第一章18 SEVEN DAYS『A』 ①
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久世家のリビングで何やら忙しそうにしているのは、燎祐の母、まゆりの育ての親である常陸寵看。
彼女は、故あって半シングルマザーを自称している。
半というのは、夫が殆ど家を留守にしているからで、未亡人では無い。
じゃあ件の夫は年間を通して何日帰ってきているかといったら、全部数えても片手で足りる程な空けっぷり。昨今では、子供たちからは「お父さんってどんなだっけ?」と言われる始末。
そう遠くない将来、リビングに飾った家族写真を見た子供たちの口から「誰この人?」と、後ろ指指されて言われるんじゃないかと考えると、寵看の口からはもう溜息しか出てこない。旦那はそれくらい帰ってこない。
「はぁ……仕事が大変だってのは私もわかってるんですけど……はぁ…………」
溜め息で始まって溜め息で終わる。
たった一人のリビングで、ようやく聞いた音が自分の溜め息というのも、なかなかどうして空しいものがあった。
テーブルの上には、今日引き受けた仕事の資料がとっちらかっていて、でも今ので急に滅入ってしまって、噸と片付ける気が失せてしまった。
寵看はまた溜め息をつく。
なんとなくテーブルの上のカップに手を伸ばして口に運んだものの、中身はとっくに空っぽで、厚手のコースターの上に乗ったティーポットはすっかり冷めていた。
――そういえば紅茶を淹れたのは二時間くらい前だった……
しかしまた沸かすのもなあ、と考えると溜め息しか出てこなかった。
「フツーこんなに帰ってこない仕事ってあるー? 船乗りじゃあるまいし……あ、いや船乗りよりも酷いわ…………」
常陸家をこういう状況と知ると、何となく程度の付き合いがあった知人たちは、顔を合わすたんびに口をそろえて「別居同然じゃん。アンタよくそんなのと一緒になったわね」と嫌みのように言ってきて、その頃はずいぶん参ったものだった。
けれど、今ではそれを口にしていた側が、不貞発覚の上の家庭内不和からの別居に離婚にエトセトラで自滅していったのだから目も当てられないし、寵看からは今更かける言葉も持たなかった。
そう考えると、我が家ってのは案外と安寧と平穏に包まれているのね、等と思えてくるわけで、しかしそんな寵看でも、最近「はて? 夫はどんな顔だったかしら?」と、いよいよアルツハイマーの足音が近づいてきた事に戦慄を禁じ得ないようである。そうやって人間、いつの間にか寄る年波に負け浸るのだ。
「人間ボケる時は、滑らかに行くんじゃなくて、ストンと階段を落ちるみたいにイッパツなんだってね…………」
つまりボケたこと自体、自覚できないということ。
寵看は、ああ怖い、と天井を仰いだ。
「もう名前も忘れちゃいそうだから、たまには帰ってきなさいよねー。ほんと」
無造作に口走ったものの、しょーもないメッセージだなあと感じていた。
していると、玄関の方で音がした。
リビングで一人、妄想の中で愚痴っていた寵看は、それが子供たちの帰宅だと直感したので、直ぐにご飯になるだろうからと、散らかしていたテーブルの上をいそいそと片付け始めた。
すると案の定、ドタドタ、とした足音が廊下からリビングまで伝ってきた。ガチャリ、とノブの回る音に先行して「おかえりー」と声を掛けると、まゆりを背負った燎祐が、いつになく真面目な顔つきをして入ってきた。
「どうしたのよアンタ」
「まゆりが学校で急に倒れたんだ……!!」
「!? 診せなさい!――――」
燎祐の肩越しに見えたまゆりの顔は苦悶に歪んでいてた。
寵看は燎祐からまゆりを奪うように胸に抱いて、ソファの上に寝かせた。
とてもぐったりしている。
寵看は直ぐに制服のボタンを外して胸元を緩め、まゆりの容体を診た。
苦しそうにしているが、脈が少し速いくらいで、他に異常は無かった。
それが却って異常だった。
燎祐は隣で心配そうな顔を覗かせたまま、寵看の一挙手一投足を食い入るように見つめ、石のように固まっている。
「母さん、まゆりは……!?」
「…………ヘーキよ。アンタが心配するこっちゃないわ。ま、お母さんに任せておきなさい」
よかった……、と安堵する燎祐を尻目に、寵看は重たいため息をついた。
つうっと汗が瞼の上から滑って、睫の上ではねた。一つの緊張がほどけて、ようやく自分が額に大粒の汗を浮かべていたのだと知った。
腕で額を拭ったら思っていたよりもずっと汗だくだったらしく、水っ気が尾を引いた。
それでやっと熱さを自覚して寵看は自分の胸元を緩めて、エアコンを回した。
リビングを冷たい空気がなで下ろし始める中、ソファで瞳を閉じるまゆりの顔を見て、寵看はあの時と同じだ、と感じた。
幼い顔に残る、不安と苦悶に憑かれた色が、そう錯覚させた。
寵看はまゆりを部屋まで抱えて上がった。燎祐が代わろうとしていたけれど、着替えさせるからと言って黙らせた。それからベッドに寝かせて、足取り重くリビングへ戻った。
