第1話 断罪の日に、辞表を出す
「──アネリーゼ・フォン・ヴェルナー。お前との婚約を、破棄する」
知っていた。
この台詞を、この声を、この場所で聞くことを──私は十年前から知っていた。
王宮大広間。磨き上げられた大理石の床に、午後の陽光が四角く落ちている。居並ぶ貴族たちの衣擦れの音。誰かが息を呑む気配。そしてまっすぐ前方、赤い絨毯の上に立つ金髪の青年──王太子クラウス・フォン・ルーヴェン殿下が、よく通る声で断罪の宣告を続けていた。
「お前はその地位を利用し、国政を壟断した。聖女リリアーネへの数々の嫌がらせも、もはや看過できぬ」
殿下の隣で、栗色の髪の少女がそっと目を伏せている。聖女リリアーネ・バウアー。白いドレスの肩が微かに震えていて、まるで風に怯える小鳥のようだった。
……お上手なこと。
あの震え方は、貴族夫人たちの母性を刺激するのにちょうどいい角度だ。計算なのか天性なのかは知らないけれど、効果は抜群らしい。実際、広間の数人が同情に満ちた目でリリアーネを見つめている。
「よって──」
殿下が一歩前に出た。カリスマ性だけは本物の人だ。声の張り方、視線の配り方、間の取り方。十年間、隣で見てきたからよく知っている。
民の前で演説をすれば拍手喝采。外交の席では誰もが好印象を抱く。
ただし。
その演説の原稿を書いたのは誰で、外交の下準備を徹夜で整えたのは誰だったか──殿下はご存じないのだろう。いえ、知っていて目を背けていたのかもしれない。
どちらでも、もう関係のないことだけれど。
「──アネリーゼ。お前を、王太子妃候補の座から退ける。異論は」
「ございません」
広間がしん、と静まった。
私の返答が早すぎたのだ。殿下の台詞を遮る形になってしまった。まあ、仕方がない。この先の台詞は全部知っている。一字一句、乙女ゲーム『聖女の光』のシナリオ通り。十年も待たされた身としては、少しくらい巻かせていただいても罰は当たらないだろう。
(──ここまでは、予定通り)
前世は日本の地方公務員だった。過労で倒れて目が覚めたらこの世界の公爵令嬢で、しかも乙女ゲームの悪役令嬢。断罪イベントの日付も、殿下の台詞も、聖女の涙も、全部覚えていた。
ゲームの結末では、悪役令嬢アネリーゼは処刑される。
だから本来なら、もっと早くに逃げるべきだったのだ。
──逃げなかった理由?
実務が好きだったから。
それだけだ。予算編成、法令起草、外交文書、人事配置、物流管理。公爵令嬢の教育と前世の行政職の経験を合わせれば、この国の実務はひどく面白かった。殿下が署名だけして放り出す案件を拾い上げ、制度を整え、数字を合わせ、回答期限に間に合わせる。その繰り返しの十年間。
好きでやっていたのだから、未練はない。
未練は、ない。
「お望み通り、身を引きますわ」
私は一歩前に出て、懐から封書を取り出した。蝋で封じた、薄い一通。
「──つきましては、こちらが辞表でございます」
殿下の眉が動いた。リリアーネが顔を上げた。居並ぶ貴族たちの間に、さざ波のようなざわめきが広がる。
辞表。
婚約破棄の場で、辞表。
殿下は少しの間、私の手の中の封書を見つめていた。意味を理解するのに数秒かかったようだった。無理もない。十年間、決裁書類にろくに目を通さなかった方だ。「辞表」という文書の重みを、実感として知らないのだろう。
「……なんだ、それは」
「そのままの意味でございます。わたくしが王宮で担当しておりました全業務からの辞任届。なお──」
ここで一拍、間を置いた。
前世の記憶で学んだことがある。報告は数字で伝えろ。数字は嘘をつかない。
