第3話 王宮は三日で止まる
良いインクは、良い仕事の第一歩である。
前の世でも、今の世でも、それだけは変わらない。──と、私は割と本気で思っている。
ヴェステンに来て三日目の朝。窓から差し込む白い光の中で書類を広げた瞬間、私は確信した。
この人とは、仕事がしやすい。
エルヴィン・ランツ。隣の執務室から持ってきた通商条約の草案に、彼の注釈が几帳面に書き込まれている。法令の引用は正確で、条項ごとに改正根拠が添えてある。しかも私が昨日提出した全体設計の素案を、もう読み込んでいた。
「ヴェルナー嬢。第四条の関税率ですが、貴国──旧ルーヴェン側の算定基準を直近三年分に更新した方がいいのでは」
「ええ。五年分の推移表を添付しますわ。昨夜のうちに作りました」
エルヴィンの手が一瞬止まった。
「……昨夜のうちに」
「データは手元にありましたので」
記憶、と言いかけて飲み込んだ。十年分の数字が頭の中に入っているのは、公爵令嬢の教育の賜物であって、決して前世の公務員経験による暗記力のおかげではない。そういうことにしておく。
エルヴィンは推移表を受け取り、数字を目で追った。速い。ルーヴェンの文官で、私の作った表をこの速度で読める人間はいなかった。
「正確です。このまま使えます」
短い評価。無駄な修飾がない。ルーヴェンの王宮で十年間聞いたことのない種類の言葉だった。
(……あの殿下は「ふむ、よかろう」しか言わなかったものね。表の中身なんて見てなかったし)
いけない。もういない人のことを考えても仕方がない。
書類を捌く。次の案件に手を伸ばす。エルヴィンも隣で同じように書類を広げている。ペンの走る音が二つ、執務室に重なる。
心地いい。
◇
翌朝。
机に着いて、すぐに気づいた。
ペン立ての横に、見慣れないインク瓶が置いてある。
深い群青色の瓶。ルーヴェンのリンデン工房の銘柄だ。少しだけ粘度が高くて、乾きが速い。細字の決裁書類に最も適したインク。私が十年間ずっと愛用していたもの。
──昨日、何の気なしに呟いたのだ。「リンデン工房のインクがあれば仕事が捗るのですが、この国では手に入らないかしら」と。独り言のつもりだった。
隣の執務室から書類を持ってきたエルヴィンに、何食わぬ顔で尋ねる。
「ランツ殿。このインクは……」
「備品です」
それだけ。目も合わせない。手元の書類に視線を落としたまま。
(……備品?)
備品にしては妙だ。昨日までなかったものが、私の一言の翌朝に置いてある。しかもルーヴェン産の銘柄を、ヴェステンの宰相府が備品として常備しているとは考えにくい。
──まあ、きっと備品管理が行き届いているのだろう。この国の宰相府は、ルーヴェンの王宮とは違う。
インクの蓋を開ける。馴染みのある匂いが鼻をくすぐった。ペン先を浸す。紙の上に滑らせると、ああ、やっぱりこれだ、と指先が喜んでいた。
「……良いインクですわ」
独り言のつもりだったのに、隣の部屋から微かに紙を捲る音が途切れた気がした。
気のせいだろう。
◇
「あなたがヴェルナー嬢?」
声をかけてきたのは、赤毛を一つに束ねた女性だった。書類の束を小脇に抱えて、私の執務室の入口に立っている。
「マルグリット・ホフマンよ。宰相府の文官。ランツ殿の同僚」
ホフマン嬢──マルグリットは、遠慮なく私の机の上を覗き込んだ。朝から積み上がっていた書類の山が、昼過ぎにはもう三分の一になっている。
「嘘でしょう。これ、今朝の分?」
「ええ。急ぎの案件から片付けましたわ」
「ランツ殿がずっと言ってたのよ、『ルーヴェンの決裁官は仕事が速い』って。本当だったのね」
(業務評価ですわね。ありがたいことだけれど)
マルグリットは机の端に腰を下ろし──行儀が悪いが、嫌いじゃない──紅茶の入ったカップを差し出してきた。
「飲みなさい。この国の宰相府は紅茶を切らすと文官が反乱を起こすの」
思わず笑ってしまった。ルーヴェンの王宮にはこういう空気がなかった。同僚と呼べる人間は一人もいなかったし、紅茶をくれる人もいなかった。
「ありがとうございます、ホフマン嬢」
