#15 — 黄泉の守護封印
[冥府女学院 — 東寮]
リュウの部屋の隙間から溢れ出した黒霧が、寄生虫の群れのごとく廊下を這いずり回る。廊下の空気は瞬時に熱を帯び、粘りつくような死臭が漂い始めた。天井の照明が激しく明滅し、一斉に爆ぜる。降り注ぐガラスの破片は、リュウから放たれる禍々しい紫光を反射し、床を銀色に染めた。
この霊圧はもはやただの「冷気」ではない。物理的な質量を持った「暴力」だ。コンクリートの壁には、巨大な見えない手に握りつぶされたかのような亀裂が走り、重低音の破砕音が響き渡る。廊下にいた生徒たちは、肺の中の酸素を強引に奪われ、次々と地面に這いつくばった。指先が血に染まるほど床を掻きむしり、彼女たちは重力を歪ませるその「中心」から逃れようと必死に足掻く。
完全崩壊した室内。リュウは瓦礫の山に膝をつき、その身体を痙攣させていた。
毛穴という毛穴から鮮血が噴き出し、ボロボロに裂けた衣服を濡らす。周囲では黒い触手が空を切り裂き、空間そのものを歪ませている。その光景を目にした者は、脳を直接かき回されるような眩暈と、内臓を押し潰されるような圧迫感に襲われた。
「リュウ……! やめて、止まって!!」
ケイコは激痛に耐え、強引に足を踏み出した。
だが、わずか二歩。目に見えない衝撃波が彼女を直撃する。ケイコは後方へと弾き飛ばされ、コンクリートの床に膝を叩きつけた。横隔膜を締め上げる圧倒的な霊圧に呼吸を封じられ、彼女は胃液を吐き出しながら悶絶する。
「ぐっ……!」
レイがケイコの襟を掴み、さらなる追撃を防ぐ。レイの瞳は鋭く細まり、狂ったように荒れ狂う重力に抗うべく首筋の血管が浮き上がっている。その手に握られた短剣は激しく震え、前方に広がる深淵のような闇を映し出していた。
「これは……ただの霊力じゃない。黄泉から漏れ出した死の残滓だ」
レイが絞り出すような声で毒づく。喉は焼けるように熱く、空気を吸い込むことさえ苦痛だった。
後方に立つリンの長い髪は、一点に渦巻く暴風に激しく煽られていた。その冷徹な瞳は、リュウを取り巻くエネルギーの奔流を解剖するように見据える。常に冷静な彼女の顔が、今は死人のように青ざめていた。室内の霊的構造が無理やり捻じ曲げられ、すべてを呑み込もうとする「小規模なブラックホール」が形成されつつあるのを彼女は見ていた。
「……胸だ! 中心は胸にある!」リンが風の唸りに負けじと叫ぶ。「内側から、何かが突き破ろうとしている!」
アヤネは探知能力を極限まで引き上げた直後、よろめきながら後退した。その瞳は恐怖で激しく揺れ、人間の論理を超越したそのエネルギーの正体に震えていた。
「誰も近寄らないで!」アヤネが悲鳴を上げる。「あの門の向こう側にいる『何か』が、リュウの身体を解剖している。彼の肉体を橋にして、この世界へ這い出そうとしているのよ!」
リュウがゆっくりと顔を上げた。
首の骨が錆びついた蝶番のようにギチギチと鳴る。見開かれた瞳から瞳孔は消え去り、そこには漆黒の闇から溢れ出した粘り気のある黒血が溜まっていた。
「あ……が、あ…………痛……い……」
それは幾重にも重なった獣の咆哮。奈落の底から響く呪詛の声だ。リュウの右手が、鋼鉄をも容易く砕く力で己の胸を掴む。爪が表皮を突き破り、剥き出しになった赤黒い筋繊維を容赦なく引き裂いた。噴き出した血は空気に触れた瞬間、黒煙となって蒸発していく。
背後では、黒霧が巨大な角を持つ影へと凝固し始めた。それは一瞬だけ、腐敗した液を滴らせる牙を剥いて嘲笑うと、再び濃密な霧へと霧散した。
――ドォォンッ!!
