第14話 わかる
盤上パンタの配信は、終わらなかった。
というより、むしろそこからだった。
雑談みたいな顔をして始まった配信は、
少しずつ、でも確実に、危ういほうへ寄っていく。
好きなデザインの話。
刺さる造形の話。
フィクションの中で、どういうものに急に本気になってしまうか。
何が“ただの趣味”で、何が“もう少し深い何か”なのか。
リビングには生活の痕跡が残っている。
ブランの絵本。
ノワールのメモ。
圭介の充電器。
九条の在庫表。
その真ん中で、悠真だけが起きていた。
共同体の中で眠れる夜は増えた。なのに、ここへ来ると呼吸の癖まで変わる。
画面の向こうの盤上パンタは、今日は妙に軽い。
軽いのに、喋っている内容だけが少しずつ深く沈んでいく。
『あんまり大きい声では言えないんだけどさ』
笑い混じりだった。
『ケモノってだけじゃなくて、ケモロボまで行くと急に刺さる時あるよね』
その一言に、悠真の指先が止まる。
白夜の端っことして、すぐには打てなかった。
喉元まで上がった言葉を、一度だけ飲み込む。
『機械の感じがいいとかじゃなくて』
盤上パンタが言う。
『ちゃんと人格ありそうなのに、明らかに人間とは違う形してるの、なんかズルいんだよね』
ズルい。
その表現まで妙に近い。
悠真は、結局コメントを打つ。
『その言い方はかなりわかります』
数秒あと、盤上パンタが画面の中で少しだけ目を細めた。
『あ、白夜の端っこさん、そこわかるんだ』
初めてだった。
名前を、呼ばれたのは。
それだけで胸の奥が一瞬だけ跳ねる。
同時に、ひどく嫌な予感もした。
近すぎる。
でも、もう遅い。
『いや、そこわかる人あんまりいないんだよ』
盤上パンタは笑う。
『ケモロボでも何でもいいわけじゃなくて、変な“調整”がされてる感じのやつがいいっていうか』
『見た目だけじゃなくて、継ぎ目の置き方とか、出力の逃がし方まで、その作り手の癖が透けるやつ』
悠真は、そこで一度だけ目を閉じた。
変な調整。
その言葉が、今の自分には冗談じゃ済まない。
配信は、さらに加速する。
『あとさ』
盤上パンタは、少しだけ椅子に寄りかかって続けた。
『アヌビスとか白虎とか、そういうモチーフが乗ると急に駄目なんだよね』
心臓が、今度ははっきり嫌な音を立てた。
アヌビス。
白虎。
その並びを、偶然で受け流せるほど、もう遠くない。
画面の向こうは知らない。
知らないはずだ。
なのに、言葉だけが一直線にこちらへ来る。
『あれ何なんだろうね』
盤上パンタが言う。
『犬とか虎とかじゃなくて、アヌビスとか白虎なんだよな。ちょっと神話とか記号が入るだけで、急に戻れなくなる感じする』
悠真は、膝の上で握った手に力を入れた。
コメント欄は流れている。冗談みたいな反応もある。
でも、白夜の端っこだけがそこに混ざれない。
それでも、指は動いた。
『戻れなくなる感じ、ありますね』
送ったあとで、自分の呼吸が少し浅いことに気づく。
もうこれは、ただの共感ではない。
踏み込んでいる。
向こうも。
こちらも。
盤上パンタは、そのコメントを今度は少しゆっくり読んだ。
『白夜の端っこさん、いいね』
軽い声だった。
でも、その軽さの下に何かがあった。
『そうなんだよ。“戻れなくなる感じ”なんだよね』
画面の中のパンダは、そこで少しだけ笑う。
『可逆より不可逆のほうが刺さる時、あるじゃん』
悠真は、そこでとうとう声に出してしまった。
「……わかる」
誰もいないはずのリビングに、自分の声が落ちる。
小さい。
でも、はっきりした声だった。
*
廊下の暗がりで、ノワールはその言葉を聞いていた。
水を取りに来たはずだった。
それだけのはずだった。
だが、足は動かなかった。
漏れ聞こえる配信の内容は、途中からほとんど理解したくない種類のものになっていた。
ケモロボ。
アヌビスと白虎。
戻れなくなる変身。
