第6話_その怪物はなぜ鵺と呼ばれたのか
白い楔は、まだ生きている。
なのに、刺した相手だけが消えた。
セリカ・ランバートは追跡ログを巻き戻した。
雨の旧搬送ヤードを駆ける、六メートル級の水鳥型。白灰色の巨体が、乳白色の保護嚢を翼袖で覆っている。膜の奥には、救助対象の人影があった。
採光窓へ飛び込んだ瞬間、白帯は枠へ食い込み、大半が千切れた。
それでも、先端から変じた追跡用の楔は、翼の付け根へ残っている。
破断反応なし。
解除記録なし。
直後、白い座標だけがくすんだ薔薇色に包まれ、眠るように応答を止めた。
「同じところを三回見ても、映像から答えは増えないわよ」
解析卓の向こうで、ヘイズ・オルブライトが投影画面を止めた。
「確認できていない箇所があります」
「四回目に自白を始める箇所?」
「追跡楔の帰還線です」
「なら、こっちを見なさい」
ヘイズが術式履歴を拡大する。
白い楔そのものは消えていない。
途切れたのは、白律系列へ座標を返す経路だけだった。
「壊されたんじゃない。寝かされてる」
「現場の薬液による干渉では」
「それなら試験棟の白律術式もまとめて眠るわ。こんなに器用に帰還線だけ潰れない」
口調は断定的だった。
けれど、現場映像、術式履歴、救護記録を繰る指は止まらない。
「それより、右手を出しなさい」
「職務に支障はありません」
「それは私が決めることよ」
セリカが黙って差し出した右手は、わずかに震えていた。
白帯を梁と大型個体へ同時展開した反動だ。装備は正常に動いた。だからこそ、セリカは自分の負荷を報告欄の後ろへ追いやっていた。
ヘイズは手首へ検査札を貼る。
「反省は五分で終わらせなさい。残りは装備側の問題として私に回す」
「捕捉できなかったのは、私の判断です」
「救助を優先したのも、あなたの判断よ。片方だけ自分の失敗にしないで」
解析室の扉が開いた。
査察章を付けた外套姿のまま、トール・グレイヴが入ってくる。裾にはまだ雨粒が残っていた。
「ボルツ・ナギ以下、運営員の身柄を確保。会場を閉鎖しました。積載者三名を含む被害者の移送も完了しています」
簡潔な報告だった。
今夜、あの倉庫で次の誰かが見世物にされることはない。
それだけは、終わった。
「ユナ・ケイルの救護記録を確認してください」
トールが端末を置く。
ヘイズが記録を中央へ引き出した。
投与具には、カゲイロジャッカル因子の使用履歴が残っている。現場映像でも、黒灰色の体毛、耳、肥厚した爪が確認されていた。
だが、夜蘭の救護班へ引き継がれた時点で、外来因子反応はほとんど消えている。
「浄化術式の使用記録はありません」
「自然排出?」
「この速度では、ちょっと考えにくいわね」
ヘイズが反応濃度の曲線を押し広げた。
「宿主側の因子値は落ちていない。消えたのは、外から投与された反応だけ」
「宿主への損傷は」
「現時点では確認されていない。むしろ汚染値は改善してる」
セリカの脳裏に、乳白色の膜越しに見えた人影が浮かんだ。
大型個体は、ユナを胸部器官へ収めていた。
だが、咬傷も圧迫傷も残っていない。薬液が降れば翼袖で覆い、梁が落ちれば自分の肩で受けた。
そして救護班へ渡される前に、外来因子だけが消えている。
関連は、まだ証明できない。
「大型個体が、外来因子の除去に関与した可能性があります」
セリカが言うと、トールはうなずいた。
「可能性として記録します。保護行動も、同様に」
「即時浄化指定は?」
「見送ります」
セリカの息が、ほんの少しだけ緩んだ。
トールはそれを見ても、言葉を止めなかった。
「ただし、未登録の高危険度個体を放置はできません。次回接触時は、交渉を優先した上で生体捕捉へ移行します」
