第26話「立ち位置」
東京 2023年2月
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1. パンフレットの誤植
「舞さん、ちょっとこれ見てもらえますか」
真由美が、刷り上がったばかりのパンフレットの見本を差し出した。表紙をめくると、出演者一覧のページが開かれている。
「公募のみなさんのお名前、48人分載せてるんですけど……三名、字が違ってて」
指差された箇所を見ると、「渡辺」が「渡邊」に、「斉藤」が「斎藤」になっていた。もう一件は、単純な変換ミスだった。
「これ、校了前に確認したはずじゃ……」
「したんです。でも、印刷所側の最終データで、なぜか戻っちゃってて」
デザイナーとのやり取りログを遡ると、修正指示が反映される直前のバージョンが、そのまま入稿されていた。誰か一人のミスというより、確認工程の隙間に落ちた、という感じだった。
「刷り直し、間に合う?」
「本番まで、あと十日。印刷所に無理言えば、ぎりぎり」
追加費用は、当初の見積もりから五万円ほど膨らんだ。健一さんは渋い顔をしたが、「お客さんに配るものだから」と、刷り直しを即決した。
名前を間違えられた三人には、健一さんが直接電話で謝った。三人とも、思いのほかあっさり「気にしないでください」と言ってくれたのが、逆に申し訳なかった。
2. 立ち位置
パンフレットの騒動が落ち着いた矢先、別の火種が持ち上がった。
「あの、ちょっといいですか」
稽古の終わり際、直美という公募組の女性が、真剣な顔で近づいてきた。三十代後半、身長は公募組の中でも高い方だった。
「私、ずっと後列なんですけど。前列の人たちと、そんなに技術差、あります?」
「直美さん……」
「悪気で言ってるんじゃないんです。でも、頑張ってきたつもりだし、なんで自分だけ、って気持ちになっちゃって」
正直に言えば、技術差はほとんどなかった。彼女は真面目に練習を重ね、この二ヶ月で見違えるほど上達していた。
「立ち位置は、身長順とラインの見え方で決めてるんです」
イリーナが、隊列図を広げながら説明した。
「白鳥の群舞は、後列ほど背が高い方が、舞台から見たときのシルエットが綺麗に重なる。技術の優劣じゃなくて、視覚的なバランスの問題」
「頭では、分かってるつもりです」
直美の声が、少し震えていた。
「でも、家族に『どこにいるか教えて』って聞かれたとき、『後ろの方だから、たぶん見えないと思う』って答えるの、正直、悔しくて」
その一言に、誰も、すぐには返せなかった。
3. 二回だからできること
「一つ、提案があるんですけど」
黙って話を聞いていた美咲が、手を挙げた。
「うちら、昼夜二回公演じゃないですか。だったら、立ち位置、昼と夜で入れ替えるっていうのは、どうですか」
「入れ替え?」
「身長のバランスが崩れない範囲で、でいいので。昼は今の並びで、夜は後列と前列、部分的にシャッフルする。そうすれば、みんな最低一回は、家族に見える場所に立てる」
イリーナが、しばらく隊列図を見つめていた。
「……悪くない。バランスを崩さない組み合わせを、二パターン作ればいい」
「私からも、いいですか」
直美が、小さく手を挙げた。
「無理に前に出たいわけじゃないんです。ただ、頑張った分だけ、誰かに見てもらえる瞬間が欲しかっただけで」
「うん。それで、十分だと思う」
私はそう言った。
翌日、イリーナが二パターン目の隊列図を仕上げてきた。夜公演では、直美を含む数人が、前列側に配置されることになった。
4. 通し稽古、その先へ
本番まで一週間を切った頃には、隊列も、二パターンの入れ替えも、驚くほど滑らかに動くようになっていた。
「揃ってきたね」
拓也が、汗を拭いながら言った。
「班分けから始めて、立ち位置で揉めて、それでも、ちゃんとここまで来た」
「みんな、意地の張り合いだったもんね」
美咲が笑う。その笑顔に、もう、あの経費の話をしていた頃の刺々しさはなかった。
健一さんが、隊列全体を見渡しながら、小さく頷いていた。
「あとは、本番だけだ」
その言葉に、スタジオの空気が、少しだけ張り詰めた。楽しさと緊張が、同じ場所に同居していた。
5. アーニャの、今
その夜、アーニャから久しぶりに長いメッセージが届いた。
「今、避難してる街の集会所で、子どもたちにバレエ教えてる」
「教えてる、って……アーニャが?」
「うん。避難してきた子、地元の子、いろいろ混ざってる。バーもないから、椅子の背を使ってる。ポワントなんて、もちろんない。でも、みんな真剣に、一番と二番を練習してる」
「それって……」
「私の居場所、見つけた気がする。キーウの劇場には戻れないかもしれないけど、ここにも、私を必要としてる子たちがいる」
読みながら、胸の奥が熱くなった。
「舞たちの話、聞いて思ったよ。立ち位置がどうとか、パンフの名前がどうとか、こっちからしたら、羨ましいくらいの悩みだって」
「贅沢な悩みだって、また言われた」
「うん、でも」
続けて、三通目が届いた。
「贅沢でも切実でも、悩みは悩み。それに、誰かが見てくれる場所を探すのって、私が今やってることと、そんなに変わらない気がする」
その言葉が、直美の「見てもらえる瞬間が欲しかった」という声と、静かに重なった。
6. それぞれの場所で
本番まで、あと少し。
パンフレットは刷り直され、48人の立ち位置は、昼と夜で違う顔を見せることになった。誰もが、少なくとも一度は、自分の場所を、誰かに見てもらえる。
そしてキーウから離れた小さな集会所でも、アーニャが、椅子の背にすがって二番のポジションを練習する子どもたちの前に立っている。
立ち位置は、人それぞれ違う。舞台の上でも、舞台の外でも。
それでも、誰もが、自分の場所を見つけようとしている。
その事実だけで、離れた場所にいる私たちが、まだ同じ湖の上にいるのだと、信じられる気がした。




