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ぼくの桜桃を受け取って   作者: 七乃はふと
20/80

探偵と作家の夏.1

 視界が水飴のようにグニャグニャして起きれない。

 全身からねっとりした汗が吹き出し、家の中なのに土砂降りの真っ只中にいるみたいだ。

 汗をかいているのに、空気と一体化した熱に包まれた身体はとても怠い。

 テーブルに置いていたスマホに手を伸ばすも、うまくつかめずに落ちてしまった。

 手を伸ばすだけなのに、こんなに辛いなんて。

 何とか手に持ち、お母さんにメールをする。

「助けて」

 お母さんから返信がきたけれど、文面を読む力は残されていなかった。

 瞼が重くなり、目の前が真っ暗になる中、玄関の鍵が開き、騒がしい足音が聞こえてきて……。


 目が覚める。どうやら小説を読んでいる途中で寝てしまったらしい。

 しおりは挟まれていなかったが、幸いなことに読んでいたページに指が挟まっていた。

 自分で自分を褒めると、お腹が空腹を訴えてきた。

 いや違う。栄養補給を求めているのだ。

 思い出してみれば、最後に食べたのは三日前だっけ。

 這うようにキッチンに向かい、買い置きしてあるカップ麺を食べようとするが、いつもカップ麺が入っているダンボール箱は空だった。

 しまった。注文しておいて取りに行くの忘れてた。

 一ヶ月分のカップ麺は宅配ボックスに届いているはず。

 ……外に出たくない。出たくないが、身体が栄養を求めてくるので、不自由な足を無理矢理動かす。

 一歩動くだけで胃袋が悲鳴をあげる。

 うるさい。動かないと欲しがっている栄養は手に入らないんだぞ。

 叱責すると、空腹感が少し治まった気がした。

 スウェットの上からパーカーを羽織り、フードを目深に被り、マスクで顔を隠して準備完了。

 足を引きずりながら玄関まで歩き、扉を開けると何かにつっかえる。もう一度押すがやはり開かない。

 少し開くが外に何か置いてあるのかそれ以上開かないのだ。

 ドアスコープから覗くと、大量のダンボールがトーテムポールのように扉の前に積まれているのが見えた。

 今まで無人だった隣の1034号室に誰か引っ越してきたらしい。

 ダンボールの量から一人ではなく、二人か三人。夫婦か子供連れの家族だろうか。

 推測していると、胃袋が栄養を求めて抗議してきた。

 体当たりするように押し開けようとするが、空腹のぼくにそんな力はなかった。

 微かな話し声がしてドアスコープを覗き込むと、引越し業者の人間や居住者と思われる男性の姿が見えた。

 何度も体当たりすることで、異変に気付いてくれるかもしれない。

 人と関わりたくなんてなかったが、今は死活問題だ。

 けれども廊下にいる人間は誰も気づかず、遂に力尽きて、その場に倒れ込む。

 扉を塞がれて栄養失調で死ぬ。腐敗臭がするまで気付かれないんだろうか。

 そんな事を考えていると、ドアの外で複数の動く気配がし、扉が一人でに開いた。

「だんない? しっかりしいや」

 入って来たのは、割烹着をきた女性のようだ。言葉から京都生まれだろうか。

「返事しぃ」

 女の人はぼくの頭を支えて何度も呼んでくれる。

 不思議なことに身体に少しだけ活力が戻ってきた。

「だ、大丈夫です」

 そう言って初めて女の人の顔を見ると驚いた。ぼくを見て涙を浮かべている。

「良かった〜!」

 抱きしめられ、暖かさと柔らかさと甘い匂いに包み込まれる。

 女の人は様子を見にきた業者の人間達と何か話していたけれど、ぼくは彼女に包み込まれる幸せで全く耳に入らない。

「救急車呼ぼうか?」

「いえ。大丈夫です。ちょっと立ちくらみがしただけですから」

 立ち上がろうとするも、よろけて女の人の胸に受け止められる格好になった。

 密着したところで、お腹が盛大な音を立てた。

 女の人が笑う。聞かれた恥ずかしさで顔が熱くなった。

「かんにんな笑ったりして。お腹すいてるんやね。せや、うちが何か作ってあげるわ」

 そう言ってぼくに肩を貸してくれる。

 外見から判断できないが、意外と力があるようだ。

 ぼくが軽いだけかもしれないが。

「あら。小説好きなの」

 女の人はリビングにある本棚を見て感嘆の声を上げた。

 もしかしてミステリ好きなのかな。

 共通の話題がある事を知り、少しだけ嬉しくなる。

 すると、まだ生きていたいと訴えるようにお腹が鳴った。

「これ読んでくれているんやなぁ」

 本棚から取り出したのは花蘇芳包美氏の小説だった。

 正体不明の殺人鬼を追う双子探偵の追跡劇〈鉈男〉。

 沈没する豪華客船で発生する連続殺人事件〈沈みゆく船と車椅子探偵〉。