「知性と敵性は同義ではありません」
「同意します。だから、敵と決める前に止めて確認する」
言っていることは正しい。
話が通じるうちに止め、損なわずに正体を確かめる。
その正しさを実行する中心に、自分が立つことまで、トールは疑っていなかった。
「次回も、私が現場対応を行います」
「ええ。次回からは、私も指揮系統に入ります」
「監視ですか」
「支援です。市民救助と対象捕捉を、今度は両方成功させる」
市民を守る意思も、自分なら両立できるという自負も、演技には見えなかった。
「現場のセリカを外して、捕捉計画を作らないでよ」
ヘイズが検査札を剥がしながら割って入った。
「現場に近すぎる判断は、精度を落とす場合があります」
「机から遠すぎる判断もね」
「だから現場を確認してきました」
「そういうところよ」
ヘイズは呆れたように息を吐き、五つの映像を開いた。
角を下げ、暴走者の突進を受け止める甲虫。
逃走者と証拠端末を同時に絡め取る触腕。
白灯へ引かれながら、地下搬送口を暴いた羽虫。
高架を跳び、落下した護送員を拾った跳躍獣。
そして、ユナを胸に包んだ巨大水鳥。
姿も、大きさも、能力も揃わない。
「同一個体と判断する根拠はありません」
セリカは事実として答えた。
「ええ。同じ個体かは分からない」
ヘイズは即座に認めた。
その上で、五つの映像を重ねる。
「でも、同じ基盤よ」
角の根元。
触腕の付け根。
羽虫の首元と腰。
獣毛の下。
水鳥の翼に残った白い楔の周囲。
どの身体にも、くすんだ薔薇色が走っている。
主張しすぎない、縫い目のような接続痕。
「同じ機構か、同型の中枢を共有している。少なくとも、無関係な五種が偶然同じ縫い方をしてる可能性よりは高いわ」
「根拠は、その縫合痕だけですか」
「いいえ。判断の順序もよ」
ヘイズが映像を切り替える。
どの個体も、敵より先に被害者を見る。
最短の逃走路より、避難導線を空ける。
攻撃できる場面でも、殺傷より拘束を選ぶ。
「姿は違う。でも、助け方に同じ癖がある」
同一個体か。
同じ仕組みで作られた集団か。
まだ、どちらとも決められない。
「共通の仮称が必要です」
トールが言った。
ヘイズは新しい分類欄を開き、五つの記録を並べる。
「角も、触腕も、翅も、獣脚も、水鳥の嘴も持ってる。正体不明で、見るたび姿が違う」
少し考え、古い怪異分類から一語を引き出した。
「――《鵺》でどう?」
「仮称として登録してください」
トールの承認印が落ちた。
甲虫。
触腕。
羽虫。
跳躍獣。
巨大水鳥。
五つの救助記録と、五つの警戒記録が、一つの名前の下へ束ねられていく。
仮称:鵺。
「白律魔杖」
職名で呼ばれ、セリカは背筋を伸ばした。
「呼びかけを優先。応答なし、または民間人に差し迫った危険がある場合に限り、停止術式を使用してください」
「承知しました」
「捕捉後は、敵性を前提とせず保護・聴取へ移行します」
「はい」
セリカは報告書の最後に残った空欄へ、一文を加えた。
――対象による複数の救助行動を確認。
トールは削除も修正も求めなかった。
「その記録は残してください」
「捕捉するにしても、相手がこちらの呼びかけを聞く理由が必要です」
「同感です」
入力を確定する。
端末へ、新しい任務が表示された。
【仮称:鵺――次回出現時、交渉および生体捕捉】
次にどの姿で現れるのかは、分からない。
ただ、どこに現れるのかなら、セリカにも想像できた。
誰かが、助けを必要とする場所だ。
次にあの怪物が誰かを救いに現れた時。
セリカは、救助した事実を認めたまま、その救助者を捕らえなければならない。




