第二章50 荒野の果てに
歓楽街の夜天の中に、異質の闇がある。人の欲望によって染め上がった闇だ。
日常では埋められない不満の穴を塞いでくれる、身体と心の解放を求めて生み出された闇だ。
だからこそ、闇は、夜の中でもあざやかなネオンみたいに煌めいて見える。あるものは人の耳目をこれでもかと惹き付け、またあるものは孤独を包み込むような優しい光を放っているかのように。
人は自らが満たされることを望んでいる。
己が満たされるためならば、どんな闇をも容認し、ともすれば進んで自らを差し出す。
たとえそれが、燦然と瞬く星明かりさえ歪める、おぞましい闇だとしても。後戻りが出来ない深遠に墜ちることになるとしても。
人の内面のもっとも深いところより生じる原始的な欲望に抗えない。
時として、そうした強い欲求は同じシグナルを発しているタイプを引き寄せる作用がある。類は友を呼ぶというやつだ。
たとえばそう、周囲から浮くに浮いて心に闇を抱いてしまった鼻つまみ者と、世間から異端視されている組織の信徒にして従僕。
稲木出と相羽、立場は違えど願っていることは似たようなもので、刻みつけられている傷も同じような類いのものだった。
ゆえに多くを語り合わずとも、醸している空気から互いの事情は察しがついた。
そこから通じ合うまでに時間は差して必要でなかった。
直ぐに互いを信頼した。まして疑ったりはしなかった。
もっとも、両者が相手の何を信頼しているかは、ともに別であったが――――
「先生ぇぇぇ、先生ぇぇぇ」
稲木出の声が、中途半端に明かりの灯った病室の中に反響した。
そこは雑居ビルがひしめく歓楽街の裏にある、闇医者が経営する病院の病室だった。
当然のことながら地図にも電話帳にも載っていない、事情が特殊な人間しか知らない秘密の場所で、片腕を犠牲にレナンから逃げ果せた相羽が真っ先に向かった先がここだった。
いまはもう治療も終わって、失った分の血も足して、顔色も負の気配も以前と遜色ないが、腕だけは一本足りていない。
「おい、喧しいぞっ」
相羽は、くたくたなシーツが敷かれたベッド代わりのソファーに大柄の体をずっしりと沈み込ませながら、到着も早々にわめき散らす稲木出を窘めた。
だが稲木出もよっぽど心を砕いていたのか、でもよぉお、と食い下がる。相羽がギッと睨みを利かせると、稲木出は親に怒られた子供のように眼をしかめて首を短くした。
その従順な態度を暫く眺めたあと、相羽は唐突に切り出した。
「稲木出、頼んでおいたことは済ませてあるな?」
「あ、アレのことだなああ! も、もちろんだぜえええ!」
パッと面を上げて、うんうんと全身で肯定する稲木出。
その反応に、相羽は生えている方の手で下顎をさすった。
腕の治療に専念しているあいだ、稲木出には幾つかの指示を下していたのだが、いまのオーバーな受け答えの感じからして、計画の遂行に問題は無さそうだと判断したのだった。
が、今度は稲木出が唐突に切り出した。
「それよりもよぉおお、聞いてくれよおおお! なんでか知らねえんだけどよおお! みんなが、また俺のこと忘れるんだよおおお!」
「…………」
「先生ぇぇええ! 治り始めてたんじゃなかったのかよおおおお!? どうなってんだよおお!? この前、封鎖区画で儀式をしなかったからなのかああ?!」
両手をわなわなと震わせ、相羽の顔を覗き込む稲木出。
油っぽい汗を浮かべ必死の表情で訴えるが、その熱とは打って変わって、相羽は暗い影の差した顔で冷たく、チッ、と舌打ちする。
同じ痛みを分かち合う相羽が、まさかそんな返しを自分にするはずがないと、稲木出はいまの一瞬のイメージを払拭すべく、頭を振って、がんぜない子供のように相羽の足に泣き付く。
「先生えええ!! 頼むよおおおお!! また俺を治してくれよおおお!! あん時みてえによおおお!! 助けてくれよおおお!!」
いまの稲木出がもつ、自分ではどうしようもない特殊な事情。
『誰の記憶からも消え、誰の記憶にも残らない』という、あるときから顕在化しはじめた謎の力。
稲木出自身、どうしてこんな力が発現したのか分からないし、検査でそうした兆候があったということもない。稲木出はそもそも、フラットなごく普通の人間――そのはずだった。
