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大家さん、その部屋だけは笑わせないでください  作者: あーちゃん


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家賃三万円の罠

静かに暮らしたいだけだった。

誰にも邪魔されず、小説を書いて、ひっそり生きていくはずだった。

けれど、三栗野こまちが見つけた家賃三万円のアパートには、人生を少しだけ騒がしくする人たちが住んでいた。

 三栗野こまちは、人生で初めて「家賃三万円」という文字を見た瞬間、まず疑った。


 事故物件かもしれない。

 夜中に天井から知らない手が生えてくるのかもしれない。

 あるいは、風呂なしトイレ共同どころか、部屋そのものが存在しないのかもしれない。


 スマホの画面に表示された物件情報を見つめながら、こまちは眉間にしわを寄せた。


 築年数、かなり古め。

 駅から徒歩、少し遠め。

 日当たり、まあまあ。

 近隣環境、静か。

 家賃、三万円。


「近隣環境、静か……」


 こまちは、その一文に心を奪われた。


 静か。

 なんて素晴らしい言葉だろう。


 こまちは売れない小説家だった。

 いや、小説家と名乗るのも少し気が引ける。投稿サイトに小説を載せ、たまに短編コンテストに応募し、落選メールを見るたびに「今回は審査員と相性が悪かっただけ」と自分を慰める日々を送っていた。


