第一章
【高橋佳奈子】
ハァッ、ハァッ、ハッ、ハッ…。
こっちに、来ないでええええ!!
やめ…
顔に生暖かい液体がついた。
何…なんだろう…これ。
その時、自分の腹あたりが焼けるように熱くなるのがわかった。
熱い、熱い、私の腹が、内臓が、命が、焼かれていく。
痛い。とにかく痛い。
腹の方に目をやると、赤黒い液体が溢れ、びちゃびちゃと音を立てて地面に落ちたのが見えた。
これは…血だ。
血、血、血。見たことのない量の血。引き込まれてしまいそうな赤。
自分の体から、大量の血が消えていく。
思わずクラクラした。止血しなきゃ…。
焦点の合わない目で前を見ると、フードを被った人間がいた。ぼんやりとしか見えないが、私の腹に何かを突きつけている。何が起こっているんだ。
いや、そんなことより寒い。今までにないほどに。凍え死にそうだ。さっきまであんなに熱かったのに。
いや、今も熱いままだ。腹だけが。腹だけがとてつもなく熱い。体は凍えるほど寒い。
風が吹いた。強い。こんな時に。
強風によって相手のフードがぱさり、と音を立ててめくれた。相手はこんな言葉を口にした。
「許さない…」
薄れゆく意識の中、その言葉だけが響いていた。
【事件】
五月四日、午前七時十分頃、東京都⚪︎⚪︎区の歩道橋で高橋佳奈子さん(31)が死亡していると通行人の女性から××署に通報があった。被害者は腹部に刺し傷があり、警察は殺人事件として捜査を進めている。
警察は第一発見者及び被害者の親族や関係者の方々に詳しく事情聴取をしている。
【第一発見者 今野美咲の事情聴取】
「今野美咲、二十四歳です…。…あの、私、逮捕されたりします?警察は犯人を探す時にまず親族と第一発見者を疑うみたいなこと聞いたことあるんですけど…」
今野美咲が心配そうに見てくる。警察に向かってそれを言うのか。
「大丈夫ですよ。今は事情聴取してるだけですので。では早速、死体を発見するまでの今野さんのスケジュールについて詳しく伺ってもよろしいでしょうか。」
「はい…。えっと私はいつも通りに六時過ぎに起床して、朝食食べて七時過ぎぐらいかな…?それぐらいの時間に家を出ました。まっすぐ歩道橋の階段を登ったら、人が倒れていたのでびっくりしました。ハエが集ってたので亡くなっていることはすぐにわかりました。しかもお腹からすごい血が出ていたので…。ただごとではないと思ってすぐに110番しました。まさか高橋さんだったなんて…」
「高橋さんとは以前から面識はあったんですか?」
「はい。家が近くて。というかほぼ隣みたいなもんなんですけど。
すれ違ったら挨拶をする程度でしたので、特別仲が良かった訳ではないんですけど。高橋さんとは通勤中たまにすれ違うんですよ」
「なるほど…。高橋さんはどのような人柄だったのでしょうか。」
「高橋さんは…私はちょっと苦手です。道ですれ違うたびにニコニコペコペコしてきて、愛想がいいように振る舞っているので最初はいい人だと思っていたんですけど、家の中では様子が違うようで。週に一回は大声が聞こえてくるんです。多分喧嘩でもしているんでしょうけど。家がすごく近いので声が聞こえちゃって。それで一回お宅を訪ねてみたんです。そしたら高橋さんがいつものようにニコニコしながら出てきて、私に聞こえてきた大声より遥かにトーンの高い声で『なんでもありません』って言ってすぐに私を追い出したんです。それで騒ぎが収まったと思えばまた『あんたのせいで』とかいう佳奈子さんの声が聞こえてきて…。思わず耳を塞いじゃいました。近所の人もよく『また怒鳴り声…』って不満そうに言ってて。そのせいかはわかりませんが『不倫してる』とかいう噂が流れてきて…。評判は悪かったと思います。こんなことを言うのもあれなんですけど、やっぱり私は苦手です。亡くなった時はショックでしたけど…悲しくはなかったです」
高橋佳奈子には「高橋絢音」という五歳の一人娘がいる。高橋佳奈子の夫は「高橋大輝」三十四歳。まさか不倫…?刑事は違和感を覚えた。
「今野さんが死体を発見される前日の、高橋家の様子について、何か変わったことなどはありましたか?」
「変わったことですか…。そういえば、その日は珍しく夜中に、高橋家から大声が聞こえてきたんですけど、いつも以上に声が大きかった気がします。私実はそれが原因だったんじゃないかと思ってるんです。確か…男…の人の声が聞こえてきたので。…私もしかして大輝さんが犯人なんじゃないかなーって。あっ、すみません素人なのに。勝手に決めつけるのは良くないですよね。」
