03-2
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三十本くらいは挑んだだろうか。無理なペースでジャンプを跳び続けた結果、私の足は限界に達していた。それだけ挑んだが、実のある練習だったとはいえない。
これ以上やっても無駄だし、体に良くないと判断した私は、一度引き上げることを決意した。
これ以上氷上にいても、何にもならないということだけはわかった。
顔にまとわりついた汗を振り払って一息つく
今日は陸上練習に残りの時間を費やすことにした。スケート靴を脱いで、トレーニングルームに向かう。
リンクメイトたちも、私の異変に気がつき、むやみに声をかけてくるようなことはしなかった。その点は気持ちが楽だった。
「あ」
角から突然現れた男とぶつかりそうになるが、もって生まれた反射神経が、衝突を回避してくれた。
「裕樹かぁ」
間抜けた声。
フィリップだった。
いつもどおりの、にこやかなまぬけ面だ。
「どしたの? なんか顔色悪いよ」
「別に…………」
「生理?」刹那「痛っ!!」
蹴飛ばした。
別に冗談に腹が経ったわけではない。
ただストレスを発散したかっただけ。
フィルだったら許される気がした。
「冗談だよ……」
フィルがおどけた顔で言った。
「そんなに怒らなくても」
「全然怒ってないよ」
「怒ってないのに殴られたの……」
「だって、殴って欲しそうな顔してたから。あんたマゾでしょ?」
「誤解だよ……」
我ながら酷い扱いだった。もちろん相手がフィルだからだけど。信頼(?)しているからこその仕打ち(?)だ。
「で、本当にどうしたの?」
相変わらずまぬけ面。けど、さっきまでとちょっと違う。少しのシリアスを含んだその表情。
「別に何もないって」
「いつもの裕樹ならもっと楽しそうに僕を蹴るよ」
…………失礼なヤツだ。
「まるで私が常時フィルのことをいじめてるみたいじゃない」
まぁ確かに良く蹴ってるけど。
「裕樹はエスだよね」
フィルは微笑んだ。
私もそれにつられる。
なんだか、フィルには話してもいい気がしてきた。
「…………まぁ、ちょっとあってね」
本当はちょっとじゃないけど。
「僕に話してみる気はない?」
フィルの青い瞳に吸い込まれそうになる。不意打ち。この男、間抜け面だけど、そういえば相当カッコいいんだった。
「じゃぁ、廊下で立ち話もなんだし。トレーニングでもしながらね」
私はフィルのこと、結構信頼してる。だから話すとしたら彼しかいないと思った。ユリカがここにいないなら尚更。フィルはユリカの次に信頼できる友人だ。
私たちははトレーニングルームまで無言で歩いた。三十秒の距離。だけど気まずさを感じるには十分な時間だった。
部屋に入るなり、入り口のエアロバイクを起動する。
「あんたは使わないの?」
「僕は良いや、もう体力残ってない」
「ひ弱な王子様だこと」
設定はもちろんハードに。フィルとは違って、体力には結構自信があった。
スケートは見た目の優雅さとは裏腹に、途方もない体力を必要とする。もちろんスケート選手ならある程度以上の体力を持っていなければ話にならない。だが、世界チャンピオンだって、フリーが終わったあとは息も切れ切れになるのが普通だ。
けれど私は、体力だけならバンクーバーオリンピックのメダリスト全員をも上回る自信がある。
私が勝負強い理由の一つでもある。つまり、冒頭の難度の高いジャンプに失敗して体力を消耗しても、その後を立て直すに十分な体力がある。
才能だけでなく、普段のトレーニングあってのことだ。だから、私は毎日陸上トレーニングも欠かさない。
といっても、今は体を動かして少しでも気を紛らわしたいだけだが。
「…………」
誰もいないトレーニングルームに機械音だけが響く。
十秒くらい黙りこんで、そして私はようやく口を開いた。
「お父さんが、転勤しなきゃいけないんだって」
フィルは息を呑んだ。
反秒送れて、
「え?」
そんな半信半疑がにじみ出た反応。
