第5話 覇王の逆説的断罪
覇王の私室。
そこは、士官学校の喧騒とは隔絶された、冷徹な理の支配する空間だった。
ルクレツィアは、冷たい石床に膝をついていた。
教官用のチュニックは乱れ、ひび割れた眼鏡はすでに没収されている。ぼやけた視界の中で、上座に座るヴォルグの影だけが、巨大な絶望のように彼女を見下ろしていた。
「……ルクレツィア。貴様の『教育成果』は、私の予想を遥かに超えていたようだな」
ヴォルグの声は、低く、楽しげですらあった。
彼は机の上に、数枚の書簡を放り出した。
そこには、士官候補生たちの署名と共に、驚くべき「告発」が記されていた。
「士官学校の若者たちが、一様にこう供述している。――『ルクレツィア教官は、我々を肉体で誘惑し、自分への忠誠を誓わせようとした』と」
「……な……っ!?」
ルクレツィアは息を呑んだ。
衝撃に、身体の芯が凍りつく。
「何を……何を、言っているのですか……。私は……彼らに……夜な夜な……!」
「そうだ。貴様は夜な夜な彼らを部屋に引き入れ、密通を重ねた。それが彼らの主張だ。貴様は自らの知性と、帝国仕込みの情技を用いて、バルバドの将来を担う戦士たちを籠絡し、私に対する『反乱の手駒』にしようと企んだ……。違うか?」
「違います! 私は……私は、彼らに蹂躙されていたのです! 鍵を壊され、無理やり……!」
悲鳴のような叫び。
だが、ヴォルグはわずかに口角を上げた。
その瞳には、すべてを書き換える「勝者の論理」が宿っている。
「証拠はあるのか? 貴様は昼間、平然と教壇に立ち、彼らに微笑みかけていたではないか。拒絶する素振りも見せず、報告もせず、ただ快楽を受け入れていた……。軍規に照らせば、これは『教官による士官への背徳的教唆』、すなわち国家転覆を狙った重大な反逆罪だ」
ルクレツィアの脳内で、何かが音を立てて崩壊した。
彼女の知性が、瞬時にヴォルグの意図を理解してしまう。
生徒たちは、自分を犯した罪から逃れるため、あるいは王への忠誠を示すため、喜んで「ルクレツィアに誘惑された」という嘘の物語に加担したのだ。
そしてヴォルグは、その嘘を「公的な真実」として固定した。
彼女を被害者としてではなく、「教え子を毒した淫らな反逆者」として仕立て上げることで。
「……ああ……。あ、ああ……っ……」
「賢い貴様なら理解できるはずだ。この国において、貴様の言葉を信じる者は一人もいない。貴様は、我が軍の精鋭たちを堕落させた汚物だ。……死罪をもって償うのが妥当だろう」
死。
その言葉が突き刺さった瞬間、ルクレツィアの生存本能が激しく脈打った。
蹂躙され、尊厳を奪われてもなお、彼女は「消えること」を恐れた。その醜いまでの生への執着さえ、ヴォルグは見抜いていた。
「だが……。貴様のその腐った脳髄には、まだ使い道がある。……反逆者として首を吊るか。それとも、私の足元で『罪を贖う道具』として、その知性を捧げるか」
ヴォルグがゆっくりと立ち上がり、跪くルクレツィアの前に立った。
彼は彼女の髪を掴み、無理やり顔を上向かせる。
「今日から、貴様はルクレツィアではない。私の書記であり、私の影だ。……貴様の知性は、もはや真理を語るためのものではない。私の勝利のため、敵を欺き、友を裏切らせ、地獄を築くための『毒』となれ」
ルクレツィアの瞳から、最後の一滴の光が消えた。
自分が「被害者」ですらなくなったという究極の絶望。
自分が生きていくためには、自分を貶めた男たちの主に、より忠実な犬として仕えるしかないという残酷な矛盾。
「……はい……。わ……私は……大罪人です……」
彼女は、自らヴォルグのブーツに額を擦り付けた。
知性は、ついに完全に「剥奪」された。
かつて高潔だった外交官の魂は死に、そこに残ったのは、覇王の毒を煮詰めるための、精巧な人間機械だけであった。