リビングで一人待っていた燎祐は沈痛な面持ちで、寵看の顔を見た。
何か言うのだろうと思って、寵看は黙っていた。
そこで事の経緯を洗いざらい聞いた。
それでご飯にしようかと思ったら、寵看の愛しい愚息は「今から修行の為に七日間学校を休む」という何とも馬鹿げた話を大真面目にしてきたので、夕飯をしこたま食わせた上で、たんまりとゲンコツも食らわせながら承諾をしてやった。
「そう。アンタがそんなに言うんだったら止めても無駄ね。今回は黙って行かせてあげるわ」
「アッハイ」
白眼を剥いた燎祐がのそっと席を立ち、頭に十段アイスクリーム顔負けのタンコブをこさえたまま、そそくさと隣家に引き上げていった。
寵看はテーブルを片付けながら一人ため息をついた。
それから三十分と経たぬうちに荷物をまとめた燎祐が入ってきて、あっさりと出立の挨拶をしてリビングを去って行った。
取り残されたリビングで寵看は肩を落とした。
「はぁ~~、この家の男どもはすーぐどっかに行くんだから……。これもお父さんの影響なのかしらねえ…………」
急ぐあまり戸をちゃんと閉め忘れたか、玄関口から吹き込んでいるのであろう冷たい空気に促されて、寵看は静かに席を立った。
**2**
明くる日。舟山が担任を務める一年二組の教室では重大発表がなされていた。
「え~~、繰り返しになりますが~~、担任の舟山先生は昨晩ハイパー・インフルエンザに罹患してしまいまして~~、パンデミックを避けるため現在はBSレベル四の研究施設に隔離されております。お話によると戻ってこられるのは丁度一週間後になるそうなので~~、その間はこちらの教員が皆さんの担任を務めます」
学年主任の教員が、蛍光灯の光を禿げた頭で乱反射しながら、教室の扉へ視線を送る。
それを合図に、開かれていたドアの向こうから巨躯の男が一礼をして入ってきた。
男は強面の厳つい顔立ちで、それにピッタリの角刈りがヤクザの如くキマっている。
体躯は大きくガッチリ気味で、着込んでいる濃紺のストライプスーツが窮屈そうに線を拉げているように見える。
男の歩き方は軍人のようにキビキビしていて、なるほど出身は防衛大学で担当教科は体育か、という安直な推測を見る側に掻き立てる。
男は教壇に立つと、我が名を示すべく、黒板にチョークをカッカと走らせてから、面々へ向き直った。
「私は相羽久だ。これから一週間だけ貴様らの担任の替わりをしてやる。担当科目は国語だ。覚えておけクズ共」
相羽は教室の喧噪を一蹴するかの如く、拳を小槌のように教卓に叩き付けた。
ドンッ、という音が作り出した強引な静寂は、一瞬後には生徒の加虐心に火を付け、教室には、相羽に対する不満の声がワッと起こった。
その苛立ちの声に、学年主任は禿げ頭をハンカチで拭いながら「みなさ~ん静粛に~」と裁判然とした呼びかけをするも、誰一人として耳を貸すものはいない。
それを小馬鹿にしたように「フン」と鼻で笑う相羽に、生徒の募らせた憤懣が、とうとう爆発。急度、生徒の一人が立ち上がる。
「校内の交戦規定は教員にも適応されてるんだよな! おう全員でアイツ黙らせようぜ!!」
「おおっ!!」「アイツなんかムカつくわ!」「やったるやったる!」
戦列に加わるように三人が立ち上がった。
その後にも数人続いた。
柳眉を逆立て立ち上がったのは男女併せて11名からなる義勇軍。
しかし、まるで詰まらないものを見たように相羽が鼻先で笑った。
「ククク、尻馬に乗るだけのゴミめらは脳と教育のどちらも足らんらしい。よかろう、ならば教育してやろう。何処からでも掛かってくるがいい」
相羽は高慢な態度を改めもせず、腕組みをすると、今度は「早くしろ」と言わんばかりに顎をしゃくった。
「どうした威勢だけか?」
「「~~~~~っっ!!!」」
「もういい、やっちまおうぜ!!」
侮られたことが彼らの感情を逆撫でにした。
十一人の生徒たちは補助魔導機を一様に構え、一斉にファイア・ボールを撃ち放った。
相羽に向けて加速する十一の火球。
しかしそれらは標的に届くよりも前に消失した。
空中で何かにぶつかって鎮火したかのようだった。
何が起きているのか分からず、錯乱した面々は再び補助魔導機に火炎を点す。
だがその攻撃は発射を見なかった。
反抗した全員がやられていた。
立ったまま意識を手放していた。
そして身にかかる重力を思い出したように、ガクっと膝を折って前のめりに倒れていった。
「フン。他愛ない」
微動だにせず事を成し、超然と鼻を蠢かす相羽。
攻撃の正体が分からず騒然とする教室。
学年主任の指示で担ぎ出される生徒たち。
一気に緊張の奈落へ叩き落とされていく中、タクラマだけが冷静でいた。
「ありゃ精神破壊だな。エグいの使うじゃねえのあの教師。こりゃあ燎祐とまゆっちが居ねえ間も退屈しなさそうだゼ」
黒い眼窩のうちで赤い光が瞬いた。




