第四話 ワーク
「いらっしゃいませ」
夕陽がゆっくりとビルの間に沈み始めた、もうすぐ仕事が終わる午後五時頃、ベルの音がしたので、僕がそちらを見ると、若い女性が立っていた。ココア色のロングコートを羽織っている。
彼女は少しの間適当な場所を少しの間探していたが、やがて窓際にある二人用の席に腰を下ろした。僕は水入ったグラスをトレーにのせ、彼女の元に運んだ。
コートを脱いで長く細い足を組んでメニューを眺めるその姿は、モデルのようだと思った。ワインカラーの柔らかそうなハイネックのトレーナー、黒い膝上までのスカートに、黒いブーツを履いている。腰まである赤い髪が、夕陽に輝いている。
僕はふと、彼女が幸時さんに似ているような気がした。が、他人の空似ということもある。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
僕が声をかけると、彼女は「ええ」と透明な声で言った。
(ん?この声は聞いたことがあるような・・・)
「コーヒーを」
不意に顔を上げた彼女の目が、一瞬にして見開かれた。僕はその表情の理由が分からなかった。
「あら、堂月さん・・・」
名前を呼ばれて、今度は僕が驚いた。
「どうして、僕の名前を?」
僕がそう言うと、彼女は目をすっと細めて微笑んだ。
「私ですよ。幸時凛です」
僕の頭の中のスイッチが切れたが、すぐに点いた。
「こ、幸時さん?!」
僕の素っ頓狂な声に、彼女はクスクスと楽しそうに笑った。
(やっぱり、幸時さんだったんだ・・・)
服が見慣れていないからか、それとも髪を下ろしていたからか、容姿もまるで違った。化粧をしているかそうでないか分からないけれど、それでも彼女はキレイだった。幸時家での彼女とは、また違う華やかさがある。
「もうすぐお仕事は終りますか?」
彼女が、放心している僕に問いかけた。僕は急いで我に返る。
「あ、はい」
そう答えると、彼女は最初から決めていたように、静かに言った。
「では、ご一緒願えますね。」
僕より3センチメートルほど背が低い幸時さんは、とても優雅に歩いた。
駅のホームに着いた。この時間だと、電車が来るまでそんなに待たなくてもいいだろう。僕と幸時さん以外に、人はいなかった。
「堂月さんは、大学の近くでバイトをなさってたんですね」
突然彼女が話しかけてきた。
「あ、はい。あそこは落ち着いていて、僕の好きな場所なんです。初めてここの大学に来た時にあの店に寄ったんですが、気に入ってしまって」
僕はその日のことを思い出した。店の前の、レンガで舗装された道を挟んだ向こう側の桜並木に淡いピンク色の花たちが咲き誇っていた。穏やかな風が花びらを優しく包み込んで、運んでいった。その景色を見ながら、僕はあの店、『ワーク』でカフェオレを飲んだ。
「そうでしたか。私も幸時家に嫁いできた時、初めてこのお店を見つけて、とても幸せな気持ちになりました。それから、この町に用事がある時は、必ずあの店に行っています。もしかしたら、どこかでお会いしていたかもしれませんね」
そう言った凛さんの微笑みは、初めて見た時のものとは全く違った。店でも同じ表情をしたのを思い出した。
自然な表情は、とても柔らかだった。
「そろそろ亜志貴と仲良くなれましたか?」
彼女は、電車の中で流れていく景色を視界に入れながら、また質問をした。僕は、はいと答えた。すると、彼女は安心した様な顔を僕に向けた。
「堂月さん、もうお分かりだと思いますが、私は日本人ではありません」
そして突然、彼女は僕の目を見据えてそんなことを言った。
もちろん、分かっていた。初めて彼女を見た時から。彼女の顔は、明らかに欧州系の顔だ。肌の色も、瞳の色も全てが純粋に違う。
と、いうことは必然的に…
「あの子は、顔が少しみなさんと違います。私は、あの子が人に対していつも身構えていることが、不安なのです」
凛さんの目が、今度は窓の外を見つめた。僕は、何も言わずに同じ方向を見た。
いつもより電車が遅く走ってくれているような気がした。
「でも、彼女に直接聞くことができません。彼女は、感受性が強い子ですし、あまり人と交流を持つことを好みません。でも、堂月さん、聞いたところによると、あなたと話している時のあの子は、とても明るいそうですね。私は、それがとても嬉しかったのです。だから・・・」
もう一度こちらを向いた幸時さんの瞳が、しっかりと僕を捕らえた。
「彼女を、支えてあげてください」
(あぁ、この人も母親なんだな・・・)
とても母親には見えない彼女を、僕は改めて認識した。
「もちろんです。」
僕が言うと、幸時さんの笑顔が、まるで精密でとても丁寧に描かれた一枚の絵画の様に、僕の心と目を奪った。
いつか、亜志貴さんもこんな風に笑ってくれる日がくるだろうかと、流れる景色の中で思った。
「ただいま戻りました」
僕と幸時さんが帰ると、ちょうど料理長さんが通りかかった。彼は染谷さんと同級生だと亜志貴さんから聞いていたので知っていた。とても恰幅の良い、優しくて明るい人だ。
「あれ、奥さん、堂月さんとご一緒ですか?」
彼は僕たちの前を行き過ぎたので、少しバックして僕たちに挨拶した。僕も頭を下げる。
「ええ、出先でお会いしたんですよ」
幸時さんが先に靴を脱いで、軽やかに玄関に上がった。
「ということは、お嬢さん以外は、みんな奥さんの私服姿を見たってことですな。」
彼は、白髪混じりの髪をクシャクシャとしながら言った。
お嬢さんって・・・
「亜志貴さんは、あなたの本当の姿を知らないんですか?!」
僕は思わず叫んでしまった。しかし、彼女は少し照れたように「ええ」と微笑んだ。
「亜志貴に、あまり見て欲しくなかったのです。私は、この家に受け入れられざる者でした。外国人が日本の文化を、この幸時家の伝統を受け入れられるのかと、亡くなった義父は私と主人の結婚に反対していました。しかし、義母と彼のお友達は、私に色々と教えてくださる優しい方でした。もちろん、義父も考え方を改めてくださり、私に親切にしてくださいました。そしてここに嫁いできてから、私はほとんどをあの格好で過ごしてきたんです」
彼女は玄関の壁に掛けられた二つの肖像画を、愛おしそうに見上げた。それから僕を見ると、ふっと微笑んだ。
「もうすぐ亜志貴が帰ってきますので、私はお先に失礼致します。堂月さん、今日はゆっくりお話しできて良かったです」
彼女はそう言って、流れるようにその場を立ち去った。
僕は、帰ってきた亜志貴さんに名前を呼ばれるまでその場に立ち尽くしていた。




