第2話 お顔も知らない文通相手
ヴェステン公国の空気は、ルーヴェンよりも乾いていた。
馬車を降りた瞬間、肌がぴりっと引き締まる。秋の初めだというのに、吸い込む息にはもう冬の匂いが混じっている。首都の城門は白い石造りで、ルーヴェンの重厚な灰色とは印象がまるで違った。
──ここが、これからの場所。
十日間の旅路だった。父が手配した護衛は城門の前で別れ、丁寧に一礼して去っていった。「お嬢様のお力なら、どこでもやっていけます」。最後にそう言った老騎士の顔を、少しだけ思い出す。
紹介状を懐に確かめて、私は宰相府の門をくぐった。
◇
受付の文官は、紹介状に目を通すと眉を上げた。
「ルーヴェン王国ヴェルナー公爵家の……」
「アネリーゼ・フォン・ヴェルナーと申します。宰相府のE・ランツ殿にお取り次ぎいただけますか」
文官が何か言いかけて、やめた。代わりに奥の部屋を示す。
「少々お待ちください」
通された応接室は、ルーヴェンの王宮に比べると随分と質素だった。壁に絵画はなく、代わりに地図が三枚。机の上には未決の書類が数冊積んである。
(……応接室に書類が出しっぱなし。仕事が回っていないのか、それとも実務を最優先する文化なのか)
つい分析してしまうのは、もう病気だ。十日間の馬車旅で仕事から離れていた反動かもしれない。指先がむずむずする。書類が触りたい。
扉が開いた。
「お待たせしました。E・ランツ──」
……え。
入ってきたのは、私が三年間想像し続けた「E・ランツ殿」ではなかった。
中年の、少し腹の出た、眼鏡をかけた几帳面そうな文官──ではない。
同年代か、少し年上くらいの青年だった。灰がかった青い瞳。前髪が少し長くて、右目にかかっている。背が高い。肩幅がしっかりしていて、文官にしては体格がいい。
その青年が、私の顔を見て、ほんの一瞬──本当に一瞬だけ、目を見開いた。
「……私です。エルヴィン・ランツ」
低い声だった。落ち着いていて、抑揚が少なくて、でもどこか耳に馴染む。
(この声で、あの書類の余白に「関税率0.3%の根拠をご教示ください」って書いていたの?)
想像と違う。全然違う。でも──
エルヴィンと名乗った青年が、脇に抱えていた書類束を机の上に置いた。ぱさり、と紙が擦れる音。
私はほとんど無意識に、その書類に目を落としていた。
紙の端に走る、細く均整の取れた文字列。癖のない筆跡なのに、数字だけが微かに右に傾く。法令の引用箇所に薄く傍線が引いてある。
──ああ。
この字だ。
三年間、何十通も受け取った書類の字。余白に書き込まれた質問の字。業務改善提案書の、少し堅すぎる書き出しの字。
知っている。この字を、私は知っている。
息を吐いた。自分でも驚くほど、深く。
「……ランツ殿」
「はい」
「お手紙の字と同じですのね」
言ってしまってから、変なことを言ったと気づいた。初対面の相手に「字が同じ」とは、挨拶として破綻している。
でもエルヴィンは——青年は、少しだけ口元を緩めた。笑っているのかどうか判別が難しいくらいの、微かな変化。
「あなたの書類も、拝見しました」
そう言って、彼は私が持参した紹介状の束から一枚を取り上げた。父が同封してくれた、私の過去の決裁書類の写し。
エルヴィンの視線が、書類の右下──私の決裁印に止まった。
一瞬。ほんの一瞬だけ、彼の目が動かなくなった。印を、見ている。
何だろう。不備でもあったかしら。
「……問題がなければ、宰相閣下にお引き合わせします」
彼はすぐにいつもの──いつもの、と言ってしまうのも変だけれど──落ち着いた声に戻っていた。
◇
