表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水と椿  作者: 小波
2/2

 智哉がなんだって言うんだろう。

 隣の座敷で大きくはしゃぎ、並べた布団の上を転げまわっている弟を眺めて私は思った。

 伯母さんがわざわざ私に言い残したということは、よほどのことに違いない。智哉は私の年の離れた弟だ。まだ七歳で手を焼くことも多いけれど、私にとってはかわいい弟だ。その弟に気をつけろとは……。

 放り投げられた枕のせいで私の思考は中断された。私は仁王立ちになり、布団の上で泳ぐまねをしている智哉に大きな声で怒鳴った。


「こらっ! 布団の上で暴れるなって、何度言ったらわかるのよ‼」

「だって……」

「だって、じゃない! 早く寝なさい」


 智哉は頬をふくらませ、抗議の視線で私を見上げたが、案外素直に布団に入った。薄い掛け布団の奥に頭までもぐり込みながら続ける。


「姉ちゃん。明日の朝起きて、いっしょにクワガタ取りに行こうぜ。この前じいちゃんに教えてもらったんだ。クワガタがよく集まる木」


 私は思わずこめかみを押さえた。


「何しに来たと思ってんの? 遊びに来てるんじゃないのよ、まったく。大体、もうそんな時期じゃないでしょう。九月の終わりなんだから」

「でも、もしかするといるかもしれないだろ。なあ」

「いいから寝なさい」


 間髪を入れず、ぴしゃりと言ってやる。うらめしそうに私を見上げると、智哉はぷいと横を向いてしまった。

 やれやれ。

 私は小さくため息をつくと、智哉の隣に横になった。両親はまだ祖父らとともに母屋の座敷で話しこんでいるらしい。

 敷かれたままになっている二組の布団を眺めやり、いつしか私は深い眠りに落ちていた。


     *


 次の日、私は母親のけたたましい声に起こされた。


「加奈子、加奈子、起きて。ともくんがいないの!」

「……え?」


 眠い目をこすりつつ、体を起こして隣に目を向ける。人がいた印のしわを残すシーツの上に、寝くたれた弟の姿はなかった。


「起きた時にはもういなかったから、おじいちゃんに頼んで一緒に虫とりに行ったんだろうと思ってたんだけど……」


 母親はおろおろと言葉を続けた。


「聞いたら知らないっていうのよ。加奈子、心当たりはない?」


 涙声に近い訴えに、私の顔から血の気が引いた。

 もしかして……。

 脳裏に寂しげな伯母の微笑と忠告の言葉がよみがえる。


『……智哉に気をつけて……』


 頬をこわばらせた私の様子に、母親が必死の声音でたずねた。


「あなた、何か知ってるの?」

「滝か、川か……きっと水の近くよ!」


 怒鳴るように母親に返す。私は着替えもそこそこに寝ていた部屋から飛び出した。額を付き合わせて相談していた祖父らにも事情を話し、昨夜、智哉がどこかの水辺で遊びたいと言っていたと伝える。

 二時間後、智哉は村を流れる川の浅瀬に浮いているところを発見された。

 ただ横たわる息子の姿に父親は絶句し、母親は半狂乱で泣き叫んだ。


「何で、なんでこんなことに……!」


 私は唇を噛みしめて、涙ににじむ両親の背中を見つめることしか出来なかった。

 そして今、私は水の宮がいるという裏山の大滝へ向かっていた。

 鬱蒼とした森が広がる通る人も少ない道は、遠くの方から遠慮がちなセミの鳴き声が聞こえて来る。ゆるい坂道がいつまでも続き、絶望のふちをのぞき込む気持ちにさらに波風を立てていた。


