第156話 再びの誓い
「お疲れ様でした」
「ごちそうさまでした」
おそらく、今日はバイトをしていて一番精神的に疲れた日だろう。
愛梨がずっと上機嫌に微笑みを向けてくるので、しっかりしなければと意気込んでしまったからなのだが、落胆させる事なくバイトを終えたので一安心だ。
店長に挨拶をすると、彼が普段通りの穏やかな笑みを浮かべた。
「九条君、お疲れ様。二ノ宮さんはまたいつでも来てくれ」
「はい! 是非!」
「いや、俺抜きで話をされても……。はぁ、まあいいや」
仕事中にそこまで会話は出来なかったが、それでも愛梨は満足してくれた。
もしかすると、バイト先に知り合いが来る事にあまり神経質にならなくてもいいのかもしれない。
二人の話が終わるのを待ってから家に帰った。
「なんだか有耶無耶になってしまいましたが、湊さんへホワイトデーのお返しをしていませんね」
家に帰って夜も更け、愛梨の抱き心地を確かめていると、ぽつりと彼女が言葉を零した。
「いや、バイト先に来てくれるだけで良いって話にならなかったか?」
バレンタインデーのお礼をお互いにすると、湊はお金が無く、愛梨はとても返せないから喫茶店で注文してくれるのがお礼という事になっていたはすだ。
そもそも、この時間からいきなりお礼など出来ないだろう。
突然何を言い出すのかと呆れ気味の声を放ったが、彼女がやれやれという風に首を振る。
「私は湊さんの働いている姿という素晴らしいものを見れたんですよ? でしたら、何か返すべきだと思うんです」
「褒めてくれるのは嬉しいけど、俺が特に何かした訳じゃないからな。お返しなんていらないって」
いちゃつき過ぎて苦言を呈されたりしたのだが、それを言い出すと愛梨があの時のやりとりと思い出すかもしれない。
そもそも愛梨が喜んでくれただけでも満足であり、彼女の笑顔がホワイトデーのお返しでも十分に釣り合う。
気にするなと頭を撫でたものの、納得がいかないのか腕の中から唸り声が聞こえてくる。
「うーん。今から出来る事ですよねぇ……。そうだ。折角ですし、髪を弄りますか?」
「髪? なんでまた……」
愛梨の髪はもう何度も触っているので、今更改まって弄る必要などない。今も梳くように撫でているのだから。
なぜ今提案したのかと訝しむと、彼女が悪戯っぽく微笑んだ。
「髪型を好きにして良いんですよ?」
「髪型ねぇ、俺には複雑なものなんて出来ないし、愛梨にはロングストレートが一番似合うと思うんだよな」
湊には編み込みなど出来ない。出来るのはせいぜい縛るだけだ。
愛梨であればそれだけでも十分に魅力的だし、縛るだけでなくどんな髪型も似合うだろう。
だが愛梨に一番似合うのはストレートだと思うので、あまり気が進まない。
それは夏のプールの時や体育等で髪を縛っている姿を見た事があるからこそハッキリと言える。
正直に感想を伝えると、彼女の頬が朱に染まった。
「そ、そうですか。普段と違った雰囲気で楽しめるかと思ったんですが。あわよくば湊さんが襲ってくれれば大成功でしたね」
「いや、何を考えてんだか……」
堂々と襲われたいという発言をされて、湊の頬にも熱が移ってしまう。
今日もするだろうと思っていたが、間違いではないようだ。
微妙な雰囲気になってしまい、お互いに黙り込む。
密着しているくせに何を話せばいいか分からずにいると、愛梨が「そうだ!」と弾んだ声を上げた。
「とっておきのがあったじゃないですか!」
「どうせ碌なものじゃないんだろうなぁ……。言ってみろ」
「では行きますよー」
苦笑いをしつつ許可すると、愛梨は体勢を変えて横向きになった。
そしていつか見たように、手を握り込んで手首を曲げる。