宰相ゲオルク・ヘルダーは、白髪交じりの壮年の男だった。
鷹を思わせる鋭い目。口元には深い皺が刻まれていて、それが笑い皺なのか苦労の皺なのかは分からない。ただ、書類を読む速度は速かった。私の紹介状、父の添え状、そして実務経歴の要約を、ものの数分で読み終える。
「ヴェルナー嬢。通商書類の改善提案書、三年分ほど拝読しています」
宰相が顔を上げた。感情を排した、値踏みするような目。
「ランツの報告では、貴国側の書類精度が二年前から顕著に向上したとのこと。あなたの仕事だそうですね」
「恐れ入ります」
「臨時顧問として採用します。条件は追って文書で」
速い。判断が速い。
有能な上司の匂いがする。ルーヴェンの王宮で十年間嗅いだことのない匂いだ。
「ルーヴェン王国の損失は、我が国の利益です」
宰相は淡々と言った。皮肉ではなく、事実の報告のように。
(──ああ、この国は数字で人を見る)
胸の底で、何かがほどけた。ずっと息を止めていたみたいだ。十日間の馬車旅の間、ずっと。
「ありがとうございます。お役に立てるよう努めます」
「期待しています。──ランツ、執務室を案内してやりなさい」
「はい」
エルヴィンが扉を開け、廊下に出る。私も続いた。
◇
宰相府の廊下は、よく磨かれた木の床だった。ルーヴェンの石造りとは違って、足音が柔らかい。
エルヴィンは黙って前を歩いている。
──いや。
前を歩いている、はずなのに。
彼の背中が、妙に近い。私が二歩進む間に、彼は一歩半しか進まない。身長差を考えれば、もっと先を歩いているのが自然なのに。
(……歩幅が合っている? たまたまかしら)
深く考えなかった。新しい場所の廊下を歩くだけで精一杯だ。窓から差し込む光が白っぽくて、ルーヴェンの黄みがかった午後の光とは違う。空気が乾いている。壁に掛かった地図は、ヴェステン公国の領土図──山がちの地形。通商路が赤い線で引いてある。
「こちらです」
エルヴィンが立ち止まった。
開かれた扉の向こうに、小さな執務室があった。窓が一つ。壁際に書棚。そして、窓際の机に──書類が積んである。
かなりの量だ。
「明日からの業務です」
エルヴィンが振り返った。その灰青の瞳に、微かに探るような色が見えた気がした。
「……多すぎますか」
(──多い? これが?)
ルーヴェンの王宮で、毎朝私の机に積まれていた書類の山に比べたら、半分もない。
「いいえ」
笑ってしまった。思わず。
「ちょうどいいくらいですわ」
エルヴィンが一瞬、目を瞬いた。それだけ。それだけなのに、なぜか空気が和らいだ。
机に近づく。椅子を引いて、座る。書類の一枚目を手に取る。指先に馴染む紙の感触。インクの匂い。
──あ。仕事だ。
十日ぶりの仕事だ。
書類の端に、エルヴィンの筆跡で注釈が書き込んであった。「本件、貴国──旧ルーヴェン側の対応窓口が不在のため保留」。
(不在の窓口って、それ、私のことでは?)
少しだけ可笑しくなって、唇の端を噛んだ。
ふと、エルヴィンの机が目に入った。こちらの執務室と繋がった隣室。扉が半開きで、彼の机の一角が見える。書類の山。ペン立て。──そして、山の隅に紋章の入った封書が一通。
見慣れない紋章だった。ルーヴェン王家のものでも、ヴェルナー公爵家のものでもない。
(ヴェステン公国の公文書、かしら)
この国の紋章をまだ覚えていない。あとで確認しよう、と思って、すぐに手元の書類に意識を戻した。
窓の外では、ヴェステンの乾いた風が白い石壁を撫でている。新しい机。新しいインク。新しい仕事。
そして──三年間、字だけを知っていた人が、隣の部屋にいる。




