第8話 王族の血
「私の本名は、エルヴィン・フォン・ヴェステンです」
日が落ちた執務室に、その声だけが響いた。
宰相府の文官たちはとうに帰り、廊下に人の気配はない。魔導灯が二つ、淡い光を落としている。いつもの深夜残業の空気──のはずなのに、今夜は違った。エルヴィンが書類を片付けた後、扉を閉めた。それだけで、部屋の温度が変わった気がした。
宰相閣下の言葉が蘇る。三日前のことだ。「彼は単なる補佐官ではない」。
──答えが、今、目の前にある。
エルヴィンは机の上に二つの印を並べていた。一つは見慣れた「ランツ」の印。もう一つは──ヴェステン王族の紋章が刻まれた、金縁の印。
ヴェステンに来た最初の日。彼の机の隅に見えた、あの紋章。「公文書かしら」と思って深く考えなかった封書の意匠と、同じだった。
「公王フリードリヒ二世の甥にあたります。王位継承権は第三位。──父は公王陛下の弟で、病で亡くなりました。母はランツ家の出です」
淡々とした声。条項を読み上げる時と同じ温度で、自分の血筋を告げている。
王族。
三年間の文通相手。宰相府の補佐官。書類の余白に「関税率0.3%の根拠をご教示ください」と書いてきた几帳面な人。インクを「備品です」と言い張り、深夜に上着をかけてくれた人。夜会で「外交問題になりますが」と庇ってくれた人。
──その人が、王族だった。
(……ああ。だから宰相閣下は「いずれお知らせする」と──)
「なぜ、隠していらしたの」
声は出せた。震えなかった。まだ、震えていない。
「王族が行政職に就くことは、ヴェステンの慣習法で制限されています」
エルヴィンの視線が、二つの印の上で止まっている。こちらを見ない。
「私は行政がやりたかった。だから母方の姓で、文官として働いてきました」
行政がやりたかった。
その言葉だけは、嘘ではないと分かった。三年間の書簡と、この二ヶ月の共同作業を経て、この人がどれほど実務を愛しているかは私が一番知っている。法令の解釈に目を輝かせ、条文の整合性に夜を徹する人間が、嫌々行政をやっているはずがない。
「……それで、なぜ今お明かしになるのですか」
エルヴィンがようやく顔を上げた。灰青の瞳が、魔導灯の光を映している。
「両国合同通商会議が近い。私が王族として出席すれば、ヴェステンの外交的立場が強くなります。あなたを──当国を守るために、最も効果的な手段です」
あなたを。当国を。
言い直した。「あなたを」が先に出て、「当国を」で上書きした。──聞き間違いではない。
でもそれよりも、私の頭を占めていたのは別のことだった。
「王族として出席なさるということは──」
「ええ。慣習法に従えば、宰相府の職は辞さなければなりません」
胸の奥で、何かが音を立てて軋んだ。
◇
宰相府の職を辞す。
つまり、共同業務は終わる。隣の執務室からペンの音が聞こえなくなる。深夜の書類仕事で二つのペンが重なることも。書類を渡す時に指先が触れることも。
──また。
(また、だ。また仕事の関係がなくなる)
断罪の日の大広間が脳裏をよぎった。金髪の青年が「婚約を破棄する」と宣告した、あの声。十年間、「仕事ができるから」傍に置かれ、不要になったら切り捨てた。
あの時と何が違う?