そんな稲木出が、はじめに異変を覚えたのは中学一年二学期、「お前誰だっけ」と周りから言われたことだった。少なくとも本人はそうと記憶している。
最初は、それを、からかわれているのかと思っていたが、担任の先生も、出欠確認で名前を読み飛ばした。それが毎日続いた。
三ヶ月後、稲木出は、ある一人を除き、クラスでは名前が分からない「誰か」という扱いになっていた。だが、たった一人だけが稲木出のことを覚えていた。稲木出にとっての唯一の友達だった。
しかし、その友達は、中学二年の夏休みのあと、事故で入院をしてしまった。なんでも大手術が必要な大けがを負ってしまったらしかった。
だが、どんな奇跡が起こったのか、友達は一ヶ月後くらいには退院。その一週間後には学級に復帰した。
稲木出は真っ先に駆け寄って「おかえり」と言った。友達は不思議そうな顔をした。稲木出は嫌な予感がした。その予感は当たっていた。
友達は、稲木出のことを忘れていた。
それからというのもの稲木出は荒れた。不良がやりそうなことは全部やったし、派手に暴れたりもした。衆目を集めるように目立つことばかりをした。
誰かの記憶に残りたかったから。
でも、誰一人として稲木出を記憶に留めることはなかった。
稲木出は失意に呑まれた。
自分だけが色を失って、透明になったみたいだった。
思い詰めた稲木出は、とうとう自棄になって、逆恨みの悪意を周囲に向けようと思い立って、対人制限をクラックした補助魔導機を手に街を彷徨っていた。誰でもいいから害したかった。
そんな時、誰かが話していた封鎖区画の噂が耳に入った。
封鎖区画の瘴気に触れ続けると、理性と引き換えに、『到達限界境界線』の向こう側に辿り着けるという、まともな人間なら「そんな馬鹿な」と一蹴するような小話だった。
けれど稲木出は食い入るように聞き入った。そして話が終わるや否や、暴発した銃弾のように街を飛び出し、封鎖区画に向かった。
雨の日も風の日も、足繁く封鎖区画に通った。通い詰めた。通い尽くした。
そんな日々を繰り返しているうちに、ふっと湧いて出る荒唐無稽な発想が、 『到達限界境界線』の向こう側を覗き見ているんだと思い込んで歓喜した。
稲木出は、瘴気の影響でますます気が狂っていた。
無論、本人はそんなことなど気づかず、神がのりうつった気分でいた。
そして、東烽高校に進学した直後、このタイミングで復讐すれば絶対に思い出すと閃いて、友達を襲った。懲りずに一日のうちに二度も。
結果は惨憺たるものだった。稲木出はどん底だった。足下の地面が抜けて真っ暗闇に落とされたような気分だった。
そんな寄る辺のなかった稲木出に手を差し伸べたのが、外でもない相羽だった。
相羽は御業と呼ばれる不思議な力で、稲木出に降りかかっている謎の力の影響を弱めた。
稲木出にとってそれは霊妙不可思議なことで、相羽は、まるで後光を背に荒れ野の果てに降臨した天の御使いだった。
相羽は「信徒になれば必ず治る」と言って、稲木出に自分の弟子にとなるよう託宣を告げた。
稲木出は従った。命令されれば何でもやった。亜人の捕獲だって嬉々として手を貸した。
もはや相羽の犬も同然だった。
そんな稲木出を、相羽は静かに見下ろす。
要らなくなったペットの廃棄方法でも考えているような、冷徹な目で。
だが稲木出は、そんなことなどつゆ知らず、すすり泣きながら相羽の足にしがみつく。盲目の人間が何かを頼りにするかのように。
「先生ぇぇえええ……先生ええええ……」
「…………」
「どうにかしてくれよおおおお……、俺いままで、いっぱい手伝ってきたじゃねえかよおおおお……。なんとかしてくれよおお、治るっていったから俺は信徒になったんだよおおおお」
相羽自身は稲木出を信用していたし、決して自分を裏切らないと確信していた。そして稲木出の異質な能力も使えると思った。だからこそ手駒に加えようと思った。カリスの古傷と奇跡の御業をダシに使ってでもだ。
しかし、結論から言えば、相羽が思ったほど使えなかった。異質な能力もそれほど役に立たなかった。
それでも稲木出が相羽にまったく完全に従順であれば、今後も配下に置いておく余地はあったが、大人しく従うどころか、相羽の足にからみついて、駄々っ子のように「どうにかしろ」とせがんでいる。
