第9話 通商会議
断罪の日から、もう何ヶ月が経っただろう。
あの大広間で婚約を破棄された私が、隣国の代表団の席に座って、かつての婚約者と向かい合っている。──前世のゲームには、こんなイベントはなかった。
ヴェステン公国迎賓館。大会議室の長卓は白木で磨き上げられていて、両端に両国の代表が向かい合う。窓から射す冬の光が冷たく、卓上の書類を白く照らしていた。
ルーヴェン側。正面奥の席に、金髪の青年。
王太子クラウス・フォン・ルーヴェン殿下。よく通る声、整った顔立ち、カリスマ性だけは本物の人。その隣に、栗色の髪の少女──聖女リリアーネ。白いドレスの肩が微かに震えている。あの日の大広間と同じ仕草。何ヶ月経っても、変わらないらしい。
殿下の視線がこちらに向いた瞬間、碧い瞳が見開かれた。
私の顔を見て。私の席──ヴェステン代表団の実務責任者の席を見て。顔色が変わった。
(──久しぶりですわね、殿下。お元気そうで何よりです)
もちろん口には出さない。代わりに、手元の分析資料に目を落とした。数字が整然と並んでいる。私が作った数字。私が組んだ論理。これが今日の武器だ。
ヴェステン側の席には、宰相ゲオルク閣下。そして──エルヴィン。
エルヴィン・フォン・ヴェステン。今日は母方の姓ではなく、王族の名で出席している。公王陛下の名代として。正装の胸元に、ヴェステン王族の紋章が光っていた。
あの夜、執務室で二つの印を並べて見せた人。「あなたを失うくらいなら」と言いかけて、止めた人。
──今は、考えない。仕事だ。
◇
「両国の通商条約改定に関し、ルーヴェン王国の立場を申し上げる」
殿下が口を開いた。声の張り方、間の取り方、視線の配り方。十年間隣で見てきたカリスマ性が、今日も健在だった。
「従来の関税率を維持し、両国の友好関係の歴史と信頼に基づいた──」
「殿下」
宰相ゲオルク閣下が、静かに遮った。
「信頼の根拠を、数字でお示しください」
会議室が一瞬、静まった。
殿下の唇が動いた。何かを言おうとして──言葉にならなかった。数字。具体的な関税率の分析。過去十年の通商実績の推移。それらを作っていたのは私だ。私がいなくなった後、新しいデータを作れる人間がルーヴェンにいない。
ルーヴェン側の外務官僚が慌てて書類を繰っている。不完全な資料。数字の根拠が曖昧で、前提条件の記載が抜けている。
「ヴェステン側から、通商実績の分析データを提出いたします」
私は立ち上がって、資料を配布した。過去十年分の関税収入推移、品目別輸出入比率、最恵国待遇の適用実績。全て数字で。全て根拠付きで。
ルーヴェン側の官僚が資料に目を落とし、顔色を失っていく。比較にならないのだ。精度が。密度が。十年分のデータを頭に入れている人間と、三巻で挫折した人間の差が、紙の上に残酷なほど明らかに出ていた。
「なお──」
ここで一拍、間を置いた。断罪の日の大広間でそうしたように。数字は嘘をつかない。
「過去十年間の両国通商実績と、その立案・決裁の記録を提出いたします」
鞄から取り出したのは、父が送ってくれた決裁記録の写し。十年分の公文書。一枚一枚に、立案者の筆跡と、決裁者の署名が残っている。
「筆跡鑑定と印鑑照合をお求めいただければ、どなたが何を立案し、どなたが署名のみを行ったか──明らかになりましょう」
卓上に、記録の束を置いた。
沈黙。
殿下の顔から、表情が消えた。カリスマの仮面が剥がれて、その下にあるのは──十年間、書類に目を通さなかった人間の、空白。
列席した各国の大使が、記録に視線を落としている。立案者の欄に繰り返し現れる筆跡は一つ。決裁者の欄に並ぶ署名も一つ。別々の字だ。立案と決裁が、完全に分離している。
(──見てください、殿下。これが十年間の「成果」の正体です)
私は何も言わなかった。記録が語っている。数字が語っている。それで十分だった。
◇
「お待ちください」
聖女リリアーネが立ち上がった。
白いドレス。震える肩。同情を誘う仕草──社交夜会の時と同じだ。でも今日の相手は、貴族の夫人たちではない。
「アネリーゼ様が壟断していたからこそ、このような記録が残っているのです。正常な行政ならば一人の手に集中するはずがありません」
壟断。また、その言葉。
私が何か言う前に、席の端からマルグリットが声を上げた。
「失礼いたします。ヴェステン公国宰相府文官、マルグリット・ホフマンです」
マルグリットが立ち上がった。赤毛を一つに束ねた、いつもの姿。ただし今日は宰相府の正式な文官服を着ている。
「記録の中身をご確認ください」
マルグリットが記録の一部を開いて見せた。
「各案件に、関係部署との連携記録が添付されています。予算局との協議記録。法務局への照会記録。地方行政との調整記録。代替案の比較検討書には、複数部署の意見が反映されています」
一枚ずつ、指で示す。
