第6話 絶望の書記、あるいは狂った軍師
羽ペンの先が、乾いた音を立てて羊皮紙の上を走る。
かつて帝国の至宝と謳われた外交官、ルクレツィア・フォン・メストリッチの筆致は、以前よりも鋭く、そして冷酷なまでの正確さを帯びていた。
現在の彼女がいるのは、講堂の教壇ではない。
覇王ヴォルグの執務室の片隅、常に主の視線が届く場所に据えられた、小さな書記机だ。
「……報告書は以上です、ヴォルグ様。隣国エスタニアの内部状況、および交易路の封鎖による兵糧攻めの試算……。私の計算通りに進めば、一月と経たず、彼らは自ら城門を開き、貴方様に膝を屈するでしょう」
ルクレツィアは静かに顔を上げた。
かつてのひび割れた眼鏡は捨てられ、今はヴォルグから与えられた、冷たい銀縁の眼鏡がその瞳を縁取っている。
清潔だが露出の多い、所有者の意向が反映された黒いドレス。首元には、彼女が「大罪人」であることを示す、細い黒革の首輪が填められていた。
「素晴らしい。やはり貴様の知性は、甘い理想を説くよりも、地獄を設計する時にこそ真価を発揮する」
ヴォルグが席を立ち、ルクレツィアの背後に立った。
逞しい手が彼女の肩に置かれる。
かつてなら戦慄し、拒絶したであろうその接触に、今の彼女はただ、静かに目を細めて身を委ねるだけだった。
「……はい。私は、貴方様の影。貴方様の勝利のために、言葉を汚し、論理を歪める道具に過ぎません」
彼女の知性は、もはや「正義」を信じていない。
士官学校の夜、教え子たちに蹂躙され、その罪さえも自分に被せられたあの日、彼女の中の「公的」な秩序は死滅したのだ。今の彼女を動かしているのは、自分を破壊したこの男への、狂信に近い服従心だった。
ふと、執務室の扉がノックされ、一人の若者が入ってきた。
近衛兵の制服を纏ったカイルだ。
かつて彼女を最初に「教育」した生徒は、今や軍の中核を担う若き将校となっていた。
「ヴォルグ様、次の遠征の準備が整いました。……それと、書記官殿」
カイルがルクレツィアに、隠そうともしない欲望を含んだ視線を送る。
かつてのルクレツィアなら、その視線に屈辱を感じ、顔を背けただろう。
だが、今の彼女は、ヴォルグの隣で冷ややかな笑みさえ浮かべて見せた。
「カイル将校。貴方の部隊の進軍経路には、三箇所の地政学的な死角があります。……今夜、私の部屋に来なさい。その『無知』を、私が論理的に矯正して差し上げます」
その言葉は、教官としての指導ではない。
自らを「共有の戦利品」として供出しながら、同時に知性によって相手を支配するという、倒錯した力関係の誇示だった。
カイルは歓喜に瞳を輝かせ、深々と頭を下げた。
「知性を剥奪された」はずの彼女は、今やバルバドでもっとも恐ろしい存在となっていた。
彼女が書く一行の命令が、数千の命を奪い、一国の歴史を塗り替える。
彼女の知能は、ヴォルグという圧倒的な力と結びつくことで、かつての外交官時代には決して得られなかった「世界を弄ぶ全能感」を手に入れてしまったのだ。
「……満足か、ルクレツィア。貴様が忌み嫌っていた野蛮な男たちが、今や貴様の指先一つで死地へ向かう。これこそが、貴様が求めていた『支配』の完成形ではないのか?」
ヴォルグが彼女の耳元で囁く。
ルクレツィアは、自ら主の手を掴み、その指先に接吻を落とした。
「ええ……。なんと理にかなった世界でしょう。……私は壊され、汚されることで、ようやく真に『賢く』なれたのですから」
彼女の瞳の奥には、もう涙も、後悔もない。
ただ、磨き上げられた水晶のような、冷徹な殺意と愛執が同居しているだけだ。
外では、バルバドの軍勢が次なる略奪に向けて気勢を上げている。
そのすべての戦略を、彼女が書く。
そのすべての悲劇を、彼女が設計する。
剥奪された知性は、覇王の毒として再誕した。
帝国が誇った至宝は、今やバルバドの闇を統べる、もっとも美しく狂った軍師として、永遠の夜を書き記し続けるのだった。




