20話 遅れてきた涙
丘の上は、静かだった。
風は吹いているはずなのに、何も届かない。
音も、匂いも、温度も——全部、遠く感じた。
世界だけがそこにあって、
自分だけが外れてしまったみたいだった。
コトリは、壊れた里をぼんやりと見下ろしながら、ただ座っていた。
煙が上がり、村には火がまだ残っている。
でも、それが“自分のいた場所”だという実感だけが、なかった。
「……お母さん」
呼んでみても、何も返ってこない。
あや婆も。
お父さんも。
誰も。
胸の奥は、空っぽだった。
悲しいはずなのに。
つらいはずなのに。
——何も、動かない。
涙も出ない。
心が、追いついていなかった。
その時。
背後で、重い足音がした。
引きずるような音。
遅れて、近づいてくる。
コトリは、ゆっくり振り返る。
そこにいたのは——
「……ライ」
少年の姿のライだった。
服は裂け、体には無数の傷。
血も、乾ききっていない。
それでも。
ここまで来たのだと、すぐに分かった。
「……よぉ」
短い声。
いつもと同じ調子。
でも、少しだけ掠れていた。
コトリは、その姿を見ても——泣けなかった。
ただ、ひとつだけ。
「……お父さんは」
問いが落ちる。
感情は乗っていない。
確認みたいに。
ライは、すぐには答えなかった。
一瞬だけ、迷う。
でも——目を逸らさず答える。
「……いない」
はっきりと言う。
「もう、いない」
風の音だけが、遠くを抜けた。
その言葉が、静かに落ちる。
胸の奥に。
深く。
沈む。
「……そっか」
コトリは、小さく呟いた。
それだけだった。
崩れない。
泣けない。
ただ、少しだけ呼吸が浅くなる。
「……やだよ」
声が、かすれる。
「こんなに一気に……」
言葉が続かない。
息が詰まる。
「いろんなこと、起きて……」
「……私、耐えられないよ」
小さく。
壊れそうな声で。
それでも、泣けない。
「……まだ」
視線が落ちる。
「一緒に、いたかった」
「召喚のことも……」
「戦い方も……」
「……ちゃんと、教えてほしかった」
言葉が乱れる。
でも、涙は出ない。
「……そんなに、強くないよ」
ぽつりと。
本音がこぼれる。
ライは、それを黙って聞いていた。
そして——
ほんの少しだけ、間を置く。
言葉を選ぶように。
静かに、息を吐いてから。
「……約束なんだ」
低く、落とす。
コトリが、ゆっくり顔を上げる。
「生まれた日」
「お前が、生まれた日」
「みんなで決めた」
ライの声は、淡々としていた。
「コトリを守るって」
「全員で」
あや婆も。
猫も。
サトリも。
ライも。
あの家にいた全員が。
「……守るって、決めたんだ」
一瞬の沈黙。
そして——
「……守れてないじゃん」
コトリの声が、変わる。
強く。
ぶつけるように。
「お父さんも」
「お母さんも」
「あや婆も」
「みんな、いなくなったじゃん!」
拳が震える。
それでも、涙は出ない。
「私の前から、いなくなったじゃん……!」
ライは、一歩だけ近づく。
そして。
コトリの手を、掴んだ。
強く。
逃がさないように。
「……違う」
短く言う。
その一言で、空気が止まる。
「……守ってる」
真っ直ぐに。
押し込むように。
「ちゃんと、守ってる」
一拍。
さらに、言葉を重ねる。
「今もだ」
視線を外さない。
「……よく思い出せ」
その言葉が、突き刺さる。
コトリの視界が、揺れる。
次の瞬間——
思い出が、流れ込む。
あや婆の最後。
母の最後。
そして、背中を押した父。
——逃げろ
あの声。
あの瞬間。
それと——
優しく、静かに。
耳の奥に残っている声。
——いつも、見てるからね
あの時のままの声。
あの時のままの温度で。
今も、そこにあるみたいに。
「……あ」
息が止まる。
全部。
全部、自分のためだった。
守られていた。
確かに。
ずっと。
その中で。
ひとつだけ、欠けている。
「……お父さん」
ぽつりと。
「最後……何か言ってた?」
ライが、少しだけ目を伏せる。
そして。
「……言ってた」
ゆっくりと。
「お父さんとお母さんを」
一拍。
「お父さんとお母さんにしてくれて、ありがとうって」
その言葉が落ちた瞬間——
コトリの中で、何かが壊れた。
「……ずるいよ」
小さく。
震える声。
喉が、ひどく痛かった。
息を吸うたびに、胸の奥が裂けそうだった。
「そんなの……」
記憶が、溢れる。
笑った日。
怒られた日。
撫でてくれた手。
全部。
「……まだ、一緒にいたかったよ……」
声が崩れる。
呼吸が乱れる。
「なんで……」
「なんで……っ」
そこで、ようやく——
涙が、溢れた。
堰を切ったみたいに。
止まらない。
嗚咽が混ざる。
全部が、遅れて押し寄せる。
ライにしがみつく。
「やだ……っ」
「やだよ……!」
「いなくならないでよ……!」
声が、震える。
崩れる。
ようやく、泣けた。
どれだけ泣いたのか、分からない。
それでも、少しずつ。
呼吸が戻る。
嗚咽が落ち着いていく。
その中で。
コトリが、小さく呟いた。
「……私も」
一拍。
「お父さんとお母さんの子供で、よかった」
小さく。
本当に小さく。
でも、確かに。
その言葉が、残った。
コトリの呼吸が、少しずつ整っていく。
涙は、まだ止まらない。
それでも——
確かに、前を向いていた。
その時。
風が、止まる。
虫の音が、消える。
空気が、ひとつ沈む。
何かが——変わる。
音が、わずかに遅れる。
葉が揺れるより先に、影が動く。
噛み合っていない。
世界が、少しだけずれている。
「……?」
コトリが、顔を上げる。
でも——
何もいない。
ただ。
“何かが来ている”という感覚だけが残る。
逃げ場のない。
視線みたいなものが。
ずっと、そこにある。
まるで——
こちらが泣き終わるのを、待っていたみたいに。
続きが気になったら、ブクマで追ってもらえると嬉しいです。