もうにんまりとした笑みを浮かべた彼女が放つ言葉は予想出来た。
「にゃー」
これぞ猫撫で声と言わんばかりの甘い声とあざとい仕草。それが至近距離で行われているという事に、湊の思考がフリーズする。
とんでもなく可愛いな、という感想がちっぽけに思えるくらいに似合っているのだから、そうなるのも当然だろう。
「これ、好きでしたよね? どうですかにゃ?」
「……前に言ったよな? それをすると、どうなるかって」
目の前の白猫は脅すような事を言っても全く動じない。
それどころか、アイスブルーの瞳を細めて湊を誘う。
「知ってますにゃー。それで、貴方はどうなってしまうのですかにゃ?」
「ああもう、知らん。悪い猫にはお仕置きだ」
「にゃあ!?」
さんざん脅したにも関わらず、それでも誘惑してくるのだから、あっさりと我慢の限界を超えた。
一度軽い体を退かし、布団を敷いて押し倒す。
退かした時に悲鳴を上げられたが、愛梨は驚くくらいに無抵抗だ。
「ねえ湊さん。喫茶店でのセリフ、覚えてますか?」
流石に猫の真似はしないようで、愛梨が穏やかな笑みを浮かべつつも真剣な目で見つめてくる。
「……てっきり忘れるのかと思ったよ」
愛梨へのお詫びとして湊をあげる、と発言した事を彼女はしっかりと覚えていたようだ。
とはいえこの体勢から襲われる事はないだろうし、愛梨は店の時のように浮かれてもいない。
むしろ、今までにないくらい真面目だ。
「それで、どうした?」
「内容を少しだけ――いえ、かなり変更したいんです」
「ああ、いいぞ」
愛梨の事なので、更に重い願いにするつもりなのだろう。
断る理由もないので即答すると、彼女は嬉しいような、申し訳ないような苦笑を浮かべた。
「もう、まだ内容を言ってませんよ? それに、ホワイトデーのお返しでもなくなってます」
「それでもだ。愛梨のお願いは叶えたい。愛梨が喜んでくれるなら何でもするよ。さあ、何だ?」
呆れたような声に真っ直ぐに言い返すと、間近の綺麗すぎる顔が綻んだ。
「貴方の未来を、くれませんか? 代わりと言っては何ですが、私の全てを貴方に捧げます」
「あのなぁ……」
短い言葉に込められた意味はしっかりと理解出来た。
おそらくこんな日だという事と、タイミングが良かったので改めて伝えたかったのだろう。
だが、その内容が当たり前すぎて今度は湊が呆れてしまった。
「そんなの当然だ。俺の全部をお前にやる。だから、お前の全部を俺にくれ」
「……はい」
柔らかく滑らかな肌に触れ、甘い匂いを堪能する。
どうやら寝るのは遅くなりそうだ。
「ピピピ! ピピピ!」
爆音が鳴り響き、湊の頭を揺らす。
意地でも起こそうと普段よりも元気なアラームに、意識が急激に浮上した。
「うるさい……」
瞼が殆ど開かないが、手だけを伸ばしてスマホを止める。
あまりにも眠いので二度寝しようかと思ったところで、そんな事にならない為に爆音のアラームを掛けたのだと思い出した。
「眠い……。そりゃあそうか、睡眠時間なんてほんの二、三時間だもんなぁ」
昨日の夜――もはや今日の朝と言ってもいいが――に大盛り上がりした結果、電池が切れるように愛梨が寝て、お開きとなった。
当然湊も眠かったが、以前寝坊した時と同じにならないように、何とかアラームだけ設定してそこからの記憶が無い。
とはいえ試みは成功したので、遅刻にならなくて一安心だ。
「よし、シャワーを浴びよう。このままだと絶対に二度寝するし、体がどろどろだ」
独り言で自らを震い立たせ、浴室に向かう。
愛梨も同じ状況なので、この後彼女を風呂場に叩き込む事を考えると気が重い。そう簡単には起きないと断言出来る。
気合いを入れる為にしっかりと体を洗った。
