第10話 百二十一巻目
王太子の決裁権を制限する──その勅令が読み上げられた時、会議場には紙を繰る音すらなかった。
通商会議最終日。ルーヴェン王国は大幅に譲歩した条件で条約改定に合意した。関税率の改定、最恵国待遇の見直し、通商ルートの再編。全てヴェステン側の提案が通った。数字と記録の前に、弁舌は最後まで無力だった。
閉会の直前に届いた一通の書簡。ルーヴェン国王アルブレヒト三世陛下からの勅令の写しだった。宰相ゲオルク閣下が読み上げる声は淡々としていて、その淡々さがかえって内容の重さを際立たせた。
「王太子の補佐体制を見直す。当面、王太子の決裁権を制限し、行政官僚による合議制に移行する」
権限剥奪。
処刑でも追放でもない。ただ「決裁権を制限する」。それだけの言葉が、王太子クラウス・フォン・ルーヴェン殿下の十年間を終わらせた。
殿下の顔を見た。碧い瞳から光が消えていた。断罪の日の大広間で私に向けていた、あの自信に満ちた目はもうない。
「私が──お支えいたします」
リリアーネが立ち上がった。声が震えている。殿下の袖を掴む手も震えている。
「殿下のお傍で、私が国政を──」
「では具体的に、どのような施策をお考えですか」
宰相閣下の声。鷹の目が、聖女を正面から捉えた。
「関税改定後の税収シミュレーションは。地方行政への通達文案は。予算の再配分案は」
沈黙。
リリアーネの唇が震えた。開いて、閉じた。開いて──何も出てこなかった。
治癒魔法は本物だ。社交の才能も本物だ。でも、国政を支える施策は一つも出てこない。涙と使命感だけでは、予算は組めないのだ。
列席者の目が冷ややかだった。
(──涙で国は回らない。数字で回る。それだけのことなのに)
私は何も言わなかった。手元の書類を揃えて、閉会の挨拶を待った。いつも通り。
◇
会議場を出た回廊で、足音が追いかけてきた。
石の床を踏む、聞き覚えのある靴音。振り返る前に、声が聞こえた。
「……アネリーゼ」
殿下。
名前で呼ばれるのは、何ヶ月ぶりだろう。断罪の日以来──いえ、あの日は「お前」だった。名前を呼ばれたのは、それよりもっと前のことだ。
振り返った。
王太子クラウス殿下が、回廊の真ん中に立っていた。正装の肩が僅かに落ちている。隣にリリアーネの姿はない。一人だった。
「戻ってこい」
短い。命令形。でもそこに、かつてのカリスマの響きはなかった。
「お前がいなければ、この国は──」
(──知っています、殿下。知っていました。十年間、ずっと)
でも、もう。
「殿下」
私は穏やかに微笑んだ。自分でも驚くくらい、穏やかに。怒りでも皮肉でもなく、ただ──終わったのだという、静かな確信を込めて。
「引き継ぎ書類は百二十巻ございます。まずは、そちらをお読みくださいませ」
断罪の日と同じ言葉。でも温度が違う。あの日は冷静を装っていた。今日は本当に、平らだった。未練もない。怒りもない。ただ事実を告げただけ。
殿下の顔が歪んだ。
私は背を向けた。振り返らなかった。
回廊の奥で、ヴェステンの乾いた冬の風が石壁を撫でていた。冷たくて、清潔で、新しい場所の空気。
──もう、振り返る理由がない。
◇
ヴェステン公国。宰相府。
会議から数日が経った執務室は、穏やかな午後の光に満ちていた。通商条約の後処理が山積みで、ある意味いつも通りだ。書類がある。仕事がある。群青色のインクの匂いがする。
「ヴェルナー嬢。一つ、見ていただきたいものがあります」
エルヴィンが一冊の書類を差し出した。
受け取る。表紙に「慣習法改正提案書」と書いてある。──あの夜、マルグリットが「宰相閣下に何か申し出たらしい」と言っていたのは、これだったのか。
ページを繰った。
読み始めて、三行目で手が止まった。
書式。この書式は──私が通商条約の改定案で使ったフォーマットだ。条項の番号の振り方、根拠法令の引用形式、代替案の並べ方。全て、私の書き方。
(……この人、私の書式を真似した? いえ、真似ではない。学んで、自分のものにした)
内容を読む。王族が行政職に就くことを制限する慣習法の改正案。成文法ではなく慣習法だから、改正の手続きは議会の過半数と公王の承認で足りる。法的な論理は隙がない。エルヴィンの得意分野だ。
最終項まで読み進めて──赤ペンを取る手が止まった。
「本提案の目的:王族と行政官が同じ執務室で、同じ書類を、同じ机で、末永く扱えるようにするため」
末永く。
公文書に「末永く」。
(──これは……公文書の文言としては不適切ではなくて?)
