第二十二章『氷の接吻(三)』
首から下を凍らされた凛明と凰蘭の瞳は貝のように閉じられており、生死のほどは知れない。
「凛明姉さん‼︎ 凰蘭‼︎」
再び龍珠が叫ぶと、凛明と凰蘭はうっすらと眼を開けたが、口をパクパクとさせるばかりで声を発することは出来なかった。
「姉さん、凰蘭、どうしたんだ⁉︎」
「女が口を開くと煩くて敵わんからな。啞穴(声を封じる経穴)を突いている」
冷ややかに言う玄舟を龍珠が睨みつける。
「姉さんたちの氷を解け!」
「駄目だな。この小娘は師門の恩を忘れワシを謀ろうとしたばかりか、玄武派の者どもを此処へ手引きしおった。師父として折檻せねばならん」
「————何が師父だ! 貴様は姉さんの家族を手に掛けただろう‼︎」
龍珠が激昂すると、玄舟は一瞬真顔になった。
「……フン、やはりこの女も記憶を取り戻していたか。……ところで、玄狼はどうした? 共に行動していたのではないのか?」
「……師兄は貴様の手に掛かることを望まず、誇りある死を選ばれた……!」
苦渋の表情で答える龍珠に対し、玄舟は吐き捨てるように口を開く。
「つまり、何も為せずに自決したということか。奴もただの役立たずだったな」
「…………ッ‼︎」
怒りで肩を震わせ、龍珠は玄舟に指を突き付けた。
「————貴様は黄家・凌家、玄狼師兄、そして姉さんの家族の仇だ! 俺が————」
突然、龍珠は言葉に詰まり、その場にひざまずいた。
「————龍珠! どうした⁉︎」
「…………‼︎」
正剛が慌てて声を掛けるが、龍珠は苦しそうに胸を押さえて何も答えない。その様子を眺めていた玄舟が口の端を大きく歪ませた。
「……フフ、『寒氷真氣』の発作が始まったか……!」
「発作だと⁉︎ まさか、このままだと玄貂のように……⁉︎」
「ほう……、玄貂の奴も発作で死んだのか? 惜しいことだ、この眼で奴が砕け散る様を見てみたかったがな……」
玄舟のこの言い様に、正剛は怒号を上げる。
「貴様は奴の師父なんだろう⁉︎ 何故そんな酷いことを言える⁉︎ 何故こんな酷い仕打ちが出来るんだ⁉︎」
「……小僧、貴様も玄貂を知っているなら分かるだろう。奴は人間のゴミ屑だ。師父として始末を着けてやったに過ぎん」
「貴様……‼︎」
眼を怒らせる正剛のそばで、龍珠は震える手で懐から『陽丹丸』を取り出した。
「龍珠、この丸薬は発作を抑えるものなんだな⁉︎ 待ってろ、いま飲ませて————」
正剛が陽丹丸を受け取った時、黒い影が眼の前を揺らめき、気付けば陽丹丸が手中から消え失せていた。
「あっ⁉︎」
「……これは返してもらうぞ」
声に振り向けば、元の位置に立つ玄舟の手に陽丹丸の袋が渡っていた。
「返せっ‼︎」
瞬時に槍を突き出した正剛だったが、穂先は固い感触に受け止められた。
「————凛明!」
正剛は驚愕の声を上げた。
いつの間に入れ替わったものか、槍は凛明の凍りついた身体で受け止められていたのである。泡を食った正剛が慌てて槍を引いたその時、背後から死人のように冷たい手がヒヤリと首筋に触れた。
「……貴様も氷人形にしてやろうか————‼︎」
「————‼︎」
玄舟の魔性の手が、一瞬で正剛の巨躯を氷漬けにしてしまった。龍珠はその様子を眼に収めていたものの、身体の芯から沸き起こる寒気に抗う術がない。
「さて……、煩い奴は片付いたな」
部屋の掃除を終えたような表情でつぶやいた後、何を思ったのか玄舟は凍り付いた凌家親娘を担ぎ上げた。
「……待て……、何処……へ、行く……⁉︎」
「力が戻った以上、こんな穴ぐらに潜んでいる必要はない。次はワシの『城』を取り戻す。貴様らはそのまま苦しんで氷塊と化すがいい……!」