「──引き継ぎ書類は百二十巻ございます」
広間が凍った。
百二十巻。
ざわめきの質が変わった。それまでの「悪役令嬢の断罪」を見物する空気が、一瞬で別のものに塗り替わる。
「……百二十巻?」
誰かが呟いた。広間の端で、年配の文官が青い顔をしている。彼は知っているはずだ。百二十巻がどれほどの業務量を意味するか。
「わたくしが担当しておりました業務の一覧、進行中の案件、各部署との連絡事項、予算の執行状況、すべてまとめてございます」
私は辞表を近くの文官に手渡し、殿下に向き直った。
「……お読みになります?」
沈黙。
殿下の唇が微かに開いたが、言葉は出なかった。リリアーネが不安そうに殿下の袖を掴んでいる。その仕草もまた、絵になるほど可憐だった。
(──ああ、やっぱり。この二人、見た目だけなら完璧なんだけど)
いけない。皮肉は心の中だけにしておこう。悪役令嬢らしく、最後まで品位は保たなければ。
「十年間、お世話になりました。殿下のご多幸をお祈り申し上げます」
深く、丁寧に一礼した。
顔を上げた時、殿下と目が合った。見慣れた碧い瞳。その奥にあるものが怒りなのか困惑なのか、あるいは別の何かなのか──正直、もう読み取る気力がなかった。
背を向ける。
大広間の扉は重い。いつもは侍従が開けてくれるのだけれど、今日は誰も動かなかった。私は自分の両手で扉を押し開け、広間を出た。
◇
廊下に出ると、音が消えた。
背後の大広間では、まだざわめきが続いているはずだ。でも分厚い扉が全部吸い込んでしまって、私の耳には自分の足音しか届かない。こつ、こつ、こつ。磨き上げられた石の床に、十年間履き慣れた靴の音。
……十年。
十四歳で王太子の婚約者になり、前世の記憶を思い出し、断罪の日が来ることを知った。知っていて、それでも実務が楽しくて、毎日書類を捌いて、法令を起草して、予算を組んで。
楽しかったのだ、本当に。
ゲームにはない仕事。ゲームにはない達成感。ゲームのシナリオでは「悪役令嬢が国政を壟断していた」と一行で片づけられる十年間は、私にとっては一日一日が充実した日々だった。
だから──未練は、ない。
(……ないったら、ないのよ)
目元が少し熱いのは、廊下の魔導灯が眩しいせいだ。そういうことにしておく。
◇
王宮の正門を出ると、公爵家の馬車が待っていた。
父──ヴェルナー公爵が手配してくれたものだ。断罪の日取りを伝えた時、父は一言「分かった」とだけ言って、翌日には旅費と護衛と、隣国への紹介状を揃えていた。さすが公爵家当主。仕事が速い。
馬車に乗り込み、深く腰を下ろす。革張りの座席が軋んだ。
窓の外を、ルーヴェン王都の街並みが流れ始める。見慣れた石造りの家々。市場の喧騒。午後の光。
もう見ることはないかもしれない景色を、ぼんやりと眺めながら──私は旅装の内ポケットから、一通の手紙を取り出した。
何度も読み返したせいで、四隅が擦り切れている。
宛名は「ヴェステン公国宰相府 E・ランツ殿」。三年間の文通相手。書類のやり取りから始まって、いつの間にか業務改善の提案書を送り合うようになった、顔も知らない人。
几帳面で、論理的で、法令の解釈が恐ろしく正確で。たまに書類の余白に「貴国側の関税率が0.3%高い根拠をご教示ください」などと書いてくるものだから、つい本気で回答してしまう──そういう相手。
その人を、頼る。
手紙を胸元にしまい直して、窓の外に目を戻した。
王都の門が、遠ざかっていく。
「さて」
誰に言うでもなく、呟いた。
「──お顔も知らない方を頼るのは、初めてですわね」
馬車が揺れる。ルーヴェン王国の空は、まだ高く青かった。