「お父さん、私と離れたくないんだってさ」
「ってことは裕樹は日本にいっちゃうの?」
いつものにこやかな顔とは打って変わってシリアスな顔のフィル。普段なら、彼がこんな表情をするのは試合のときくらいだ。
私のこと、それなりに友達だと思ってくれているんだろう。
「どうかな」
そう否定したのは、認めたくない気持ち半分、それから抵抗心が半分。
実際にはほぼ決定事項だ。
スケートにはお金がかかる。
スケート、その起源は貴族たちの遊戯に由来するという。そしてお金がなければ続けることができないのは現代になっても同じだ。
莫大なお金。特に世界を舞台に戦うとなれば尚更だ。
コーチング料は言うに及ばず、衣装代も特注だから値が張る。振り付けだって、一流の振り付け師に頼めばワンプログラム百万は当たり前。基本的にほとんどの大きな大会は海外で開催されるから遠征費だってかかる。
これから有名になっていけば、いろいろお金も入ってくるが、今現在は父に全てを依存している。
私がスケートを続けてこれたのは、お父さんが、学生時代一生懸命勉強をして、一流の大学に入って、一流の企業に入って、そこでまた努力して出世競争を勝ち抜いて、お金を稼いでくれるから。
お父さんは、常に私に最善の環境を提供してくれた。本当に、一円も惜しまずに支援をしてくれた。
それは本当に感謝している。
けど、ユリカと離れるなんて、私は到底無理な話だ。
ユリカのいない氷上に何の価値がある。
ユリカのいない人生に何の価値がある。
大げさに言ってるんじゃない。心のそこからそう思う。
「私日本に行ったらスケートやめるかも」
それは本音だった。
ユリカがいなければ、スケートの辛い練習に耐える自信なんかこれっぽちもない。
何が楽しい?
「冗談だよね?」
フィルはまさかという顔。
「割と本気だけど」
子供みたいというかもしれない。
けれど、私はスケートに憧れてスケートを始めたのではない。ユリカに憧れてスケートをはじめたのだ。
ううん、憧れたというのも違う。
ユリカと友達になりたかった。
それが一番の理由。
十年前のあの日から。
日本から遠い異国の地にやってきた時、私は心細かった。友達が一人もいなかった。そんな時、初めて彼女に出会った。
話したいって思った。近づきたいって思った。それまで誰にも話しかけられなかったのがウソみたいだった。
それから、毎日が楽しかった。
ただただ、彼女についていきたかった。
毎日必死で練習した。ユリカが必死で練習していたから。
私にとって、スケートはユリカの一部でしかない。好きだ。けれどそこからユリカを差し引いたときに、残る“好き”の大きさが、厳しい練習に耐えるだけのものかと聞かれたら首を横に振る。
「ううん、ごめんウソ」
よく考えて、気がついた。
私はスケートをやめたりしない。
だって、もしそうしたら、完全にユリカとの繋がりがなくなっちゃう。
二度とユリカの隣を歩けない。
だからやめたりはしないだろう。
でも問題本質は変わらない。
私はスケートが好きなんじゃない。ユリカが好きなんだ。
「ねぇ、フィル、私日本に行きたくない。どうしたら良いかな?」
答えは求めていなかった。ただ、弱音を吐露したかっただけ。
「お父さんを説得できないの?」
「無理だと思う。私が唯一の家族だし、私が言うのもなんだけど、子離れできてないから。娘のことで、なにかを決めたら梃子でも動か…………」
いや、俟<ま>て。
俟てよ。
そうか。
見つけた。
たった一つ、お父さんの心を動かせる“梃子”を。
「フィル、あんた最高よ!」
沈みこんだ心は一転、希望の光を見出した。
突然見つかった可能性に私の心は舞い上がって、思わずフィルに駆け寄って抱きしめた。
「え、えーーー」
唖然とするフィルに、キスでもしそうな勢いの私。いや、もちろんしないけど。ファーストキスはユリカって決めてる。
「なんとかなるかもしれない! ありがとうフィル!」
「お、お役に立ててよかった……」
フィルの顔を見ると、いつもの間抜け面に戻っていた。