――このまま放っておいては作戦に障るか
主に対する要求を覚えたペットに対し、相羽の表情が、だんだんと顔の上から消えていく。
憤怒の象徴だった深いシワが肌の奥へと引っ込み、感情というものが読み取れなくなっていく。
やがて相羽は無表情になった。
「先生ぇぇ、…………え?」
何の反応も寄越さない相羽が何を思っているか分からず、稲木出はゆっくりと面を上げた。そこでようやく自分に向けられている感情のない顔に気がつき、思わず身を強張らせた。
稲木出は、一瞬、目の前の人物が誰であるか分からなかった。それほど、自分が知っている相羽とは違っていた。
目の前の相羽は、まるで別人だった。
「稲木出、治りたいか」
相羽の声と誰かの声が重って聞こえた。
安っぽいホラー映画の怪物のように、酷くピッチの外れた声だった。
稲木出は面を上げたまま、ごくりと固唾を呑む。その動きは、肯定の頷きにも似ていた。
「ならば、お前自身の中にある強い想いを、その数を増やし、私の信仰の御業で現実のものにしてみせよう」
「お、俺の中の、おお、想いを増やすうう? い、いったい、ど、どど、どういうことなんだあああ? 誰かに思考を植え付けるっていうのかああ?」
「いいや違う。お前一人でいいのだ稲木出よ。なぜならば、お前自身を触媒に、お前を増殖させるのだからな――――」
不気味な二重声が相羽の口から漏れた刹那、不可視の斬撃が、稲木出の身体に疾風の如く縦横無尽に走った。
何が起こったのか分からない表情の稲木出。その身体に走る無数の線から、プルタブを切った缶ジュースのように、プシュと赤い血が噴出する。
「あ、れ……先生……おおお、れ……」
稲木出が自分の両手に視線を向けると、指先が、手が、腕が、ボトボトと落下していくところが目に入った。
「あ、あ、あああ!!! ぎゃあああああ!!!」
目玉をひんむき、絶叫を上げる。
稲木出は、辛うじてくっついている首を動かし、相羽を見る。
その瞬間、身体にズンと振動が走り、世界がズルリと後ろ向きに滑った。相羽の足裏が腹にめり込んでいたのだ。
賽の目に切断された身体が、まるでところてんのように押し出されて、床の上にボトボトと転がっていく。
ほどなく、肉の塊と、赤黒い血だまりが出来上がって、そこから生臭いニオイが立ち上りはじめた。
「お前は一体何人になるかな、稲木出」
曖昧な二重声がクックックと嗤う。
相羽はソファから立ち上がり、手を空間に突っ込ませ、形状が判然としない不確かな杖を引き抜いた。
「使うのは久しぶりだな、【天のいと高きところには、神に栄光あれ】っ!」
杖の先端を、ブンと勢いよく足下の肉塊に振り下ろした途端、床一面に、ルーン文字が刻まれた黒い魔方陣が広がった。
すると、魔方陣の上で、均一サイズに分割された稲木出の肉の一片一片が黒く染まり、孵化する卵のように不規則に震えだした。
肉塊は、相羽の足下で生き物のようにグネグネと動き出し、ビシャッと黒い血を飛ばしながら、肉の壁面を突き破って小さな手足が生えた。そのうちに歪な口が出来て、手足の生えた黒い角肉同士が共食いをはじめた。
相羽はそれを、やはり表情のない顔で見下ろしている。
「始まったか」
手にした杖を方に担ぎなら、相羽はソファに腰を下ろす。
足下では、食らい付きながらも自身も食われている奇妙な角肉たちの狂喜乱舞する様が広がっている。
残り十体になったところで角肉たちはピタリと共食いを止めた。行為の最中に成長をしていたのか、全体を足すと明らかに元の質量を超えていた。
元は小さな角肉だった手足の生えた黒い塊は、液状生命のようにブニュブニュと形態を変化させ、ほどなく人型になった。肌は真っ黒だが、その全てが稲木出と分かる顔をしている。
「ほう十体――いや九体か」
相羽が口を開いた一弾指後、稲木出に擬態した一体の形状が崩れた。途端、残りの九体が、大きな口を開いて一斉に群がった。
どうやら捕食しているらしかった。そんな身の毛もよだつ捕食劇はほんの十数秒で終わった。
「クククク、好いものが見られたぞ。いまのお前は見込みがある。望み通り、私の力でお前を治してやろう。来るがいい」
九体の稲木出らしき黒い塊は、一斉に相羽の方を向き、静かに頷くのだった。