──伯母さんはこのことを警告していたんだ。


 自身のふがいなさに唇を噛みしめ、私は後悔と強い怒りに心を落とし込んでいた。


──おばさんに教えてもらっていたのに、私は警告を生かせなかった。


  その時、まるで太鼓が鳴るような激しい水音が耳朶を打った。私ははっと顔を上げ、最後の急な坂道を登った。木々の間を通り抜け、音が聞こえる方へと向かう。

 唐突に目の前が開けた。周囲の木々に守られながらも白い水煙が私を手招く。

 そこは、私達が住む世界とはまるでかけ離れた場所だった。

 崖の上から大量の水が滝壷へ降り注いでいる。その滝壷は長大な半円を形作り、水底に見える濃い色合いから深さは相当のものと思われた。

 散った水滴が光を反射し、私はまぶしさに目を細めた。清冽な水と光に彩られた、そこは蠱惑的な異世界だった。だが私はその美しさに気圧されることなく、大きく息を吸い込んだ。滝に向かって声を張り上げる。


「水の宮! いるんでしょう!?」


 すると、脇の雑木林からひょいと少年の顔がのぞいた。


「怒鳴らなくても聞こえている」


 飄々とした振る舞いに、私は怒りを抑えながらも声を低めて言い放った。


「あんたは私を呼び出すために弟に手を出したのね」


 水の宮はもったいぶるように、ゆっくりと木々の間から出て来た。澄ました顔で前に立つ。


「何のことだ?」

「とぼけないで!!」


 私は強く奥歯を噛みしめ、その秀麗な顔をにらみつけた。


「智哉を返して。今ならまだ間に合うんでしょう?」


 水の宮は瞳をわずかに細めた。


「──条件がある」


 私は深くため息をついた。聞かなくても内容はわかっていた。が、たずねないわけには行かないだろう。


「何よ?」


 水の宮はあっさりと言った。


「お前が俺の伴侶になることだ。そうすれば、弟のタマシは返してやろう」


 私は思わず目を見開いた。そして眉間にしわをよせる。

 私のきついまなざしに涼やかな笑みで答えると、彼は私にささやいた。


「俺はお前が気に入った。そう悪い話ではあるまい? この現し世から離れるかわりに、俺と一緒にはざまの世界を永遠にたゆたうのだ。見ようと思えば、弟の子々孫々までお前は見届けることが出来る。もとより俺達の世界に近しいお前のこと、さして迷う選択でもなかろう。──どうだ」


 私は白い少年の顔と、背後に広がるしぶきでできた七色の世界を見比べた。それはどちらも美しく、まだ人間である私の目には怖気づきたくなるほどだった。

 私は一度視線を落とし、再び彼の顔を見た。


「断ったら、弟は死ぬのね」


 水の宮の黒い瞳は私の問いかけに答えることなく、すべてを超越した光を灯して私の顔を見返した。

 私は再びため息をついた。


「……わかったわ」


 水の宮は、まるで花が開くように微笑んだ。


「そう難しい顔をするな。俺の伴侶になるならば、お前の望むことはなんでも俺の手でかなえてやろう。出来うる限り大切にしてやる、何も心配することはない」


 私は一言つぶやいた。


「智哉を助けて。それだけよ」


 そんな私に同情したのか、彼はわずかに瞳の色を和らげた。


「人とは違う。約束はたがえん、安心しろ」


 私がうなずくのを確認すると、水の宮はふと陰のある笑みを浮かべて言った。


「お前、名は?」

「加奈子」


 今度は間髪を入れずに伝えた。昨日教えなかった理由は伯母さんに止められていたからだ。「その手のやからに名前を告げれば、必ず執着されてしまう」と。もう意味のない話だが。

 どこか楽しげな声色で、水の宮は私の名を呼んだ。


「加奈子。今夜、お前を迎えに行く。それにあたって、お前に条件はつけさせん。……彰子でこりているからな」


 私はきつく唇を噛みしめた。


     *


 真っ暗な縁側の向こうから、秋の虫達が夜もふけたことを知らせている。

 私は離れの座敷で一人、布団の上に正座して、彼の迎えが来るのを待っていた。

 私が屋敷へ帰るとすぐに、病院から智哉が息を吹き返したとの知らせが入った。泣きながら言う両親の声に祖父達は奇跡だと涙にむせんだ。水の宮は約束を守ったのだ。

 私はそっと目を閉じた。

 後悔はしていなかった。水の宮の言うとおり、確かに私は彼らに近しい人間だ。彼らの言葉に引きずられ、いつかどこかでこうなることはすでに覚悟していたように思う。伯母さんもよく言っていた。

