのように、醸し出す雰囲気が冷たい。
はじめて出逢った時の、魔法をかけられた時のように動けなかった。
雨の音しか聞こえない。
そんな中で、ようやく彼が口を開いた。
「こっちへおいで、――ミア」
ひやりとした表情とは裏腹に、ぞくりとするような甘ったるい情念を感じた。
男から差し出される手。
その手を見下ろせば、ここではないどこかの映像が重なって見えた気がした。
暗い地下室。血を吐くような叫びに応えて現れた「悪魔」。わたくしは決断を迫られる。全てを奪われるのか、それとも――、全てを捧げてでもただ一つを得るのか。
ああ、これは、決して受け入れてはならない、甘美な誘い。
エルミアーナはそれに気付く。だが、差し出された手から視線が外せない。
この手を取れば、楽になれる。
そのことにもまた、気が付いていたからだ。
原作のわたくしも、こんな気持ちだったのかしら……。
エルミアーナは、自分の両手を胸の前で握り合わせた。
そして、ゆっくりとその手を引き剥がして、冷え切った己の手を、彼の手に重ねようとした。
「――ルミさん!!」
突然割って入った声にハッとする。
「わたくしは、何を……」
自身の手が、彼の指に触れ合うその寸前で止まっているのに気付いて、反射的にその手を引っ込める。
顔を上げれば、彼はほろ苦い微笑を浮かべている。
その宵闇色をした瞳を見つめ、エルミアーナはほつりと呟いた。
「あなたにとっての、わたくしは……いったい何……」
「――……さあ、何かな」
途方に暮れたような声に、ぎゅっと胸が締め付けられる。
「どうして、わたくしの前に現れたの……」
やるせない思いが胸に溢れて、エルミアーナは唇を噛んだ。いまだ降りしきる雨粒が目尻を伝って頬を流れていく。
「さあ……」
エルミアーナの頬に彼の手が触れる。そして、流れた雨粒をその指が拭った。
「どうしてだろうね――」
彼の手が離れる。
「あ……」
そして、雨に紛れるように、彼は一瞬で姿を消した。
「っ――」
足の力が抜けて地面にへたり込む。
その場にはもう、エルミアーナとエレンナの二人しかいなかった。