 収入は、アルバイトと少しの在宅仕事。

 夢は、小説で暮らすこと。

 現実は、スーパーの見切り品コーナーで半額シールが貼られる瞬間を待つこと。


 そんな生活をしていたこまちにとって、家賃三万円は救いの光だった。


 ただし、救いの光というものは、時々落とし穴の入り口を照らしている。


 翌日、こまちは不動産屋に案内され、問題のアパートへ向かった。


「こちらです」


 若い不動産屋の男性が、妙に明るい声で言った。


 細い路地の奥。

 少し傾いているようにも見える二階建ての木造アパート。

 入口には、手書きの看板がかかっていた。


『笑福荘』


 こまちは足を止めた。


「……笑福荘」


「はい。いい名前ですよね」


「名前だけで圧が強いですね」


「そうですか?」


「笑え。福を呼べ。みたいな圧を感じます」


 不動産屋は困ったように笑った。


「住人さんは皆さん、明るい方ばかりですよ」


 その説明で、こまちの警戒心はさらに強くなった。


 明るい方ばかり。

 それは、静かに暮らしたい人間にとって、事故物件より恐ろしい場合がある。


 こまちは、人付き合いが得意ではなかった。

 嫌いというわけではない。ただ、長く誰かといると疲れてしまう。相手の表情、声の調子、言葉の裏側、空気の重さ。そういうものを勝手に拾いすぎてしまう。


 だから、できるだけ一人でいたかった。

 一人でいれば傷つかない。

 一人でいれば、期待されない。

 一人でいれば、落選メールを見たあとに泣きそうになっても、誰にも気づかれない。


「本当に静かなんですよね?」


 こまちが念を押すと、不動産屋は一瞬だけ目を泳がせた。


「建物自体は静かです」


「建物自体は?」


「はい」


「住人は?」


「個性的です」


「今すぐ帰りたいです」


 そう言いながらも、こまちは帰らなかった。


 なぜなら、家賃三万円だったからである。


 お金は、人の警戒心を少しずつ削る。

 生活費という名の現実は、疑い深い心すら押し流していく。


 こまちは契約書にサインをし、数日後、最低限の荷物を持って笑福荘へ引っ越してきた。


 引っ越し当日。

 空はよく晴れていた。

 こまちの気分は、曇りのち不安だった。


 段ボール箱を抱えてアパートの前に立つと、看板の「笑」の字が以前より大きく見えた。気のせいだと思いたかったが、どう見ても大きい。


「ようこそ!」


 突然、背後から大きな声がした。


「ひゃっ」


 こまちは情けない声を出して振り返った。


 そこに立っていたのは、割烹着姿の女性だった。

 年齢は五十代くらい。丸い顔に、よく笑う目。髪は後ろでひとつにまとめられている。手にはなぜか大根を持っていた。


「新しい人ね?」


「あ、はい。三栗野こまちです」


「大家の福良だんごです」


「だんご……さん?」


「本名よ」


「本名なんですか」


「ええ。初対面の人はだいたい二回聞き返すわ」


 こまちはもう一度聞き返したい気持ちを必死にこらえた。


 大家は福良だんご。

 アパートは笑福荘。

 手には大根。


 情報量が多すぎる。


「引っ越し祝いに、これあげる」


 だんごは、こまちに大根を差し出した。


「ありがとうございます。でも、なぜ大根を?」


「そこにあったから」


「理由が強いですね」


「大根は便利よ。煮ても焼いてもおろしてもいい。人間もそう。どう生きたって、味が出ればいいの」


「急に深いこと言いますね」


「まあ今のは思いつきだけど」


「返してください、感動を」


 だんごは豪快に笑った。


 その笑い声は、アパートの古い壁に跳ね返り、路地の奥まで響いた。

 こまちは思った。


 近隣環境、静か。

 あれは嘘かもしれない。


「部屋は二階の角部屋ね。階段、少し鳴るけど気にしないで」


「少しなら大丈夫です」


 こまちは荷物を抱えて階段を上った。


 一段目、ぎし。

 二段目、ぎし。

 三段目、ぎし。

 四段目、ぐえっ。


 こまちは止まった。


「今、階段が変な声を出しました」


 下からだんごが言う。


「そこは五郎って呼んでるの」


「階段に名前をつけないでください」


「長年いると家族みたいなものよ」


「五郎さん、かなり苦しそうでしたけど」


「最近、腰が痛いみたい」


「階段に腰はありません」


 二階の廊下も、なかなか年季が入っていた。

 床板は少し沈む。

 壁には小さな傷がいくつもある。

 けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。


 こまちの部屋は、二階の一番奥だった。

 六畳一間。

 小さな台所。

 押し入れ。

 古い窓。

 景色は、隣の家の壁。


「……まあ、悪くない」


 こまちは荷物を置き、窓を開けた。

 風が入ってきた。ほんの少し、味噌汁の匂いがした。


 どこかの家の夕飯だろうか。

 そう思った瞬間、壁の向こうから低い声がした。


「味噌汁、いる?」


 こまちは固まった。


 ゆっくり壁を見る。


「……どなたですか」


「隣の尾花ちくわ」


 こまちは目を閉じた。


 大家がだんご。

 隣人がちくわ。


 ここは本当にアパートなのか。

 練り物と和菓子の共同生活所ではないのか。


「引っ越しの日は、味噌汁を飲むといい」


「いえ、大丈夫です」


「具は豆腐」


「大丈夫です」


「わかめもある」


「……少しだけ」


 負けた。


 数分後、こまちの部屋の前に小さな鍋が置かれていた。

 中には、湯気の立つ味噌汁が入っていた。


 こまちはお椀によそい、一口飲んだ。


「……おいしい」


 思わず声が漏れた。


 悔しいほどおいしかった。

 だしがきいていて、豆腐はやわらかく、わかめはちょうどいい歯ごたえだった。