【杉山瑛人の事情聴取】
「杉山瑛人。三十三歳です。何なんですか急に」
家に来て警察手帳を見せつけてくる刑事に杉山は整った顔をしかめた。
「申し訳ありません。杉山さんもご存じかと思いますが、先日、高橋佳奈子さんが殺害されました。そこで佳奈子さんと仲の良かった杉山さんにお話を伺いたいのですが…」
「…いいですけど早めに済ませてくださいね。」
杉下は刑事をリビングに入れた。
「ありがとうございます。では早速、高橋佳奈子さんとの交友関係についてお聞かせください。」
「…幼馴染です。地元が同じで、昔から連絡取り合ってました。…まさか俺を疑ってるんですか!?」
「とんでもない。我々は高橋佳奈子さんを殺害した犯人を一刻も早く見つけるために佳奈子さんと関係のある方に詳しくお話を伺っているだけで、杉山さんを疑ってなどおりません」
刑事は高橋佳奈子が不倫した疑いも視野に、佳奈子と交友関係のある男性の事情聴取も進めている。
「佳奈子さんはどのような人でしたか」
「佳奈子は良い人です。昔から俺に気遣いをしてくれるような人で、友達も多かったと思います。俺は佳奈子を悪く思いません!俺だって佳奈子を殺した犯人を見つけたい…」
「佳奈子さんは近所で不倫などの噂が立っていますがご存じで?」
「佳奈子がそんなこと…するわけがないだろ!俺は信じないぞ!…あいつはそんな女じゃない…!」
杉山は刑事を睨みつけた。
刑事はメモを取る手を止めた。友人にしては感情が強すぎる。
「申し訳ありません。ですがもう一度聞きます。佳奈子さんとの交友関係は本当に、『幼馴染』なんですよね?」
「…何が言いたい」
「杉山さんは佳奈子さんのことを大変大切に思っている訳ですよね。『友人以上』の関係はないんですよね?」
「…何度言わせるんだ。佳奈子には夫がいることはあんたも知ってるだろ。佳奈子はただの友人だ。地元が同じで、たまに会ったら話すだけだ」
杉山の表情が険しくなっていく。
「失礼しました。では、事件当日の五月三日に佳奈子さんと何か連絡を取りましたか?」
「…ちょっと待ってください」
杉山は自身のスマホのLINEの送信履歴を確認し始めた。しばらくスマホを操作すると、杉山が刑事へ画面を向けた。
「…昨日の夜のLINEです。」
刑事は画面に目を落とす。
『昨日はごめんね』
『いや、気にしなくていい』(既読)
『でも、あの人にばれたかもしれない』
『そんなこと言うな
ちゃんと話した方がいい』(既読)
『もし全部知られたらどうしよう』
『大丈夫だ
落ち着け』(既読)
『怖いの』
『俺が何とかする』(既読)
『だから明日ちょっと会って話せないか?』(未読)
「…随分親しいやり取りですね」
刑事が静かに言った。
杉山は舌打ちしそうな顔で目を逸らす。
「だから違うって言ってるでしょう。佳奈子は昔から、辛いことがあると俺に相談してきたんです。あと…これ以上俺を疑うようだったら、もう帰ってくれませんか」
「そうでしたか…。わかりました。お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした。」
「…早く帰ってください」
「では。お邪魔しました」
外では雨が降りそうな黒い雲が浮かんでいた。佳奈子不倫説は正しいかもしれない。LINEのやり取りや、杉山の佳奈子に対する感情が友人にしては強い。刑事の頭の中で仮説が組み上がる。
佳奈子、大輝の夫婦仲は悪い
→佳奈子不倫
→大輝激怒
→佳奈子殺害
これなら辻褄が合う。やはり、大輝が…?
【高橋大輝の事情聴取】
「高橋大輝。三十四歳です。あの…どうしました?」
「高橋さんはご存じだと思いますが、佳奈子さんが殺害された事件について少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」
「いいですけど…」
「ありがとうございます」
刑事はリビングのイスに座り、大輝と向き合った。
「お時間を取らせてしまい申し訳ありません。大輝さんは佳奈子さんが殺害された事件の犯人について、何か心がかりはあるでしょうか。」
「…私です」
「…え?」
「高橋佳奈子を殺害したのは私です」
五月五日午後三時四十三分、高橋大輝が殺人罪で逮捕された。高橋氏の発言に矛盾はなかったが、動機については明らかにしていない。
刑事は動機に関してはおそらく佳奈子の不倫だろうと結論づけた。だが、刑事はなぜか腑に落ちなかった。