玄舟は三人を担いだまま出口へと足を向けたが、何か思いついたように突然足を止めた。
「……クックック、慈悲深いワシが一つ機会をくれてやろう……」
振り返った玄舟は凶悪な笑みを浮かべて、凛明に歩み寄った。
「……何を、する……」
「黙っていろ」
龍珠には眼もくれず、玄舟は凛明を包む氷に手を触れた。ほどなくして凛明の身体を拘束していた氷が消え失せる。
「…………⁉︎」
啞穴を封じられ口を聞けない凛明は、眼で玄舟に問い掛けた。
「……玄豹、貴様の身体も発作が襲い、相当に苦しいはずだ。そうだろう……?」
「…………」
玄舟の言葉に凛明は眼を伏せて答えた。凛明の返事を確認した玄舟はニヤリと笑い、陽丹丸を一粒足元に転がした。
「貴様らに一粒だけ陽丹丸をくれてやる。どちらが飲むかは好きに決めろ。薬を飲んだ者は十日間だけは生き永らえることが出来るぞ……!」
『…………‼︎』
この世で最も残酷な選択を強いられた龍珠と凛明は思わず眼を見合わせた。互いの視線が交わり合い、様々な感情が溢れ出す。
「さあ、早く決めろ。グズグズしていると双方時間切れになってしまうぞ……⁉︎」
玄舟が茶々を入れた時、凛明が手を伸ばし陽丹丸を掴んだ。凛明は歪んだ笑みを浮かべると、陽丹丸を躊躇なく自らの口に含んでしまった。
その様子を眺めていた玄舟も負けじと顔を歪ませる。
「……ックハハハハハ……! そうだ、追い込まれれば本性を現す。それこそが人間よ……! 玄豹よ、残り十日の生をせいぜい貪るがいい……‼︎」
玄舟は満足げな笑みを残し、再び凰蘭たちを担いで出て行った。
————残された龍珠に去来するものは、発作の苦痛でも、死にゆく絶望でも、仇敵への憎悪でもなく、ただただ己が無力感だけだった。
(……俺はなんて間抜けなんだ……。おじさんたちや父さまを救うどころか、柳兄をも奴の餌食にしてしまった……)
心まで冷え切って来ると同時に身体の力がスウっと抜けてゆき、龍珠は仰向けに倒れ込んだ。
(……俺はもうすぐ、死ぬのか…………)
虚ろな眼で天井から垂れ下がる氷柱を眺めていると、その視界に痘痕顔の女が入ってきた。
(姉さん……、姉さんは十日だけでも生き延びられる……)
もはや声も発せられない龍珠が微笑むと、凛明も柔和な表情になった。
(姉さん……、俺のために悲しんではくれないのかい……?)
龍珠が悲しみで眼を伏せた時、血の気を失ったその唇に何かが触れた。
————それは、氷のように冷たい死の味であった。
次いで口中に丸い形の何かが移され、驚いた龍珠は思わずそれを飲み込んでしまった。
(————これは、まさか陽丹丸……⁉︎)
眼を見開いた龍珠の眼前には、ホッとしたように微笑む凛明の顔があった。その表情は最愛の弟を見守る姉のようでもあり、愛しい男を見つめる女のようでもある。
(姉さん、どうして俺に……⁉︎)
龍珠が眉根を寄せると、凛明はゆっくりと口を動かした。
———— あ な た は 生 き て …………。
声にならない声で言い残すと、凛明は龍珠の胸に崩れ落ちた。肌を通して伝わる体温が徐々に冷え切ってゆき、凛明の身体が凍り始める。
(どうしてなんだ、姉さん……! どうして……‼︎)
やがてピシピシとヒビが走る音が響き、数秒の後、玄貂が砕け散った時に聞いた音が再び龍珠の耳を打った。
(————凛明、姉さん……‼︎)
未だ声を発せず身体も動かせない龍珠に出来ることは、目一杯の涙を浮かべることだけであった————。
———— 第二十三章に続く ————