足を踏み鳴らす衝撃が廊下の床を砕く。
ソウゲンがそこに立っていた。男の顔は鬼のように険しく、怒りと焦燥を堪えるように顎の筋肉が盛り上がっている。その魔力が爆発的に解放され、侵食を続けるリュウの黒霧を強引に押し留めた。
「……あり得ん。依代同士の共鳴が、すでに完全同調の段階に達しているというのか!」
ソウゲンの背後に、精鋭講師陣と二人の長老が姿を現す。彼らは即座に円陣を組み、震える指先で印を結び始めた。周囲のオーラはあまりにも腐食性が高く、彼らの法衣は瞬時に色褪せ、ボロボロに朽ち始めていた。
「ソウゲン!」長老の一人がその名を叫ぶ。
ソウゲンは答えない。
「今夜、ここで失敗すれば……!」
「失敗などさせん」
ソウゲンは己の親指を深く噛み切り、溢れ出した赤黒い血を掌に塗りたくった。
「レイ! リン! この空間を釘付けにしろ! 次元の亀裂をこれ以上広げさせるな!」
レイが床に掌を叩きつけると、漆黒の氷柱が突き出し、霧の動きを物理的に凍結させる。リンは瞳を閉じ、重力を下方へ一点集中させた。コンクリートの床が十センチ以上も陥没し、リュウのオーラが上方へ拡散するのを無理やり封じ込める。
ケイコは血に染まった膝を引きずりながら、なおも前へ進む。リュウの肩に触れた瞬間、掌が焼けるような痛みに襲われたが、彼女は手を離さない。
「リュウ……!」ケイコの声が震える。彼女の涙は、リュウの身体から発せられる熱によって、落ちる前に蒸発した。
「下がれ、ケイコ!!」ソウゲンが怒号を飛ばす。
老人は血に塗れた掌を瓦礫の床へ叩きつけた。リュウの足元で白黒の魔法陣が爆発的に展開され、古の文字が高速で回転を始める。鼓膜を突き刺すような高周波の共鳴音が響き渡った。
「――屍鬼封印……!」
建物の気温が氷点下へと急降下する。
「――黄泉の鎖!」
魔法陣の中心から、漆黒の鉄鎖が無数に飛び出した。鎖は赤錆び、鋭い刺がびっしりと並んでいる。そこに刻まれた呪詛の文字が血の色に輝いた。
――ガシャァァンッ!! ガシャァァンッ!!
鎖がリュウの手首を縛り上げ、その肌を焼き爛れさせる。首に巻き付き、声を物理的に圧殺する。そして、今まさに弾けようとしていた『黄泉の門』の紋章の上を、十字に、無慈悲に拘束した。
リュウの黒いオーラが牙を剥き、鎖に噛みつく。鎖が軋み、黒い火花を散らす。
ソウゲンは額の血管が破れんばかりに魔力を絞り出した。
「あああああああああああああああああっ!!」
リュウの絶叫が冥府の夜を引き裂く。その声の圧力だけで、寮の全窓ガラスが外側へと爆ぜた。まるで榴弾が炸裂したかのような衝撃だ。
次の瞬間、リュウの身体から力が抜けた。頭がガクリと前に垂れる。彼の意識は、底なしの深淵へと沈んでいった。
[意識下 — 虚無]
リュウは方向感覚のない場所で目を開けた。床も、空気もない。ただ濡れたように冷たく、息の詰まる漆黒が広がっている。
重い金属が擦れ合う音が遠くから響き、静寂を切り裂いて鼓膜を震わせる。
目の前には、巨大な石の門が聳え立っていた。その表面は赤い光を放つ無数の亀裂に覆われている。
――『黄泉の門』。
数センチだけ開いた門の隙間から、巨大な紅蓮の瞳がゆっくりとこちらを覗き込んだ。その眼差しは、視線を合わせただけで精神を粉砕しかねない純粋な「悪意」に満ちている。
「……これしきの……無駄な足掻きを」
崩落する山のような重低音が、リュウの魂を直接揺さぶった。
リュウは腕を動かそうとしたが、全身を何万本もの見えない針で空間に縫い付けられたかのように、指一本動かせない。