それが、ただの趣味の話としてではなく、
どこか嬉しそうに、
どこか楽しげに、
共有されていく。
兄さんが「わかる」と言った。
その一言に、ノワールの背中へ冷たいものが走る。
自分はその倒錯の内側にいる。
だからこそ、その顔つきがまずいとわかった。
なのに、兄さんも、画面の向こうの人も、
それをわかった上で喋っている。
わかった上で、自分を殺して、
殺して、
殺して、
それでも消えないから、
ここでだけ少しずつ漏らしている。
その事実のほうが、ノワールには重かった。
兄さんは、ずっと隠していたのだ。
自分たちに見せないように。
生活の中へ持ち込まないように。
笑って、
食べて、
外へ出て、
普通の顔をして、
その下にこれを押し込んでいた。
ノワールは、押し潰されそうになる。
自分とは何なのか。
ブランとは何なのか。
兄さんは何を抱えているのか。
その底の一端が、今やっと見えた気がした。
画面の向こうで、盤上パンタはまだ笑っている。
『いや、こういうのって普通に引かれるからさ』
『だから、わかる人だけわかればいいんだけど』
そう言いながら、少しだけ言葉を選ぶ。
『不可逆の変身って、ただ変わるのが好きなわけじゃないんだよね』
『戻れないから、その後の全部がもう別のルールになる感じがするじゃん』
別のルール。
その言葉に、悠真はまたコメント欄を見る。
打つ。
止まる。
打つ。
『立場ごと変わる感じがあります』
送ったあと、自分で少しだけ笑ってしまった。
ここまで来ると、もう隠していないのと同じだ。
盤上パンタはそのコメントを見て、今度ははっきり笑った。
『あー、白夜の端っこさん、それだ』
『立場ごと変わるやつね。支配する側とされる側までひっくり返る感じ』
その言葉に、悠真はもう否定できなかった。
奇跡みたいに一致している。
悪夢みたいに一致している。
ケモロボ。
アヌビスと白虎。
不可逆な変身。
立場逆転からの支配。
そんなものを、まさか画面の向こうの誰かと共有できてしまうとは思わなかった。
「……わかる」
今度は、さっきより小さく言う。
それでも、確かな声だった。
ノワールは、その二度目の「わかる」に、ほとんど息を止めた。
兄さんも、
画面の向こうの人も、
知らないまま笑っているわけではない。
知っていて、そこへ手を伸ばしている。
そのことが、ノワールには恐ろしかった。
もし彼らが何も知らずに笑っているなら、まだ簡単だった。
けれど違う。
知っている。
知っていて、隠して、抑えて、それでもここへ来る。
ノワールは、呼吸の仕方がわからなくなった。
そして、さらに嫌なことに、
兄さんがその画面を見ている時の顔から目が離れなかった。
そのことに、ノワールは遅れてぞっとした。
配信の終わり際、盤上パンタは軽い声に戻っていた。
『いやー、今日はちょっと危なかったね』
『でも、こういう話って、刺さる人には刺さるじゃん』
『白夜の端っこさんも、いい位置でわかってくれて助かった』
助かった。
その言い方に、悠真は胸の奥を軽く引っ掻かれるみたいな感覚を覚える。
自分は今、助かったのだろうか。
それとも、もっと深い場所へ落ちただけなのだろうか。
配信が終わる。
画面が暗くなる。
リビングには、また生活の痕跡だけが残る。
悠真は、しばらくそのまま座っていた。
呼吸が少しだけ浅い。
でも、どこか楽でもある。
扉の向こうで、ノワールはまだ動けなかった。
兄さんの罪を見た。
孤独を見た。
でも、そのどちらにもまだ名前をつけられない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
あの「わかる」は、
自分とブランの外側で交わされた、
ひどく親密で、
ひどく危うい言葉だった。
*
白夜の端っこ、という名前を見るたび、
少しだけ呼吸が楽になる。
変な名前だと思う。