「マルグリットでいいわ。ホフマン嬢なんて堅いのは宰相閣下の前だけで十分」
紅茶を一口。温かくて、少し渋い。
──仕事がある。同僚がいる。紅茶が温かい。
なんだ。こんな簡単なことだったのか。欲しかったのは。
◇
報告が届いたのは、マルグリットと通商条約の細則について議論していた夕刻のことだった。
エルヴィンが隣の部屋から顔を出し、一枚の紙を私の机に置いた。
「通信石で入った報。ルーヴェン王宮の状況です」
通信石。高価な短文通信。宰相府クラスでなければ使えない代物だ。
紙に目を落とす。走り書きの短い報告文。
──ルーヴェン王宮、機能不全に陥る。進行中の案件への問い合わせが各部署から殺到するも応答不能。引き継ぎ書類、未読のまま放置。予算執行の遅延が発生。地方への物資配送に滞りが出始めている。
三日。
私が去って、たった三日。
マルグリットが息を呑んだのが気配で分かった。エルヴィンは何も言わない。
「……そうですか」
私は報告の紙を机の端に置いて、手元の通商条約の草案に目を戻した。
「ヴェルナー嬢」
マルグリットが何か言いたそうにしている。心配しているのか、それとも旧国のことを聞きたいのか。
「大丈夫ですわ。引き継ぎ書類は百二十巻、完璧に用意してまいりました。あちらがお読みにならないのであれば、それはもう、わたくしの責任ではございませんので」
声は平らだった。自分でも驚くほど。
(──怒ってはいない。悲しくもない。ただ、少しだけ。ほんの少しだけ、「ほらね」と思ってしまう自分がいて、それが嫌だった)
次の書類に手を伸ばす。ヴェステンの地方交易ルートの分析資料。数字が並んでいる。数字は嘘をつかない。数字の前では、感情は邪魔なだけだ。
「ランツ殿」
「はい」
「念のためお伝えしておきますが、わたくしが十年間作成した決裁書類の写しは、すべてヴェルナー公爵家の書庫に保管してございます」
エルヴィンがペンを止めた。
「……写しを」
「父の教えで、重要書類は控えを取る習慣がございまして」
前世の記憶、とはもちろん言わない。証拠は残せ。何があっても、記録は残せ。それは前の世で叩き込まれた鉄則だった。
エルヴィンは数秒、私を見つめてから、小さく頷いた。
「賢明な判断です」
それだけ。でも、その「賢明」の二文字には、業務上の評価以上の重みがあった気がする。
──気のせいかもしれないけれど。
◇
日が落ちて、マルグリットが帰った後。
執務室に残って最後の書類を片付けていると、隣の部屋からエルヴィンの声が聞こえた。低くて、抑えた声。誰かと話している。通信石だろうか。
内容は聞き取れなかった。聞くつもりもない。人の通信を盗み聞きするほど品性を失ってはいない。
数分後、エルヴィンが私の執務室の入口に立った。その表情は普段と変わらない。変わらないのだけれど──顎の角度が僅かに上がっていた。何かを飲み込むような、そんな角度。
「ヴェルナー嬢。一つ、お伝えすることがあります」
「何でしょう」
「ルーヴェン王太子殿下が、あなたの連れ戻しを命じたとの情報が入りました」
ペンが止まった。
連れ戻し。
三日前に「婚約を破棄する」と言った人が、今度は「連れ戻せ」と言っている。
(……身勝手な方。十年間ずっとそうだった)
「正式な外交書簡はまだ届いていません。宰相閣下にも報告済みです。当面は──」
「ランツ殿」
私はペンを置いて、まっすぐ彼を見た。
「わたくしは、ここで仕事がしたいのです」
短い沈黙。
エルヴィンの灰青の瞳が、一瞬だけ揺れた。それは感情の揺れというより、何かを確かめるような──いえ、暗い廊下で光源を探すような、そんな目だった。
「……承知しました」
それだけ言って、彼は自分の執務室に戻っていった。
足音が遠ざかる。木の床を踏む、静かな音。
私は手元の書類に目を戻した。数字が並んでいる。ヴェステンの地方交易ルート。赤い線が引かれた地図。新しい仕事。
ルーヴェンの空はもう見えない。ここにあるのは、乾いた風と、白い石壁と、群青色のインクの匂い。
──それで十分だ。
十分、のはずだった。「連れ戻せ」という言葉が、まだ耳の奥に引っかかっている。