「壟断ならば、連携の記録は存在しません。一人で全てを決めたならば、他部署への照会は不要です。──これは壟断ではなく、一人の実務者が各部署と協議しながら行政を運営した記録です」
聖女の唇が開いた。「でも……」
言葉が続かなかった。
具体的な反論が、一つも出てこない。関税率の数字も、法令の根拠も、行政の手続きも──何一つ示せない。「壟断」という言葉だけを武器にして、その中身を確認したことがないから。
殿下がリリアーネの方を見た。助けを求めるように。でもリリアーネは殿下を見返して、同じ目をしていた。二人とも、何も持っていなかった。
(──見た目だけなら完璧な二人。断罪の日と、同じ)
違うのは、今度は私が追い詰められる側ではないということだ。
◇
休憩が宣言された。
会議室を出ると、迎賓館の回廊に冬の光が差し込んでいた。白い石壁に影が落ちて、ルーヴェンの王宮の廊下とは全く違う空気が流れている。乾いて、冷たくて、でもどこか清潔な空気。
一人になりたかった。足が少し震えている。証拠で勝ったとはいえ、殿下の顔を──あの空白の表情を見た瞬間、胸の奥がきしんだ。
十年間、あの人の隣で書類を捌いた。その十年が、今日、記録として卓の上に晒された。
「……見事な仕事でした」
足音。木の床ではなく、石の回廊を踏む靴音。振り返ると、エルヴィンが立っていた。正装のまま。胸元のヴェステン王族の紋章が、窓からの光を受けて鈍く光っている。
「……仕事ですから」
いつもの返し。いつもの温度で。
エルヴィンは二歩、近づいた。いつもの歩幅。私に合わせたあの歩幅で。
少し間があった。
「あなたの決裁印が、ずっと好きでした」
──え。
「三年前、初めて受け取った通商書類の余白に、あなたの決裁印が押してあった。急ぎの案件の時だけ、印が少し右に傾く。それに気づいた時から──」
声が、変わっていた。あの平らで抑揚のない声が。条項を読み上げる時の声とも、夜会で外交官を退けた時の声とも、執務室で「備品です」と言い張る時の声とも、全部違う。
「あなたの筆跡が好きで。急いでいる時に筆圧が上がるのが好きで」
心臓が鳴っている。うるさいくらいに。
「──つまり、全部好きです」
回廊が静かだった。冬の光が白い壁に落ちて、石の床に二人分の影が伸びている。
「……業務評価ですか?」
声が震えた。自分でも分かった。防衛反応だ。仕事の言葉で返せば、仕事の関係に留められる。仕事の関係なら、傷つかなくて済む。
「いいえ」
エルヴィンの灰青の瞳が、真っ直ぐに私を見ていた。
「それは……褒め言葉、でしょうか」
「最上級の」
目の奥が熱くなった。魔導灯のせいにはできない。ここは回廊で、光源は窓から差す冬の日差しだけだ。
泣かなかった。泣いてはいない。でも視界が滲んでいる。滲んでいるのに、エルヴィンの顔だけがはっきり見えた。前髪の下の灰青の瞳。口元の、微かな──笑みとも呼べないくらいの、柔らかさ。
(──全部好き、ですって。決裁印から始まって、全部。この人、本当に仕事の言葉でしか愛を語れないのね)
(──私も、だけど)
何か言わなければ。何か返さなければ。でも言葉が見つからない。仕事の用語なら千も万も出てくるのに、こういう時に使う言葉を、私は知らない。前世でも今世でも、誰にも教わらなかった。
「……会議の後半が始まりますわ」
結局、それしか言えなかった。
エルヴィンは頷いた。それだけ。でも──踵を返す直前に、彼の手が一瞬だけ伸びた。私の手に触れかけて、止まった。触れなかった。紙一枚分の距離で。
あの夜の執務室と、同じ距離。
◇
会議室に戻る。席に着く。手元の書類に視線を落とす。数字が並んでいる。いつもと同じ。
──同じはずなのに、指先がまだ熱い。触れなかった手の残像が、紙の上にちらついて消えない。
午後の会議が再開された。ルーヴェン側は大幅に譲歩した条件を提示してきた。数字の前に、弁舌は無力だった。
閉会の直前、宰相ゲオルク閣下が一通の書簡を読み上げた。ルーヴェン国王アルブレヒト三世陛下からの勅令の写し──会議の報告を受けて、即日発出されたものだ。
「王太子の補佐体制を見直す。当面、王太子の決裁権を制限し、行政官僚による合議制に移行する」
殿下の顔が歪んだ。リリアーネが殿下の袖を掴んだ。
「私が──私がお支えいたします。殿下のお傍で、私が──」
リリアーネの声が会議室に響いた。震えている。でもそこに、具体的な施策は一つもなかった。関税率の数字も。法令の根拠も。予算の配分案も。──何も。
列席者の目が、冷ややかだった。
私は何も言わなかった。ただ手元の書類を揃えて、次の議題の準備をした。いつも通り。ヴェステンの席で、いつも通り、書類を捌いている。
それだけで十分だった。
──回廊の光がまだ目に残っている。「全部好きです」が、まだ耳の奥で鳴っている。
会議が終わったら、あの人に何と言おう。仕事の言葉以外で。
……まだ、見つからない。




