閑話 小さな願い
時系列的には53話直前になります。
読まなくても本編進行には支障ありませんので、積極的な主人公が苦手な方は飛ばしてください。
「それでは、行ってきます」
第一棟から南、中央神殿の半分を占める巨大な聖殿の巨大な正門を背にロゼは立っていた。その背後には用意された馬車があり、繋がれた馬達の状態をシュデルとディノが確認している。
「ああ。護衛にはシュデル達がつく。ドーキンス邸の内部構造の模写を渡してあるから、後で確認しておくように」
「はい。ロードさんはいつ出発ですか?」
「俺も直ぐに出る」
「すぐに、ですか?会場はこの中央神殿からはそう遠くない場所にあるのに」
「時間的に余裕はあるが、参加の名目が聖師長代理だからな。話を通してくれたジル爺の友人とやらに挨拶に寄ってから会場に行く」
「アデライドの方でしたっけ。私も実家のあるアデライドに一度寄りますから、途中まで馬車で一緒に行けるのではないですか?」
「いや。会う先方がローザリンドに諸用があり今はここから北東にある街の知り合いの邸宅にいる。俺が向かうのはそこだ」
「そう、ですか。…………では、次に会うのは会場ですね」
「…………ああ」
二人はしばしの間黙り込んだ。
あと半日もすればまた会えるというのに、そうとは思えないような緊張感が二人の間を漂っていた。そしてそれは明らかに、ゼルドの態度に起因するものだ。
あの日から、ゼルドは目に見えてロゼに触れなくなった。
それはあからさまとまでは言わないまでも、ロゼや事情を知っているであろうシュデルから見ればすぐに分かるような故意的な変化だった。
ゼルドの心は手に取るようにわかる。あの約束の条件である事件の収束、つまりは今日決着をつけるまでは決してロゼに手を出してはならないと考えているのだろう。真面目な彼の考えそうなことではあるが、その思考がロゼに関することにまで適用されることは予想外だった。お陰で当の本人であるロゼは、約束をした日から今日まで悶々として過ごさねばならなかった。
ロゼだって、分かっているつもりだ。普段の自分達の行動は異常とも言えるほどの親密性を帯びている。普通の付き合う前の男女の距離感など詳しくは知らないが、決して自分達の距離感ではないことは分かる。それを今回改めたと思えばいい。そのはずだった。
だがロゼは知ってしまったのだ。あのごつくて厚い手が、ロゼの頭や頬、首を撫でる感覚を。強く抱き締められた時の、暖かな体温と大好きな匂いに包まれる喜びと安心感を。
あれを知ってしまった後で急に突き放されては、悶々としてしまうのも仕方がなかった。
―――――ちょっと腕とかに触ろうとしても避けられたし、後ろから抱きつこうとしても止められてしまった…………ロードさんにはロードさんの考えがあるのは、わかっています。けど…………なんだか、全く面白くないです。
あの日は、あんなに近くで吐息を感じたのに。あんなに執拗に、熱く、甘噛みしてくれたのに。
ロゼは自分の首筋から肩にかけてを摩った。あの時薄く残った跡はもうなくなってしまった。それにえも言われぬ寂しさを感じてしまうロゼは、浅ましい女だろうか。
「ロードさん。ちょっと、屈んでくれますか」
怪訝そうにしながらも、ゼルドは地に膝をつきロゼを見つめた。同じ高さになった目線が、これから何をするつもりなのかと問うている。
ロゼの前では無防備になりがちな彼の一瞬の隙を突いて、懐に潜りこむ。
「……おい、やめ………!?、っ!」
ちゅ、と可愛らしいリップ音がした。頬から唇を離したロゼを、ゼルドは射殺すような強さで凝視してくる。完全に予想外だったことが明白なその表情に、ロゼは少しいい気になった。
「少しは構ってください。あなたが思っている以上に、私は寂しがり屋なんです」
言葉とは裏腹に、今ロゼの顔にはふふんと得意げな笑顔が浮かんでいることだろう。その全てが、目の前の男を煽るに十分なものだった。
次の瞬間には腕を強く引き寄せられ、首をがっと掴まれていた。そして角度を変えて重なろうとする唇がロゼのそれに触れる直前に、ぴたりと動きを止める。
「……なんで」
「煽るのも大概にしろ。俺は、お前が思うほどに、余裕があるわけじゃない」
怒っているのか、我慢しているのか。荒々しい呼吸を肌に感じ、ロゼは興奮で全身の毛が逆だつのがわかった。
「そんなの!私だって同じです。私は我慢して欲しいわけじゃないし、余裕のあるロードさんを期待してる訳でもない。だから、んむっ」
必死に訴えるロゼの口を、大きな掌がふさぐ。
「いいから黙れ、一回その小さな口を閉じろ。いいか、頼むから、俺を試すような真似はしてくれるな。お前を大切にすると決めた手前、事が片付くまでは絶対に手は出さん」
―――――本人がいいって言ってるのに!
