06-9
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『二十三番、白石裕樹さん、日本』
私の名前がコールされる。SP二位の優勝候補選手に対して、会場は惜しみの無い拍手を送ってくれる。
「これが終わったら、キミは世界女王で、もう僕の生徒じゃなくなるな」
「コーチ……」
「今まで、すごく楽しかった」
私は大きくうなずいた。もちろんだ。
「やっぱり、裕樹には才能がある。他の誰よりもだ。それは間違いない」
「ありがとう、コーチ」
その一言にすごく勇気がわいてくる。それはコーチのことを本気で信頼してるからこそだ。
「やってこい」
「はいッ!!」
「見せ付けてこい」
「はいっ!!」
「次の女王は私なんだって」
「──はいッ!!」
コーチと最後に目線を交わし、私は振り返る。リンクに向かう向かう私の背中を、コーチがぽんと一押しする。
それはフリーの前にやる私とコーチとの儀式。
最後の力をもらう大切な時間。
そして。
ここからは私だけの時間。
誰に邪魔されること無く、けれど誰にも助けてはもらえない。栄光とは孤独と共にある。
私は改めて決意する。
────ユリカと一緒にいるために、ユリカを倒す!!
ドヴォルザーク、交響曲第九番『新世界より』。
クラシック音楽史上屈指の人気作曲家の代表作。
その壮大な曲に、私は決意をこめた。
会場は私が中央で静止したのと同時に静まり返る。そしてその静寂を、私はブレードの音で切り裂いた。
まず。ここが決まらなければ話にならない。
一番初めに持ってきたのはコンビネーション。
純粋に三回転するジャンプの中ではもっとも難しく、女子シングルにおいては勝敗を分けることも多いジャンプ、トリプルルッツ。
長めの助走。そして迷いを断ち切るようにトウを突いて、時計回りのスケーティングから一転、逆時計回りに回転する──。
三回転。
きっちり回りきる。
さらに、すかさず今度はトウレスでワンモア──ダブルループ。
完璧なトリプル+ダブルのコンボ。まずはこれでジャンプの感覚を確認する。
問題は次。
六種類のジャンプの中でもっとも簡単なジャンプ、トウループ。けれど私が挑むのは三回転ではない。
それは人類にとっては限界点。
同時に女子にとっては未知の領域。
四回転<クワッド>。
これが決まれば、私の勝利は決定的。失敗すすれば、一気に追い込まれる。
けれど。
いつもより長めの助走に入る。たっぷり距離をとって、そして、スピードを増していく。そのままターンして足を換え、勢いを左のトウに乗せるッ!!
私の未来を、私とユリカの未来をそのつま先に乗せて、
私は回転し──────
───────着氷する。
会場からは拍手。
けれど、それは描いたイメージからは程遠く。
綺麗な三回転<・・・>だった。
…………いわゆるすっぽ抜けだった。
転倒ではない。
けれど失敗だ。
予定した四回転から三回転に。点数は半分以下、いや、もしかしたら回転不足<ダウングレード>で、判定は二回転かもしれない。そうなれば予定得点からマイナス八点以上。
心臓がバクバクする。
肉薄した勝負で、この失敗が何を意味するか。いうまでも無い。
脳内をちらつく二文字。
敗北。
そうなれば?
どうなる?
ユリカとの未来は?
急に思考が遅くなる。
滑っている感覚がしない。
何も考えられない。
ただ頭を支配するのは────
────そうこのままじゃ、彼女といられない!!
何も考えられず、ただ漠然とした焦りだけが私のスケーティングを支配する。
ただ惰性に任せて滑る。
ユリカといられない。
……そんなのは……いやだ……。
次知覚したとき、いつの間にか次のエレメンツスパイラルを終えていた。もう次のジャンプが迫っている。予定ではトリプルルッツ。
四回転という大技を考慮して、次のジャンプとの間を他よりも長めにとっていたにもかかわらず、それもあっというまに過ぎてしまった。
気持ちを切り替えなきゃいけない。
それはわかってる。
けどできない。
後十秒後には、次のジャンプを跳ばなければならないのに。
今跳んでも、間違いなく転ぶ。
そうなれば勝利は絶望的。
もはや逆転は不可能になる。
次のコーナーでターンしたら、もうすぐジャンプ。
気持ち立て直さなければ。そう考えれば考えるほど焦りだけが私を支配して────
「ユウキッ!!」
「ッ!!」
迷いを断ち切る一刀。
リンクサイドに、ユリカが、いた。
焦る私を見かねてだろうか。
声をかけてくれた。
一瞬で我に返る。
このままじゃ駄目だ。
思考が加速する。
不思議な感覚。
自分でも信じられない速度で頭が回っていく。
一つ目の試みは失敗した。
じゃぁ、次は!?