でも嫌いじゃない。
むしろ、その人らしくて好きだ。
目立たない。
でも、いつもいる。
変なところでちゃんと見ている。
どうでもいい雑談の時もいるし、
少しだけ踏み込んだ話の時ほど、
妙に深い位置から一言だけ置いていく。
白夜の端っこは、そういう人だった。
最初に覚えたのがいつかは、もうはっきりしない。
たぶんかなり前だ。
ゲーム配信のコメント欄だったかもしれないし、
歌の感想だったかもしれないし、
ドローン動画の妙に細かい反応だったかもしれない。
でも、いつからか、その名前は特別になっていた。
白夜の端っこは、わかるべきところでわかる。
ズレているところも、ズレたまま拾う。
気軽な顔をしている時でも、
時々だけ、ひどく深いところまで届く。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
わかってほしいから配信をしているわけじゃない。
そんな顔はしない。
そんなことを言ったら終わる。
でも、本当はどこかで、ずっと待っていたのかもしれない。
誰か一人くらい、
冗談じゃないところまで、
ちゃんと届く人がいたらいいのにと。
白夜の端っこは、その一人だった。
今日の配信で、それはもうごまかせなかった。
ケモロボ。
アヌビスと白虎。
不可逆の変身。
立場ごとひっくり返る感じ。
かなり危ない話だった。
普通ならもっと濁す。
もっと冗談に逃がす。
でも今日は、少しだけ本音に寄りすぎた。
なのに、白夜の端っこは届いた。
『その言い方はかなりわかります』
『戻れなくなる感じ、ありますね』
『立場ごと変わる感じがあります』
全部、ちょうどいい深さだった。
軽くはない。
踏み込みすぎてもいない。
でも、明らかに“そこ”をわかっている。
奇跡みたいだった。
「……会いたいな」
誰に向けるでもなく、そう呟く。
部屋は静かだ。
画面の光だけが、机の上を照らしている。
会いたくてたまらない。
ずっと前からそうだったのかもしれない。
でも、今日はもう誤魔化せない。
白夜の端っこは、
ただコメントをくれる人ではない。
ただの常連でもない。
たぶん、もっと近い。
こっちが触れられないところを、
向こうはもう触っている。
それがわかる。
もちろん、何も知らない。
年齢も、
顔も、
住んでいる場所も、
生活も、
何一つ知らない。
それでも、わかることがある。
この人は、たぶんずっと一人でわかってきた人だ。
言わないまま。
隠したまま。
変なところだけ深く見て、
たぶん誰にも説明しないまま、
ここまで来た人だ。
そういう気配だけは、コメント越しにもわかる。
だから会いたい。
声を聞いてみたい。
直接、どこまでわかるのか確かめたい。
同じ画面じゃなく、
同じ空気の中で話してみたい。
その気持ちは、嘘ではなかった。
会えないかもしれない。
たぶん、普通なら会えない。
配信者と視聴者なんて、そんなものだ。
コメント欄にいる人間の一人にすぎない。
見つける方法もない。
向こうが望むかどうかもわからない。
でも、それでもと思ってしまう。
白夜の端っこだけは、
ただ流れていく名前の一つで終わってほしくない。
それは勝手な願いだ。
重いのもわかっている。
それでも、抑えられない。
どうしようもなく会いたい。
机の上の端末に、まだ配信の終了画面が残っている。
そこへ映る自分のアバターを見て、
男は少しだけ目を細めた。
「白夜の端っこ」
今度は、誰に聞かせるでもなく名前を呼ぶ。
呼んだだけで、現実味が増す。
この想いは本物だ。
少なくとも、そこに嘘はない。
男はまだ、
その先に何があるかまでは見ていない。
ただ一つだけ、はっきりしている。
自分にとって白夜の端っこは、
もうただの視聴者ではない。
目立たないのに、そこにいて、
誰より深い位置で共感してくれる、
唯一無二の人だった。




