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歯車  作者: シトロン
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終章

【高橋佳奈子】

 バシッ。

 乾いた音が響いた。

 と同時に頬が熱くなった。

「なんでこんなこともできないのよ。この役立たず!!」

「いい?世の中は勉強が全てなの。だからあなたは勉強以外してはダメ。わかる?あなたのためなの」


 ああ。

 母の声だ。

 毎日響く怒号。暴力。私は疲れていた。

 母は毎日暴力を振るってきた。野菜を残した。勉強で間違えた。そんな些細なことで。今思えばあれは虐待ではないかと思う。けれども私は母の罪を曝け出す気はなかった。

 母のくれた「あなたのため」という言葉を信じていたからだ。

 母の暴力も、態度も、全て私に対する愛だ。そう信じることで、どんなことも耐えることができた。

 ただ、母を好きになることは、どうしても出来なかった。

 そんな複雑な気持ちを言えるのはただ一人、瑛人だけだった。

 小学生の頃から仲の良かった瑛人だけに、本音を言えた。母のことも、虐待のことも。


「佳奈子の気持ちはわかるよ」

「辛いよな」


 何かをしてくれるわけではなかった。だが、話を聞いてくれるだけで心が軽くなった気がした。


 小中高の12年間耐え続けた。母は周りには良い顔をしていたから、母の虐待が知られることはなかった。

 12年間耐えられたのは瑛人のおかげだと思う。瑛人には感謝していた。

 瑛人が昔から私に好意を抱いていたことは薄々わかっていた。

 だが、私は瑛人に感謝はしても、恋愛対象として見ることは出来なかった。瑛人はあくまで幼馴染で相談相手だ。好意を抱くことはなかった。

 大学に上がり、私はアルバイトと勉強に追われる日々になった。そんな中での彼との出会いは、もう運命と言ってもいいんじゃないかと思う。

 ある日、大学を出る時私は外で雨が降っていることに気づいた。だが、その時私は傘を持っていなかった。どうしようかと右往左往している時、彼が現れた。

「あの…これ」

 オロオロしながらビニール傘を差し出す彼の顔は、今でも覚えている。

「えっ…傘…」

「僕は大丈夫だからっ。それじゃ!」

 彼は頭にカバンを被せ、土砂降りの中を走って行った。

 その彼の後ろ姿が、私にはとても大きく見えた。

 友人に聞き、彼は私の3歳上の人だとわかった。 彼のいる教室に行ったり、休憩中二人で過ごしたりしていくうちに、次第に惹かれあっていった。

「あの…僕、高橋さんが好きです。付き合ってくれませんか」

 知り合って数ヶ月経った頃だった。彼が私に告白してくれたのだ。

 返事はもちろんOK。

 そこからの生活は夢のようだった。

 家を出て、自立して、彼とデートやランチをする日々だった。質素ではあったけれど、今まで縛られ続けた私には充分すぎるほどだった。

 付き合ってから、彼のことをさらに好きになった。彼と繋ぐ手が、私に目を向ける彼の優しい二重が、彼の言葉が、好きで好きで仕方がなかった。


 大学を卒業して数年、彼がプロポーズしてきた。

「俺、佳奈子がやっぱり好きなんだ。佳奈子とずっと一緒に過ごしたい」

 もう、これ以上の幸せはないと思った。


 家を出て、ずっと幸せだった。勉強やバイトは忙しかったが、彼に出会えたのだから。

 同棲、結婚…。

 目まぐるしく時間が過ぎ去っていった。毎日が楽しくて仕方なかった。

 瑛人にはすぐに恋人ができたことを伝えた。一瞬渋い顔をしたが、すぐ「おめでとう」と言ってくれた。

 母のことは彼には話さなかった。心配をかけたくないからだ。

 でも彼がプロポーズしてからというもの、私たちの愛はより深く、より濃いものとなっていった。


 そしてついに私たちの間に子供が産まれた。それが絢音だ。

 きっと、もっと忙しくなるだろう。

 けれども子供ができ、これからも幸せな生活がずっと続いていくと思っていた。