答えは一つしかない。
私は予定していたジャンプを中止することを決心した。
代わりに跳ぶのはもちろん──。
本来やるはずだったルッツの助走は、左足アウトエッジで長めにとる、他のジャンプとはまったく違うもの。
だから、観客も、ジャッジも、コーチも、私の決意にすぐさま気がついているはずだ。
リンクサイドにコーチの顔が見える。一瞬だったからよくは見えなかったが、多分唖然としていたと思う。
私がやろうとしているのは無謀のきわみ。愚かももいいところ。
失敗すればもはや建て直しは不可能。成功してもそのあとの体力が持つかどうかはわからない。
おそらくそれは誰もが失笑するレベルのノープランな行動。
けれど、それでも、勝つためにはそれしかない。
なら、私はバカになるだけだっ!!
再び飛翔。
高く高く、ただ天のみを目指して。
一瞬の出来事。
意識が研ぎ澄まされていく。
僅か一秒にも満たない。
けれど、しっかりと一回転ずつを感じる。
一回転。
二回転。
三回転。
四回転。
──────完全な1440度の回転。まるで分度器で図ったかのような完璧な回転数で私は再び地上へと舞い降りた。
観客が、ジャッジが息を呑むのがわかる。
会場が凍りついた。
私自身も凍りつく
そして────次の瞬間、歓喜こみ上げてくる。
着氷とともに、
全ての時が、
再び流れる!!
国際大会では初の四回転トウループ成功――──
けれどその余韻に浸るだけの時間は残っていない。
すぐさま次の要素に入らなければならない。フライングスピンからコンビネーションスピン。
四回転が決まっても、後半失敗すれば全て水泡に帰する。
もう一度気を引き締める。
れど私の心には、失敗は無いという確信が根付いていた。それは決して油断などではなく、スケーターの勘がもたらす絶対の自信。
まずはダブルアクセルからトリプルトウループ。
難しいジャンプだが、四回転に比べれば────なんてことないッ!!
完璧に決めて、さらにその勢いを次の三連続にぶつける。フリップからトウループトウループと続ける3-2-2のコンビネーションもなんなく決めて、後半最大の山場を切り抜ける。
次のトリプルフリップの着氷でやや身体が斜めになるも、失敗というほどではない。僅かなミス。そんなものには今の私は動揺しない。
さらに最後のトリプルループ。ここも決める──。
ジャンプは全て終えた。
あとは最後までただ駆け抜けるだけ<ストレートラインステップシークエンス>。
私はイメージする。
新しく始まる、ユリカとの新世界を──。
一つジャンプがすっぽ抜けて余計な力を使ったせいで、いつもよりも乳酸の蓄積を感じる。身体がだるい。
けれど。
そんな疲れなんてことない。そう自分に言い聞かせる。
私の、私とユリカの未来は明るい。
ただただ────
後は身体を動かす。
ひたすら。
ひたすら。
ひたすら。
がむしゃらに。
がむしゃらに。
がむしゃらに。
何も考えず。
ただ、
ただ、
未来だけを見つめて────
気がついたら、私は演技を終えて、リンクの中央で天を見上げていた。会場を照らす照明が、まるで神からの祝福のように思える。
気力で。
最後の最後はまさに気持ち一つで乗り切った。
身体がだるい。
全日本の時よりも圧倒的に疲れが出てる。
けれど、心は放心状態。
会場から惜しみない拍手が送られているけれど、それが心を打つことは無かった。
いますぐ倒れこみたい。
なにも考えられない。
ただただ。
私は思った。
ベストは尽くしたと。