「本当に、気持ち良さそうに寝てるなぁ」
予想通り、風呂から上がっても居間にはすうすうと軽い寝息だけが響いている。
愛梨の傍に行くと、実に気持ち良さそうに寝ていた。
無垢で子供っぽい寝顔だが、昨日の行為の所為で汗を掻いた頬に銀の髪が張り付いている。
とはいえそれすらも艶めかしさに変えるのだから、この芸術品のような寝顔を見られるというのはとても誇らしい。
「……さて、いい加減起こさないとな。愛梨、起きろ」
ずっと見つめていたいが、愛梨にもシャワー浴びてもらうのであまり時間が無い。
どうせ声を掛けただけでは起きないだろうと肩を掴んで揺さぶるものの、瞼はちっとも開かなかった。
どうやらこれは本気を出さなければいけないらしい。
「起きろ! おーきーろー!」
安眠を妨害してしまうという罪悪感を捨て、心を鬼にして愛梨の耳元で大き目の声を出した。
流石にここまでされては寝ては居られなかったようで、彼女が目を開ける。
「……ん」
「愛梨、おはよう」
「ぉゃ……ぃ」
「二度寝するなー!」
完全に二度寝を決め込むつもりなのでもう一度大声を出すと、再び目を開けた愛梨が不機嫌そうに眉を寄せた。
「なんですか……? あの、ほんとうに、ねむいんで。あと、もうすこし、ねかせて……」
「駄目だ。シャワーを浴びる時間が無くなるぞ?」
「えぇ……? べつに、あさから、あびなくても……」
あまりに眠すぎる所為か、愛梨は自分の体の状態を理解していないようだ。
折角なので、弄るついでに状況を説明すべきだろう。
「ほう? 髪とか肌にいろいろ着いてるが、そのまま服を着るんだな? 匂いとかでバレそうだがなぁ?」
「ついてる……? におい……? はぇ!? そうだ、シャワー浴びなきゃ!」
「はぁ……。ようやく理解してくれたか」
思いきり煽ると流石に思考が回り始めたようで、愛梨が素っ頓狂な声を出して跳ね起きた。
だが、気が動転していた所為か、何も用意せず身一つで浴室に入っていく。
「あいつ、俺に下着とか準備させるつもりなんだろうか……」
服はスウェットを貸せばいいし、タオルも問題はない。
それだけ置いておけばいいだろうと、玄関にそっと用意し、昨日の片付けと朝食の準備を始めた。
「うぅ……、すみません。眠すぎてちっとも頭が働きませんでした」
片付けが大変だったので今回は髪を自分で乾かしてもらい、何とか準備を終えた朝食中、愛梨が謝ってきた。
だが、湊もその気持ちは良く分かるので怒ってはいない。
「そうだろうなと思ってたし、別に良いぞ」
「ありがとうございます」
「でも、流石にここら辺で落ち着くべきだな。嬉しいし満たされるけど、これ以上乱れて寝不足は駄目だ」
「あぁ、ですよね……」
キスの時と同じく、愛梨は一度スイッチが入ると止まらない。
今までは何とか湊がストッパーになっていだが、これ以上となると学業に支障をきたすだろう。
であればルールを作るしかないと告げると、彼女が露骨に落ち込んだ。
「……でしたら、次の日が平日だったら一回だけでどうですか?」
「それ、俺の真似だろうが。……まあいいか、それでいこう。でも無理はするなよ?」
それっぽいルールを立てたが、年頃の男女な上に既にお互いの体にどっぷり嵌っている。
我慢など出来はしないので、ここら辺が落としどころだろう。
体が辛い時は休めと心配すると、愛梨がとろりと蕩けた笑顔を浮かべた。
「分かっていますよ。……ふふ、これでどんどん湊さんに溺れてもらえますね?」
「十分溺れてるっての。ほら、もうあんまり時間無いからさっさと食べるぞ」
「はぁい」
お互いに笑い合い、悪い学生二人のいつも通りの朝は過ぎていく。
次、最終話です。