 だが、子供ができてから、私は何かとてつもない不安に襲われていた。その不安が何なのか、わからなかった。


 絢音が大きくなっていくにつれ、その不安は大きくなっていった。

 ある日のことだ。私が絢音と遊んでいる時、急に不安が襲いかかってきた。


「いい?勉強が全てなの。それ以外やってはダメ。遊びなんて絶対にダメよ」


 そんな声が頭の中で響いた。

 母の声だ。


 勉強が全て。勉強が全て。勉強が全て。


 長年かけて教え込まれてきた教訓。常識。

 気づけば私は絢音に鉛筆を握らせていた。

「絢音、いい?足し算はねこうやってやるの。例えば、鉛筆が一つあるとすると…」

「おい」

 振り返ると彼がいた。

「勉強してるのか?」

「そうだけど…」

「まだ早すぎるんじゃないか?絢音は今は遊んで体力をつけたりする方が…」

「うっさいわね。あんたに関係ないでしょ」

 え…。

 何?今の。

 無意識に口にしていた。

 彼は、驚いた顔をしていた。

 今の声のトーン、口調、態度。

 間違いない。母だ。


 昔から誰にも愛されなかった。

 父は私が虐待されていても、見て見ぬ振りをしていた。というか、私に興味がない。無関心なのだ。

 母は相変わらず毎日暴力。気に入らないことがあれば全て私の体にぶつけた。

 でも、「あなたのため」という言葉を信じて耐え続けた。

 あなたのため。あなたのため。

 でも本当はわかっていた。母が私を愛してくれていないことに。

 ただ、誰にも愛されていないということを信じたくなかっただけだ。

 認めたくなかっただけだ。現実を。


 これは母の呪いだ。

 そしてその母の呪いが、絢音にも向けられていた。

「これぐらい解けるようになりなさい!!」

「あんたうるさいのよ!!」

「なんでできないのよ!!」

 本当はこんなこと言いたくない。でもわからないのだ。

 じゃあどうすればよかったの?

 他に何か方法があるの?


 どうやって絢音を愛せばいいの?


 絢音が4歳になる頃にはもう、勉強を教える以外の愛情表現がわからなかった。


 したくもないのに母の言葉遣いや態度が出てしまう。きっと母と血が繋がっているからだ。


 でも私は母と違って絢音に手をあげることはなかった。母とは違う人間になりたかったからだ。

 絢音が産まれたときのあの不安は、おそらく母のようになってしまうことだ。

 でもこんなこと他人に知られたくない。母の呪いなんて誰も信じてくれない。

 他人の前では結婚当初のような顔でニコニコしてしまった。

 私は、最低な人間だ。

 このことを話せるのはただ一人、瑛人だけだ。


「瑛人、どうしよう。私、あんな人になりたくないのに…」

「佳奈子…」

「主人には心配かけたくないの。だから母のことも話してないのよ…。ねぇ瑛人、私、絢音を愛せる自信がないのよ…。こんなこと、瑛人にしか言えないのに…」

「大丈夫だよ。佳奈子は素敵な人だ。今は色々なことがあって混乱してるだけ。一旦落ち着いて、自分の気持ちに向き合ってみたらどうだ?」

「向き合ってるよ…!向き合っても私、絢音を本当に愛しているのか、わからないの…!自分の本心が、わからないのよ…」

「佳奈子…」

 瑛人には、私が食事を奢るのを口実に、相談相手になってもらっていた。

 だがやはり予想通り、瑛人は何かをしてくれるわけじゃない。ただ話を聞いて、頷くだけ。アドバイスも、参考にならない。

 でも一人で抱え込むよりはマシだ。ひとりぼっちよりは、空っぽよりはマシなんだ。

 でも、瑛人と会っていることを彼に知られては、面倒なことになる。疑り深い人だ。「相談していただけ」なんて簡単に信じてくれるわけがない。

「主人には内緒にしてくれない…?母のこと話してないのよ。それで変な勘違いされたくないし」

「ああ…わかったよ」

 でも帰ればまた同じことを繰り返してしまった。

「終わるまで部屋から出ないで。あなたの為だから。絶対に⚪︎⚪︎小学校に入るの。わかったら早くやりなさい」

「なんなのこの料理⁉︎不味すぎるわよ‼︎」


 やめて…!お母さん、やめて…!