赤ペンを握った。赤入れは仕事だ。仕事なら得意だ。
「……これは、公文書の文言としては不適切ですわ」
声は震えなかった。震えなかった、はずだ。
「では、どう直しますか」
エルヴィンの声。低くて、平らで──でも、通商会議の回廊で「全部好きです」と言った時の響きが、薄く残っている。
「『末永く』を『永続的に』と──」
「意味は同じです」
赤ペンが止まった。
同じだ。「末永く」も「永続的に」も。どちらも──ずっと、ということだ。
「……ええ、同じですわね」
赤ペンを、置いた。
仕事の手を止めた。生まれて初めて──前世を含めても初めて、自分から仕事の手を止めた。赤入れの途中で。修正すべき箇所を見つけたまま。直さずに。
だって、直す必要がないのだ。「末永く」でも「永続的に」でも、意味は同じなのだから。
エルヴィンが、一歩近づいた。
「隣にいてください。ずっと」
回廊の告白とは違った。あの時は三年分の想いを決裁印に乗せた不器用な言葉だった。今は──たった一文。短くて、簡潔で、彼らしい。条項のように明確な、一つの宣言。
「……ずっと、は長いですわ」
声が掠れた。涙ではない。涙ではないのに、視界が滲んでいる。
「長くていいのです」
笑ってしまった。初めて──仕事と関係のない笑みが、勝手に浮かんだ。口元を手で隠したけれど、遅かった。エルヴィンの灰青の瞳が、その笑みを見ていた。
◇
翌朝。
執務室に着くと、机の上に書類が一冊置いてあった。
薄い。百二十巻の引き継ぎ書類に比べたら、冗談みたいに薄い。数頁しかない。
表紙を読んだ。
「今後の共同執務計画書 全一巻」
百二十一巻目。
ページを開く。エルヴィンの字だ。あの几帳面な──私宛の時だけ丁寧になるという、あの字。今後の業務分担、決裁権限の配分、共同作業の進め方。実務的な内容が簡潔にまとめられている。
最終頁。右下に、決裁印を押す欄が二つあった。
一つには、エルヴィンの印が既に押してある。ヴェステン王族の紋章入りの印ではなく、「ランツ」の印だった。行政官としての印。
もう一つは、空白。
私の印を押す欄だ。
鞄から決裁印を取り出した。群青色のインクに浸す。リンデン工房の、乾きが速くて細字に適した、あのインク。
押した。
ぴたり、と並んだ。二つの印。エルヴィンの印と、私の印。紙の上で、隣り合って。
「……百二十一巻目は、随分と薄いですわね」
誰もいない執務室で、少しだけ笑った。
窓の外では、ヴェステンの乾いた風が白い石壁を撫でている。冬の光が二つの机を照らしていた。書類の山。ペン立て。群青色のインク瓶。──そして、隣の机に、もう一つのインク瓶。
百二十巻は、過去だ。
百二十一巻目は、たった数頁。でもそこから先の頁数は、まだ決まっていない。
二人で、書き足していくのだろう。
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