 引っ越しの疲れで固まっていた体が、じわじわほどけていく。


 こまちは鍋を返しに行こうと廊下へ出た。


 すると、廊下にはなぜか住人たちが集まっていた。


「新入りさん歓迎会をします!」


 大家のだんごが、両手を広げて言った。


「今からですか?」


「今からよ」


「私、荷ほどきが」


「荷ほどきは逃げないわ」


「私の体力は逃げます」


「大丈夫。座ってるだけでいいから」


 こまちの「嫌です」は、誰にも届かなかった。


 歓迎会は、共同の洗濯機前で行われた。

 なぜ洗濯機前なのか。

 こまちが尋ねると、だんごは当然のように答えた。


「ここが一番広いから」


 広いと言っても、三人座ればいっぱいだった。

 しかし住人たちは慣れているのか、器用に段ボール箱をテーブル代わりにし、せんべい、漬物、大根の煮物、大根サラダ、大根の皮のきんぴらを並べていった。


「大根、多くないですか」


「今日、大根が安かったのよ」


 だんごが胸を張る。


「私は八戸ぽん太です」


 一階の住人らしい若い男が、妙に誇らしげに名乗った。

 丸眼鏡をかけ、首から電卓を下げている。


「節約研究家をしています」


「ご職業は?」


「無職です」


「節約以前の問題では?」


「鋭いですね」


 ぽん太は感心したようにうなずいた。


 続いて、元気のいい女性が手を上げた。


「紙屋すずめです! 配達員やってます! この町の道ならだいたい分かります!」


「頼もしいですね」


「ただ、たまに荷物を間違えます!」


「頼もしくないですね」


「でも取り戻すのは早いです!」


「まず間違えないでください」


 最後に、隣人の尾花ちくわが静かに頭を下げた。

 無口そうな男性だった。年齢は三十代半ばくらい。表情はあまり変わらないが、目つきは怖くない。


「味噌汁、どうだった」


「おいしかったです」


「よかった」


 それだけ言うと、ちくわは黙った。


 こまちは思った。

 この人が一番まともかもしれない。


 だが、その考えはすぐに消えた。


 ちくわは自分の鞄から、味噌を三種類取り出して並べ始めた。


「今日は味噌の違いを説明する」


「歓迎会ですよね?」


「味噌は歓迎に向いている」


「向き不向きの問題なんですか」


 住人たちは笑った。


 こまちは笑わなかった。

 笑わないようにした。

 ここで笑ったら負けだと思った。


「こまちさんは何のお仕事?」


 すずめが聞いた。


「小説を書いています」


 言った瞬間、全員の目が輝いた。


 しまった。

 こまちは心の中で後悔した。


「小説家!」


「すごい!」


「私たちを書いて!」


「やめてください。濃すぎます」


 だんごが嬉しそうに身を乗り出す。


「いいじゃない。濃い人生は煮物に向いてる」


「人生を煮物にしないでください」


「タイトルはどう? 『大根と暮らす女』」


「嫌です」


「じゃあ『階段五郎の初恋』」


「階段を恋愛させないでください」


 ぽん太が真剣な顔で言う。


「僕を主人公にするなら、節約で世界を救う話にしてください」


「たぶん三ページで破産します」


「厳しい」


 すずめは手を叩いた。


「私は恋愛担当がいいです!」


「誤配達しそうですね」


「恋も荷物も、届けばいいんです!」


「名言っぽく言わないでください」


 ちくわは静かに言った。


「俺は味噌汁でいい」


「人間として出てください」


 笑い声が重なった。


 こまちは、少しだけ肩の力が抜けた。


 変な人たちだ。

 距離感がおかしい。

 初対面なのに遠慮がない。

 静かに暮らしたい自分とは、絶対に合わない。


 そう思っているのに、なぜか嫌ではなかった。


 歓迎会が終わった頃、外はすっかり暗くなっていた。

 こまちは自分の部屋に戻り、段ボール箱の山を見つめた。


 疲れた。

 とても疲れた。


 でも、不思議と寂しくはなかった。


 今まで引っ越しの日は、いつも一人だった。

 荷物をほどきながら、自分がどこにも属していないような気持ちになった。

 部屋は自分のものなのに、世界から少し浮いているようだった。


 けれど今日は違った。


 大根をもらった。

 味噌汁を飲んだ。

 よく分からない歓迎会に参加した。

 階段には五郎という名前がついていた。


 意味が分からない。

 けれど、忘れられない一日だった。


 こまちは机を出し、ノートパソコンを置いた。


 本当は今日は疲れているから、書かないつもりだった。

 でも、なぜか指が動いた。


 家賃三万円の古いアパート。

 大根を持った大家。

 味噌汁をくれる隣人。

 節約に失敗しそうな無職。

 秘密を守れなさそうな配達員。


 書き始めると、言葉が止まらなかった。


 こまちは久しぶりに、画面の前で笑った。


「……近隣環境、静かではないな」


 ぽつりとつぶやく。


 その時、廊下の向こうからだんごの声がした。


「明日の朝、生きてるか確認するからねー!」


「しなくていいです!」


「遠慮しないでー!」


「遠慮じゃないです!」


 こまちはため息をついた。


 そして、また少し笑った。


 笑福荘での生活は、どうやら静かにはならなそうだった。


 けれど、その騒がしさが、ほんの少しだけ。

 本当にほんの少しだけ。


 こまちの心の隙間に、温かく入り込んできた。

こまちの静かな新生活は、初日から見事に崩れました。

大家のだんご、隣人のちくわ、節約家のぽん太、配達員のすずめ。

笑福荘の住人たちとの出会いが、こまちの毎日を少しずつ変えていきます。

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