 こんなこと言いたくないのよ…!


 ずっとそんなことを考えていて、夜は一睡もできなかった。


 私が、高橋家を壊している。


 「愛」というものが欠けてしまうだけで、家族という歯車は噛み合わなくなってしまうのだ。


 次の日、とんでもないことが起きた。

 絢音が階段から落ちて救急車に運ばれたという電話がかかってきたのだ。

 目の前が真っ暗になった。


 外は土砂降りだった。

 タクシーを待っているとき、ずっと考えていた。


 どうしよう。

 もし絢音が無事じゃなかったら。

 もう二度と絢音に会えなくなったら。

 どうしよう。


 ごめんね、絢音…。


 私はいつもそうだ。

 ぎりぎりになってやっと大切なことに気づく。

 今回だってそうだ。

 自分の態度を母のせいにした。

 自分は悪くないと、目を背けた。

 ただ、私が素直に思いを伝えられていないだけなのに。


 絢音、愛してる。


 ただ、そう言えばよかったんだ。絢音の前で。

 絢音、ごめんね。

 あなたが思っていなかったとしても、私はあなたがずっとずっと大好きだった。

 なんで気づかなかったんだろう。


 絢音。絢音。


 あなたに会いたい。


 今度こそ、思いを伝えたい。


【刑事】

 刑事は違和感を抱いていた。

 周りの人の証言から考えると、大輝は不倫だけで妻を殺すような人ではない。

 感情で振り回されるような人物ではない。

 すでに警察では、佳奈子の不倫に怒り、殺害したと結論づけられている。

 だが、刑事は腑に落ちなかった。

 情報を整理してみる。


大輝、佳奈子の夫婦仲は悪い

普段から喧嘩

佳奈子、不倫する

大輝、佳奈子を殺害


 まとめるとこうだ。だがこの中には抜けている箇所があった。

 「絢音の事故」だ。


 事故、階段、大量出血…。


 そのとき、刑事はハッとした。

 大量に出血した場合、輸血が必要になる。

 最近の産婦人科では、赤ん坊の血液型を調べないこともあるらしい。

 まさか高橋家も…?

 絢音の血液型はB型だ。

 そして佳奈子はA型。

 大輝がB型でなければ、佳奈子殺害の本当の動機がわかる気がした。


 わかってる。ただの憶測だ。

 だが、調べずにはいられなかった。


 大輝のDNAの検査結果の表に血液型が書いてある。それを見れば…。


 他の資料をかき分け、ひたすら探した。

 そして、「DNA鑑定結果報告書」と書かれた紙を見つけた。

「あった…」

 報告書をめくり、「血液型」の欄を探す。


「血液型…B型」

 なんだ。考えすぎか。

 刑事は資料の場所を元に戻し、自分の作業に戻っていった。

 この先は本編の核心部分に触れている。この物語を未読の方は、この先を読まないことをおすすめする。


 この物語で伝えたかったことは、「思い込み」の危険性である。


 ラストの

「血液型…B型」

 なんだ。考えすぎか。

 刑事は資料の場所を元に戻し、自分の作業に戻っていった。


 この文章で、大輝の考えは全て思い込みであったことが明かされる。佳奈子の不倫も、妊娠についても。

 では何のために佳奈子は殺され、大輝も自殺したのか、というのが、この物語の真相である。「思い込み」とは時に人の人生を大きく揺るがすのだ。

 

ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。

これからも小説を書いていこうと思います。

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