私の価値は仕事だけだ。仕事ができるから隣にいることを許された。仕事の関係がなくなれば──この人も、私を必要としなくなる。
(──違う。ランツ殿は殿下とは違う。違うはずだ。でも……)
でも、の先が出てこなかった。心の奥で、十年分の記憶が鎖のように絡みついている。
「合理的なご判断だと思います」
声を出した。平らに。感情を混ぜずに。──混ぜなかったはずなのに、最後の「ます」が微かに掠れた。自分の耳に聞こえるか聞こえないかの、ほんの僅かな震え。
エルヴィンが──いえ、エルヴィン・フォン・ヴェステンが、じっと私を見た。
見ないでほしかった。今この顔を見られたくない。泣いてはいない。泣いてはいないけれど、目の奥が熱い。魔導灯の光が滲んで見えるのは、明かりのせいだ。
「ヴェルナー嬢」
「はい」
「あなたを失うくらいなら──」
息を呑んだ。
エルヴィンの声が、初めて揺れていた。あの平らで抑揚のない声が、たった一文の途中で途切れた。唇が動いた。何かを続けようとして──閉じた。
沈黙。
魔導灯の炎が揺れる。窓の外で、夜番の鐘が一つ鳴った。
(……今、なんて言おうとしたの)
「あなたを失うくらいなら」の先には、何があったのだろう。王族など要らない、と言おうとしたのか。それとも──
聞けなかった。聞いてしまったら、それが仕事の評価でなかった時、私はどうすればいいのか分からない。仕事以外の理由で必要とされることに、私は耐えられるのだろうか。
「……失礼しました。不適切な発言でした」
エルヴィンが目を伏せた。声はもう、いつもの温度に戻っていた。まるで条項の訂正でもするように、さっきの言葉を取り消した。
取り消さないで、と思った。思ったけれど、言わなかった。
「通商会議の準備を進めましょう。──おやすみなさい、ランツ殿」
「ランツ」と呼んだ。本名を知った後で。もう「ランツ」ではないと知っていて。
エルヴィンは一瞬、何か言いたそうに口を開きかけて──やめた。
「おやすみなさい」
足音が遠ざかる。木の床を踏む、聞き慣れた静かな音。それが廊下の角を曲がって消えるまで、私は机の前から動けなかった。
◇
官舎の自室。
通信石は父が持たせてくれたものだ。五十字程度の短文しか送れない、高価な代物。これまで一度も使わなかった。使う必要がなかった。
今夜、初めて手に取った。
『──決裁記録の写し一式を至急送られたし。通商会議に間に合うよう、宰相府宛に。アネリーゼ』
短い文。これで十分だ。
父なら意味を理解してくれる。「証拠は残せ」と教えてくれたのは父だ。前の世で叩き込まれた鉄則を、この世界で実行できるように導いてくれた人。
通信石が微かに光って、消えた。文は届いた。
(──仕事だ。仕事で、証明するしかない)
エルヴィンが王族に戻る。宰相府を去る。共同業務は終わる。
それでも──通商会議がある。十年分の決裁記録がある。それを使って、ルーヴェンの嘘を暴き、ヴェステンの交渉を勝ち取る。それが私にできる唯一のこと。仕事の関係がなくなっても、仕事の結果は残る。
仕事で証明する。
仕事でしか──証明できないのだから。
目元が熱いのは、通信石の残光のせいだ。そういうことにしておく。
◇
翌朝。
執務室に着くと、エルヴィンの姿はまだなかった。いつもなら私より先に座っているのに。
代わりにマルグリットが紅茶を持って現れた。
「おはよう。──顔色が悪いわね」
「夜更かしが過ぎましたわ」
「嘘おっしゃい。あなた、いつも夜更かししてるでしょう。今日のは別の種類の顔色よ」
返す言葉がなくて、紅茶を受け取った。
マルグリットが窓際に座り、少し声を落とした。
「ねえ。一つ、気になることがあるの」
「何でしょう」
「昨日の夕方──ランツ殿が宰相閣下の執務室に入っていくのを見たのよ。何か書類を持って。閣下と長いこと話し込んでいたわ」
「……お仕事の報告では?」
「報告にしては、出てきた時のランツ殿の顔が妙だったのよ。覚悟を決めたような──いえ、何か大きなことを申し出た後の、あの感じ」
覚悟を決めた顔。
何を申し出たのだろう。王族として通商会議に出席する手続きの話だろうか。それとも──
分からなかった。分からないまま、マルグリットの紅茶を飲んだ。温かくて、少し渋い。いつもと同じ味のはずなのに、今朝はなぜか喉の奥が痛い。
隣の執務室の扉が半開きのまま、空っぽの机が見えている。あの机に、エルヴィンの几帳面な文字で書かれた注釈がもう増えることはないのかもしれない。
──私宛だけ丁寧だったという、あの文字が。




