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ぼくの桜桃を受け取って   作者: 七乃はふと
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探偵と作家の夏.2

 優しいそよ風がぼくの頬を撫でた。

 同時に漂うのは、甘い匂いと、それに混じる臭い。

 うっすらと瞼を開けるとぼくを見下ろすお母さんと目が合った。

「よかったぁ。もう少ししたら救急車呼ぶとこやったわ。シーくん?」

「お母さん……」

「やっぱり具合悪い? 救急車呼ぼうか」

「大分気分は良くなってきたから大丈夫。一体何があったの」

 深い霧に包まれたように思い出せない。

「うちに助けを求めるメールが来て飛んで来たんや。蒸し風呂状態の部屋の中で倒れてたんやよ。」

 思い出した。リビングで寝ていた時、物凄い暑さで目が覚めた。

 いつも快適な温度を保つエアコンが動いていない。

 リモコンを操作するも電源が入らずどうにもならなかった。

 部屋の気温は瞬く間に三十度を超え、ぼくの体温に迫る勢いで、お母さんに助けを求めて、そこで意識が途切れたんだ。

「もうぬるくなってしもうたね」

 お母さんがぼくのおでこに手を添える。そこで初めて冷却シートが貼られている事に気づいた。

「新しいの持ってくるわ」

 ぼくの頭を太ももからクッションに載せると、冷蔵庫から新しいのを持ってきてくれた。

 冷却シートが熱を吸い取っていく感覚が気持ちいい。

「これ、ゆっくりでええから飲んで」

 冷蔵庫から出された麦茶を飲むと、大分身体の怠さがなくなってきた。

「お母さんありがとう。それとごめんなさい」

「何で謝るの」

「だって迷惑かけちゃったから」

「こら、そんなこと言わんでええの」

 嗜めながらも、ぼくを抱きしめてくれる。

「シーくんに何かあったら悲しいんやから。だから助けが欲しいときは遠慮しないでええんよ」

 返事する代わりにお母さんに体重を預ける。

「ゆっくり休みぃ。うちがついててあげるから」

 その好意に大いに甘えることにした。


「……はい。あっ大丈夫ですか。それはよかった。じゃあその時間でお願いします。はい失礼します」

 ドア一枚隔て電話するお母さんの声が聞こえる。

「シーくん。業者の人と連絡取れたで。午後には来れるって」

 これでエアコン修理の目処が立った。

「けどどうする? 業者の人来るの数時間はかかるそうなんや」

 この炎天下でヘソを曲げたエアコンが多いらしく、あと何時間もこの蒸し風呂にいるのは苦痛でしかない。

 窓を開け、持ってきてくれたサーキュレーターだけでは、焼け石に水の状態だ。

「どこか涼しいところにでも行こか。お化け屋敷、水族館、プール……そうや!」

 お母さんは何かを閃いたのか、手を叩いた。

「海水浴とかどう? 近くの大文字海水浴場なら無料やし――」

「ぼく人混み嫌い」

 せっかくの提案だが、それだったらまだ、この蒸し風呂でお母さんと二人きりの方が良かった。

「あの、お母さんの部屋に行くのは駄目?」

 知り合ってまだ一度も、家に行ったことはない。

 お母さんは困り顔で答える。

「うちはええんやけど、今日旦那さん家におるのよ」

「じゃあ、迷惑になっちゃうね」

 二人きりがいいのに、余計な人間がいたら落ち着けるものも落ち着けない。

「シーくん。水風呂は好き?」

 お母さんの質問にぼくは真意をつかめないまま頷いた。


「用意できたでぇ」

 浴室を見ると、浴槽に溢れんばかりの水が張られている。

 指をつけてみると冷たい。

「あんまり身体を冷やしすぎるのはいけないけど、今日は特別。さあスウェット抜いて。洗っておくから」

 お母さんがぼくの方に手を伸ばした。

「いいよ。自分で脱ぐから」

「あっ、気づかなくてごめんなぁ。つい旦那さんと同じようにしてしまったわ」

 あいつにも同じことしてるんだ。

 お母さんは脱いだ服を入れる籠を置いて脱衣所を離れる。

 ぼくは誰にも見られていないことを確認してから、何日も着たままだったスウェットと下着を脱ぎ、タオルを持って浴室に入る。