 自分と似た容姿の人間が次々と謎の死を遂げていくホラーサスペンス〈DMから始まる絶望〉。

 花蘇芳氏の著作を次々取り出しては、まるで自分の子供を見るように愛おしげな視線を送る。

 最初は彼女も読んでいるのかと思ったが、違和感に気づく。

 読んでいるのではなく読んでくれているの。

「もしかして花蘇芳包美さん、ですか」

「そうや。うちが花蘇芳包美や」

 包美さんは、はにかみながら自分の著書の名前を指差した。

 大好きな作家さんに会えた事に感激した途端、またお腹が鳴った。

「あ、ごめんなぁ。今何か作るわ」

 包美さんがぼくの家の冷蔵庫を開けると、しばらく固まっていた。

 理由は言わなくてもわかる。食料と呼べるものが皆無だからだ。

 入っているのは少量の飲み物だけ、野菜室や冷凍室を開けるが、閉める時には、何もない事を知って愕然とした表情をしていた。

「ちょっと待っててな」

 包美さんは出て行ってしまうと、賑やかだった家が急に静かになり、倦怠感に包まれた。

 座っていた身体を横たえ、上手く動かない右足をさする。

 頭の中は包美さんの事でいっぱいだった。

 もっと話がしたいな。あの柔らかい身体に抱きしめられたい。甘い匂いを胸いっぱい嗅ぎたい。

 しばらくすると扉が開いた。やって来たのはお椀を持った包美さんだ。

「おまっとぉさん。消化の良いもの作ってきたわ」

 テーブルに置かれたのは、ネギと油揚というシンプルな素うどんだ。

 けれど、おだしの匂いを嗅いだ途端、口の中に唾がたまる。

「もらっていいんですか」

「ええ。せっかく作ったのやから、食べてくれないと悲しくなるわぁ。」

 包美さんは袖で涙を拭う仕草をする。

「いただきます」

「おあがりやす」

 割り箸を左手に取り、うどんを一口すすった。

「美味しい」

 ツルツルの麺はするりと飲み込めて、噛まなくても飲み込めてしまうほどだ。

 つゆも飲んでみると、あっさりしただしのうまさが口いっぱいに広がる。すごく優しい味だった。

 つゆに波紋が起こる。それはぼくの涙だった。

 久しぶりに親切にされて、すごく気持ちが楽になっていることに気づく。

「もしかして熱かったかしら?」

 包美さんは、ぼくが泣いているのを自分のせいだと思ったらしい。

 涙を拭きながら首を振る。

「違います。すごく美味しくて。感動して泣いてしまったんです」

「まあ感動なんて。作ってくれた料理をそんなに褒めてくれて嬉しいわ。おぉきに」

 こちらこそありがとうと言いたかったが、恥ずかしくて口に出せなかった。

 代わりに作ってくれた素うどんを完食する事で感謝の意を表す。

「ごちそうさまでした」

「はい。お粗末さま」

 包美さんは空になったお椀を持って立ち上がる。

 このまま二度と会えなくなるかもしれない。ぼくの口が咄嗟に言葉を紡ぐ。

「あ、あの……」

 短い糸だったが、それは確かに届いた。

「へえ?」

 振り向いた包美さんは次のぼくの言葉を待つ。

 見つめられて心臓が痛いほど跳ねる。何でもありませんと言えば、すぐ楽になる。

 でも、そこで包美さんとの繋がりは絶たれてしまう。

「ぼく、ぼくの名前は桜桃(おうとう)屍効(しき)です」

「桜桃屍効、屍効。可愛い名前やねぇ。うち好きやわぁ」

 包美さんは顎に指を添えて考え事をするようにうーんとうなる。

「そや。シーくんって呼んでもいい?」

「は、はい。ぼくは何て呼べばいいですか」

「うん? 好きに呼んでくれて構わへんで」

「じゃあお母さん! 何て駄目ですよね」

 咄嗟に出たが受け入れてくれるわけない。

「お母さん……ええで」

「いいんですか?」

「シーくんにお母さんって呼ばれると何故かすごく幸せな気持ちになるんやぁ」

 お母さんは喜んでくれた。

「うち、そろそろ戻るね。旦那さん待たせてるから」

 また会いたい。その一心で、ぶつかるように勢いよく行動を起こす。

 ぼくはスマホの連絡先をお母さんに見せた。

「連絡先交換してください」

「ええで」

 お母さんは嫌な顔一つせずに、その場で連絡先を交換してくれた。

「これも持っていてください!」

 お母さんに差し出したのは、家の合鍵だ。

 流石に怪訝な顔をされる。

「ぼくはお母さんを信頼しています」

「分かった。信頼してくれて嬉しいわ。これは大切に預からせてもらうわね」

 お母さんは慎重な手つきで合鍵を受け取ると、割烹着のポケットにしまう。

「じゃあ今日はこれで。またねシーくん」

 ドアが閉まるまで、お母さんはぼくに手を振り続けていた。

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