『気をつけなければ。あなたのような子は危ないの。見えてしまった者達の仲間にされてしまうかもしれない』と。

 ふと、私はくちずさんだ。


 七つの子どもは神のうち

 水の宮さまもしかたない


 伯母さんが教えてくれた唄。


 水の宮さまは子どもらの

 タマシを食って返される


 背後に人の気配を感じ、私は静かに振り向いた。

 彰子伯母さん。

 小柄な白い人影は、うつむき加減で私の顔を見下ろしていた。


「来てくれたの?」


 私は伯母さんの姿を見上げた。伯母さんの表情は悲しげだった。


「ごめんね、せっかく教えてもらったのに。──でもね、本当に後悔はしてないの。それよりもお父さんとお母さんと、智哉のことをよろしくね。私がいなくなっちゃったら、お父さんとお母さん、もう智哉しかいないから……」


 伯母さんはただうるんだ瞳で私を見つめているようだった。

 虫の鳴き声がぴたりと止んだ。


「加奈子……かなこ」


 私にしか聞こえない声が聞こえた。次の瞬間、伯母さんの姿がその場からかき消すように消えた。

 私はゆっくりと立ち上がった。閉められていた雨戸を開けるため、暗い縁側へ足を向ける。


「開けろ、加奈子。迎えに来たぞ」


 声は雨戸の向こうから聞こえた。私は小さく息を飲み、閉じた雨戸に手をかけた。きしんだ音で、異世界へと続く扉が開く。

 青い月光が差し込む庭に、玲瓏たる少年の姿があった。


「──水の宮」


 つぶやくと、少年は冴え冴えとした瞳を私に向けて口を開いた。


「さあ、来い。俺達の世界へ」


 私はしばし彼を見つめた。


「……その前に一つだけ、言っておきたいことがあるの」


 白いその顔に私は言った。彼はわずかに瞳を細めた。


「なんだ? 言ってみろ」

「そっちの世界に行ったって、私はあなたの言いなりになんかならない」


 そう私が言い放つと、彼は面白そうな目で私を見た。私はかまわず言葉を続けた。


「前にあなたに言われたとおり、私は確かにあなた達がいる世界に近い人間だった。あなたのようなものの誘いを今までいくつも受けて来た。……少し悲しいことだけど、こちらの世界に違和感があったりもしたわ。だから、いつかこんな日が来るのをうすうすわかっていたような気がする。──でも、私はそう簡単にあなたの言いなりになんかならない」


 私はきっぱり言い切った。


「私はこっちが好きだった。おかしな力で敬遠されることもある世界だったけど、親しくしてくれた友達もいたわ。こちらの世界で学んだことは、好奇心だけで見ているあなたにはきっとわからないことでしょう。──だからこそ、二度と伯母さんや私のような出来事が起こらないように、私が持っている力の限りであなたのすることを邪魔してみせる」


 私はすでに心を決めていた。

 彼の誘惑を受ける原因となったこの力こそが、彼に通用する最大の武器なのだから。疎まれてきた力を使い、こちらで生きた経験を糧に、いつか必ずこのあやかしを私の力で封じてみせる。

 一瞬の沈黙の後、低い言葉が返された。


「……いいだろう、やってみろ」


 水の宮の口元が、笑いの形につり上がる。


「それでこそ、俺が選んだ女だ」


 私は真っ直ぐに彼を見すえた。


「覚えてなさい。この私を選んだことを必ず後悔させてあげる」


 水の宮の腕が伸ばされた。私の永遠の伴侶であり、また、ただ一人の敵と定めた相手が光を浴びて手まねく。


「さあ。俺とともに行こう」


 私は大きく息を吐き出し、新しい世界へとふみ出した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