 水風呂のおかげか浴室はひんやりとしていて、汗だらけの身体にちょうどいい。

 シャワーでベタつく身体を軽く洗い流してから浴槽に足をつける。

 最初は冷たくて、足を入れるだけで時間が掛かったけど、時間をかけて全身を浸からせることができた。

 身体が冷たい水に浸かることで、熱が発散されてとても気持ちいい。

 サウナの後の水風呂は気持ちいいって聞いたことあるけれど、こんな感じなのかな。

 両手で水を掬って顔も冷やす。

 不快な暑さも何処かへ行き、思考がまともになっていく。

 大文字海水浴場。そういえば一年前の解決した事件の現場が……。

 突然浴室の外から声をかけられて思考が中断された。

「シーくん。水加減はどう。気持ちええ?」

「うん。とっても気持ちいいよ」

「よかった。ちょっと失礼するわね」

 返事を待たずにお母さんが入ってきたので、反射的に頭のタオルで下半身を隠した。

「な、なになに」

 いきなりの入室に、この時ばかりは声に驚きが混じってしまう。

「まだ本調子じゃないやろ。だから洗ってあげようかなって」

「えっと、じゃあ、お願いします」

 嬉しさと恥ずかしさの協議は、最終的に嬉しさの圧勝だった。

「はい。用意してくるわね」

 お母さんは扉を閉めて脱衣所で何かしているようだ。

 もしかして水着とかかな。って何考えてるんだ!

 でも可能性はゼロじゃないよね?

 そんな邪な想像と共に浴室に浸かっていると扉が開いた。

 入ってきたお母さんはいつもの頭巾をした割烹着姿。

 変わってるところといえば、濡れないように袖をまくっているのと裸足になっているだけだ。

「失礼するわね……なんえシーくん」

「ううん」

 お母さんの善意を踏みにじるような妄想をしてしまってごめんなさい。

 浴槽から出たぼくは促されるまま椅子に座ると、お母さんはぼくの後ろにしゃがみ込んだ。

「服濡れちゃうよ」

「かまへん。そもそも割烹着は汚れから服を守るためのものなんやから」

 両手でジャンプーを泡立てると、ぼくの白髪を洗い始める。

 力加減は痛くなく、それでいながらしっかりと洗ってもらっている感じだ。

 十本の指に頭皮を撫でられると、脳を直接撫でられるような刺激が駆け巡って、背筋がゾワゾワと波打つ。

「はい。流しますよ〜」

 泡立てられたシャンプーが流れ落ちていく。

 幸せな時間が終わりかと思うとちょっと残念だった。

「じゃあ次は身体洗いましょうねぇ」

 有無を言わさずぼくの背中を洗い始める。

 泡立てたボディシャンプーを纏う指のしなやかさと掌の柔らかさに言葉が出ない。

「次は前やな」

 その言葉で夢見心地から覚めた。

「ま、前はいいよ! ここまでやってもらえたら後は一人でできるから」

 嬉しいけれど、屹立した部分を見られて、失望されたくない。

「そんな、遠慮せんでもええの」

 お母さんの手が伸び、ぼくの身体が椅子ごと反転する。

 そそりってしまった半身をとっさに腿の間に挟み込む。

「お人形さんみたいに色白で可愛いなぁ。あら?」

 お母さんの手が止まり、僕の太ももに視線を注ぐ。

「ある事件に巻き込まれた時の傷だよ。もう六年くらい経つけれど、いまだに足はうまく動かないんだ」

見ているだけで過去の記憶が甦り、眉間に皺がよるのが分かった。

その皺をほぐしてくれたのは、お母さんの一言だった。

「うちは好きやで。まるで桃の花みたいやん」

 四方に広がり醜く盛り上がった桃色の傷跡を人差し指でゆっくりと撫でられた。

 傷跡を好きと言われただけなのに、まるで自分を全肯定されたような気持ちになってしまう。

 呆けていると、お母さんの手が腰を隠すタオルに伸びてくる。

 この人になら全て見られてもいいかな。

 あと少しで届くというところで、浴室の外から電子音が聞こえてきた。

「いけない忘れてたわ。ちょっと洗濯機のところ行ってくるわね」

 お母さんは慌ただしく出ていく。

 ぼくは安堵し、力の抜けた身体をなんとか支える。

 もちろん屹立していた部分もすっかり緊張がとけて、ホワイトアスパラガスのようになってしまった。

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