「貴様らに……この穴を永遠に塞ぎ続けることなど……できはせぬ。矮小な人間め……」
それは、骨の上を刃物で撫でるような乾いた笑い声だった。
[太陽神学園 — 中央広場]
東寮の無残な残骸から、依然として黒煙が立ち昇っている。その廃墟の中心で、エイジは直立していた。
その肉体からは黒雷が断続的に爆ぜ、半径五メートル以内のあらゆる物体を消し炭に変えている。
胸の傷口からは粘り気のある黒血が流れ落ち、床のコンクリートを酸のようにドロドロに溶かしていた。目は開いている。だがその眼窩に宿るのは意志ではなく、ただ「破壊」のみを目的とした本能のプログラムだ。
遠巻きに見守る生徒たちの顔には絶望が張り付き、近寄ろうとした講師たちは、エイジが放つ電磁障壁によって紙切れのように弾き飛ばされた。
太陽神の五長老が同時に着地し、エイジを包囲するように五芒星の陣を敷く。その一人、銀髪をなびかせる「ヨシ」こと吉本が前へ出た。周囲が血と泥に塗れる中、彼の白い法衣だけが汚れ一つなく輝いている。
「……器が限界だ。漏れ出しすぎているな」ヨシが低く呟き、エイジの胸の亀裂を冷徹に見据える。
闇の影に潜んでいた四人のイザナミのハンターたちが、音もなく後退を始めた。彼らが抱えるミサエの身体は半ば崩壊し、鼻を突くような黒血の腐臭が漂っている。
「……ちっ」ミサエが黒い血塊を吐き出した。「あと……わずかだったというのに……完全に……目覚め、かける、とは……」
荒神ダイゴは、遠くからエイジを凝視していた。刀の鞘を握る手が、異常な霊的共鳴によって激しく震えている。
「同調周波数が予測値を超えている。イサム様に報告し、即刻離脱するぞ」ダイゴが唸る。
「引くぞ!」ジンが氷のように冷たい声で命じた。「長老どもの封印が発動すれば、我らの魂まであの光の地獄に引きずり込まれる」
一瞬にして、五人のハンターは黒霧に紛れて消失し、太陽神学園に混沌だけを残していった。
ヨシは瞳を閉じ、深く息を吸い込んだ。右手を銅色の夜空へと掲げる。学園の全域を覆い尽くさんばかりの黄金の巨大魔法陣が上空に展開され、夜を昼へと変える猛烈な輝きを放った。
「――太陽封印!」
天から降り注ぐ光の鎖は、さながら流星雨のごとくエイジの周囲の地を穿った。
――ギガァァァァァァァァッ!!
エイジが天を仰ぎ、人間のものではない咆哮を上げる。黄金の光が黒霧を焼き払い、溢れ出した闇のエッセンスを毛穴の奥へと強引に押し戻していく。大地が激しく悶絶するように震え、やがて、すべてが死のような静寂に包まれた。
[イザナミ学園 — 藤田不動の私室]
他の二校の地獄絵図とは対照的に、この部屋は静まり返っていた。
藤田不動は、黒檀の椅子に深く腰掛けていた。窓から差し込む月光は彼の顔を半分だけ照らし、その口元に浮かぶ醜悪な笑みを際立たせている。
天井を這う黒いオーラは、まるで意思を持つ煙のように蠢いているが、そこに苦痛の叫びはない。闇は不動の指先の動きに従順に従い、さながら死の交響曲を奏でる指揮者の前に跪く楽団のようだった。
不動がゆっくりと右手を上げる。
天井の闇が、生き物のようにうねりながら彼の指先に集束していく。
彼は地平線の先を見据えていた。異なる場所で、今まさに二つの封印が強引に閉じられたその感覚を、彼は全身で享受していた。
不動は静かに手を下ろす。
「……封印さえすれば、事が済むと思っているのか」
その笑みは、いささかも揺るがない。
「……愚かな。すべては時が来れば、自ずと目覚めるというのに」




