17,それでも、君だけを特別に想う。
お前が善で、俺が悪だなんて、
いったい誰が言ったんだ?
俺は、ただ、自分の思う通りに生きているだけ。
それを『善』だの、『悪』だの、
そんな大層な言葉に置き換えないで欲しい。迷惑だ。
自分の行動を、いちいち他人に善悪つけられては、
自分の生き方そのものが、
どうしようもなく安っぽく思えてしまうんだ。
A・L
▽▲
それから数日後。フランスに行っている間、――いや、風邪をこじらせて寝込んでいる間に欠席するしかなかった講義の埋め合わせとして、教授から、ありがたくも頂いた課題をようやく済ませたと思ったら、進級試験が間近に迫っていた。
「フォークス、なんで君はそんなに落ち着いていられるんだい?」
早朝から机にかじり付いている僕は、新聞を片手に優雅極まりなく紅茶を飲んでいるフォークスが幻覚なのではないかと、何度も目をこすった。
だが、それはまぎれもなく実体であるようだ。
「君こそ、何をそんなに慌てているんだい?」
「そりゃー慌てるよ。進級がかかっているんだ。僕はもう一度同じ学年をやる気はないよ」
「僕もだ」
しゃあしゃあと言い放つフォークスが憎い。
――だったら、少しは勉強したらどうだい!
そう怒鳴りたくなる。だが、ここは我慢だ。これくらい我慢できないようでは、この先、彼とは付き合っていけない。
僕は一呼吸付くと、努めて穏やかな表情でフォークスに振り向く。
「それにしては余裕そうだね」
だが、それに対する彼の返事に、その表情をそのまま凍りつかせた。
「余裕だからね」
彼は、ずずっと紅茶を啜った。
「君が僕より、勉強していたとは思えないけど?」
「僕は要領がいいんだ」
「……」
ジトっと彼を睨み付けると、彼は仕方がないなぁと言って、重い腰を上げた。
「特別に教えてあげよう。いいかい?フランク教授の試験は毎年、五択問題だ。そして、その正解パターンは、一問目がBで、二問目がC、その次がEで、Aで、Bで、B、C、A、D……」
「ちょっと待った!」
「なんだい?」
「フォークス、君……」
「過去の試験問題を調べたら、全てそうなっていたんだ」
「本当に?」
信じられないという顔をフォークスに向ける僕だが、すぐに頭を横に振った。
「そうじゃなくって。もしかして、フォークス、勉強しないで、正解パターンを丸暗記しているのかい?」
「そうだけど?」
僕はがっくりとうなだれた。
「ああ、でも、ちゃんと勉強している教科もあるよ。けど、フランク教授のつまらない講義の勉強を、寮に帰ってまでしたくないじゃないか。正解パターンが分かっていれば尚更だ」
かなりその意見に賛成したいが、学生として、賛成していいものなのだろうか?
頭の中をぐるぐると悩ませている僕にフォークスは追い打ちをかける。
「他の教授のパターンも聞くかい? 誰がいい?」
ルクレールが学校を去って数日が過ぎた。
彼は、イギリスに戻らないと僕らに言い放った通り、退学届けでさえ郵送で済ませた。
だから、皆にとって、急にいなくなってしまったという感じがある。
彼と仲が良かった者たちはどう思っただろう。彼らも、離れしまってもルクレールとはいつまでも友人だと言い切ってくれたら、どんなに良いことだろうと思う。
僕は言い切ることができる。ルクレールは友人だ。
その彼は、時々来る手紙によると、今はパリの学校に通っているらしい。怪盗業も順調らしく、よりいっそうに世間を騒がせている。
一方、フォークスの探偵業は相変わらずで、退屈を持て余すこともしばしばあった。だが、彼はこれからなんだと思う。
彼の少年という容姿が探偵業の妨げになっているのだとしたら、これからなのだ。
僕が書く小説のように大人になったフォークスならば、イギリスだけではなく、世界中に名を知られる名探偵になるだろう。
その時も、きっと自分は彼の側にいる。
彼の不機嫌の的になったり、良い玩具になったりしながらも、誰よりも近くで彼の推理を見守っていくつもりだ。彼の友人として。
「ところで、ジョン」
珍しく、あのフォークスが僕に紅茶を入れてくれながら、尋ねてきた。
これは、何かあるのだろうか? と、不安に思いながらも、カップを受け取る。
――まさか、毒?
僕は自分の考えに苦笑する。
「なんだい?」
「勉強もいいけど、小説は書けているのかな、って思ってね」
「う、うん、まあね」
歯切れの悪い返事にフォークスは首を傾げる。
「この間のジゼルの一件を参考に書いてみたんだけど、探偵と怪盗が実は親友っていうのは、世間には受け入れられないと思うんだ」
「だろうね」
「だからって、怪盗の存在を消してしまいたくないし、単なる怪盗として登場させるのは、もっと嫌なんだ」
僕の言葉にフォークスも頷く。
「今の社会では、探偵は善、怪盗は悪だからね。その二人が実は仲良しっていうんじゃあ、世間は納得しないだろうね。神と悪魔が手をつないでいるようなもんだ。嫌悪される可能性だってある」
善と悪がはっきりと区別される世界なのだ。今はまだ、白か黒かの世界。
だけど、ルクレールが言っていた世界では、灰色が許される。
人それぞれ。怪盗だって、極悪非道な怪盗もいれば、善人な怪盗だっている。そういう世界にもうじきなっていくのだ。
「あと数年、いや、数十年たったら、その小説も日の目が見られるよ」
「うん」
その時まで閉まっておこう。机の引き出しの一番奥に……。
ずずっと紅茶を啜り、僕らは顔を見合わせてくすくす笑い合った。
▽▲
その日の午後、フォークス宛てにちょっとした荷物が届いた。
彼はそれを見て、くすぐったそうに微笑んだ。甘い匂いが辺りに漂う。
僕はその香りに酔いそうになりながらも、フォークスに歩み寄った。
「ルクレールから?」
「アル以外の誰がこんなものを寄こすと言うんだい?」
「それもそうだね」
フォークス宛てに届いた荷物は、真っ赤なバラの花束。だが、それのどこにも差出人の名前がなかったのだ。
それでもフォークスは、差出人がルクレールであることに疑いを持っていないようで、彼がフランスから持ち帰った枯れかかったバラの花々を花瓶から抜き取り、代わりに今届いたバラを差し入れる。
と、その時。ひらりと何かが舞い落ちる。
「フォークス、何か落ちたよ」
「え?」
それは花束から床に落ち、床をすぅーっと滑って僕の足下にやって来た。
僕はゆっくりとかがみ、それを拾い上げる。カードのようだ。
「なんて書いてある?」
フォークスはバラから目を離さずに、僕に尋ねる。仕方なく、僕はカードに目を落とした。
「えーと。……ええっ?」
「何?」
僕の驚きの声にフォークスは振り返った。僕は無言で彼にカードを見せた。そこには、ただ一つのアルファベットが書かれている。
ただ、『R』と……。
フォークスは息を吹き出した。
「ホント、何考えているんだか」
呟くように言って、赤バラの中に埋めた顔は、僕の気のせいか、赤く染まっているようだった。