そんな場面だったっけ?
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「『それ』は一見ワンピースを着てフードを被った小さな女の子のようだった。でも真夜中の森の奥だ。そんなところに女の子が一人で居るはずがない。大体森歩きする服装じゃない。それに誓って言うが光球が消える時までそんな女の子は居なかった。
何よりおかしいのが『それ』が右の肩に担いでいた物だ。どう見ても馬車。馬の居ない車体部分だけの馬車だ。そう、話に聞く馬車担ぎと同じように馬車を担いでいたんだ。でも一点だけ話とは違うところがあった。
馬車は屋根のないタイプで中が丸見えだったんだが、そこには誰も乗っていなかったんだ」
そこで一旦間を取り、周りを見回すアルント。
何度もこの話をしてきたんだろう、話に淀みがない。
学園から帰ってきたばかりの下の弟君は思いっきり聞き入っているようだ。他の面々はもう何度も聞かされているんだろう、話が終わるのを待っている感じだ。
「そう、馬車担ぎの話ってのは、女の子が馬車を担いで駆け抜けていく。その馬車には誰かが囚われているっていうのがお決まりだ。
でも目の前に現れたのはそうじゃない、空の馬車を担いでいたんだ。まだ誰も乗っていない、空の馬車をね。
『それ』はその馬車をひょいと地面に下ろした。まるで重さを感じていないかのような気軽な動作だった。そしてこっちを見て手招きしたんだ。真っ暗で顔なんか全然見えないってのにハッキリと視線を感じた。それどころか笑っているようにさえ見えた。背筋がゾッとしたね。
親父は元魔法騎士団員なんで魔力感知なんかもできる。これは後で親父から聞いた話なんだが『それ』の持つ魔力は生き物としてはあり得ない、とてつもなく不自然な感じだったそうだ。
それでも親父は勇気を出して『それ』に声をかけてみた。でも『それ』はまるで反応せずずっと手招きを続けていたんだ。あまりに不気味なんで一刻も早く逃げ出したかったよ。
しかし俺達にはブレイズベアを仕留めるという使命があった。ここで逃げるとブレイズベアが息を吹き返してしまう。村が危険に晒される。だからやるしかなかった。
ブレイズベアは『それ』のすぐ後ろだ。止めを刺そうとすると必然的に『それ』に近づくことになる。正直気味が悪かった。何が起こるか分からないからな。でもブレイズベアがまた暴れ出すと大変だ。傍にいる『それ』も見た目は女の子だ。それがブレイズベアに襲われるのは見るに忍びない。ここは行くしかない」
そんな場面だったっけ?
「そこで親父が『それ』に向けて全力で睡眠魔法を撃ったんだ。魔法の才能がない俺でさえ感じとれるほどの強力なやつをな。それで『それ』が眠ってくれれば安全にブレイズベアにたどり着ける、そういう目論見だった。
でもそうはならなかった。『それ』に近づいた瞬間、魔法が消えてなくなってしまったんだ。
躱されたんでも効かなかったんでもない。単純に消えてしまったんだ。一体何が起こったのか、親父も訳が分からないと呆然としていたよ。
ただ魔法の効果はなかったが、『それ』が初めて反応した。してしまった。
『それ』はそれまで続けていた手招きを止めて嬉しそうにニィ…と嗤ったんだ。いや目で見たわけじゃない。でもどういうわけか嗤ったのがハッキリ分かったんだ。捕まえた、そんな声が聞こえてきたような気がした。そして『それ』は俺達の方に近づいて来ようとしたんだ。
攻撃してはいけなかった。無視しなければいけなかったんだ。でももう遅い。次に一体何が起こるのか、俺達は恐怖に震えて動けなかった。
その時『それ』がいきなり後ろを振り向いた。ブレイズベアが身動きしたんだ。
そのおかげで『それ』の興味がブレイズベアに移ってくれた。『それ』は今度はブレイズベアに向かって手招きを始めたんだ。
気性の荒いブレイズベアだ。手招きを挑発と取ったのか雄叫びを上げて『それ』に襲い掛かり、その腕をガブリ!とやった。やったんだが『それ』は平然としていた。そして俺達に向かってしたようにニィ…と嗤うとブレイズベアの耳に顔を近づけ何かを囁いたんだ。するとどうだろう、ブレイズベアは忽ち大人しくなったんだ。
自分の意思をなくしてしまったのか、ブレイズベアは『それ』に導かれるままふらふらと馬車に乗り込んだ。『それ』がロープで馬車に縛り付けたんだがその間も大人しくしていた。ああ、『それ』の腕は噛まれてもなんともなかったみたいだ。両方の腕を使っていたよ。
準備が終わると『それ』は俺たちには目もくれず嬉しそうに馬車を担いで走り去っていったんだ。邪魔な木を薙ぎ倒しながらね。
ブレイズベアはその時正気に戻ったらしい。悲鳴らしき鳴き声を上げていた。俺たちがいくら痛めつけても一度も悲鳴を上げなかったあのブレイズベアがだ。俺は初めてブレイズベアに同情したよ。
『それ』はあっという間に見えなくなった。でも木の折れる音とブレイズベアの哀れな鳴き声がいつまでも聞こえていたよ。
俺達は少し移動したところで夜を明かした。あそこには留まりたくなかったが、夜の森を通り抜けるには少しばかり消耗していたんだ。
日が昇った後、帰る前に一応現場に戻ってみたんだ。出来れば昨日のは夢だったと思いたかったんだが残念ながらそうじゃなかった。
ブレイズベアとの戦闘の跡も残っていたし、『それ』に薙ぎ倒された木の道が旧街道まで続いていた。足跡から見てそこから南に向かったんだと思うがそれ以上の事は分からなかった。
結局『それ』が何者で何故村の近くまで来て何のためにブレイズベアを連れ去ったのか、それは分からない。
ただ言えるのは、『それ』を攻撃しちゃいけないって事と、あれからもうかなりの日数が経つのに未だにブレイズベアが戻ってきていないって事だけだ」
なんか随分脚色されてたなあ。色々突っ込みたい。でも私は善意の第三者、現場に居なかった設定なので突っ込むわけにはいかない。というか突っ込んだら色々不味い。
「多少の誇張や美化はありますが事実関係は概ねアルントの話通りです」
もう一人の当事者、アルントの父クルトが言い添える。どうやらアルントがやたらとビビッていた件は秘密にしておいてあげるようだ。
でも何で私にこの話をしたんだろう。唯の雑談? それとも私が疑われていて反応を見ようとしている?
よくあるのは現場に居合わせた人しか知らない話をうっかり喋ってしまい関与がバレるケース。アルントが逃げたがっていたのとかを口にすると不味い。気をつけないと。