ゼルドの頑固さに苛立ったロゼは、口に当てられた掌に噛み付いた。ぷつりと皮が僅かに切れる感覚と共に手が離れ、珍しく驚きを露わにしたゼルドをロゼはきっと睨めつけた。
「このっ、意気地無し!」
行ってしまったすぐ後に、ロゼははっと我に返った。ただ己の我儘が叶わぬことを相手に非があるように宣うのは、人として恥ずべきことだ。頭に多少血が上ったとはいえ、本来目上の、しかも好いた相手に向けてよい言葉ではなかった。
「――――――ふはっ、ははは!」
急に大声で笑い出すゼルド。後ろにいたシュデルとディノも驚いている。
ロゼはなんだか悪寒がした。何故いつも自分は、やらかしてから後悔するのか。謎である。
「意気地無し……意気地無しか。ははっ、そう言われたことは今まで一度もなかった。恐れられることには慣れているが、まさか煽られるとは、なぁ」
これまでに見ないほどの笑顔を浮かべているのが逆に怖く感じるのは気のせいだろうか。首を傾げる仕草なんてそんじょそこらの魔物なんて比にならないくらい、怖い。
「なあ、ロゼ。俺は何処で間違えた?お前を大切にするあまりに甘やかしすぎたか。それとも順序を礼儀正しく守ろうとする駄犬のような俺を試して楽しんでいるのか。まぁ随分と見くびられたものだな」
「それは、んむむっ」
口を再び塞がれるのと同時に、ぎゅぅうと痛いほどに手を握られる。その間も、目はそらされることはない。
「ロゼ、お前は強くなった。並大抵の男からは身を守ることができるし、御使いの男でもお前を手篭めにするのは困難だろう」
まあそんなことをしたやつは殺すがな、と笑うゼルド。さらに顔を近づけてくる。
「だが俺はどうだろうな。どうやって止める?どうやって助けを呼ぶ?今、俺の頭の中には幾つも方法が浮かんでるいる。どうやったらお前の防御を崩せるか、どうやって神力を使わせる暇もなく地面に押さえつけ動きを封じるか。…………いくらでも、どうとでもできるんだ、ロゼ」
「…………」
今この瞬間も例外ではないと、その瞳が告げている。
「それなのになぜ俺が手を出さないのか、お前はわかっているだろう」
「…………、……でも」
「でもも何もない」
「いや、でもそれは」
「いいからもう黙れ」
ピシャリと言い放ち取り付く島もないゼルドに、ロゼはむくれた。しかしゼルドも動じず、お互いに譲らぬ無言の攻防が続く。
「……あのー、ロゼちゃん?もう俺ら行かないと」
「先輩二人は先に馬車に入っててください。私もすぐにいきます」
「あ、ハイ」
常にないロゼの気迫にシュデルは馬車にひっこんだ。その際ディノの首根っこを掴んで引き入れていたのを確認し、ロゼは再び口を開いた。
「なら、一つだけ。お願い聞いてください」
「……なんだ」
「これ、上書きしてもらえませんか」
ロゼは服をはだけさせ、片方の肩を露出させるまでに引っ張った。そこには薄くなった噛み跡が残っている。
目を剥いたゼルドが瞬時に服を掴み、上へと引っ張りあげる。この間僅か一秒もない。
「ここは外だぞ!何を考えて――」
「これじゃなくてもいい。何か、ロードさんのものが欲しいんです」
随分大胆で破廉恥な行動だ。両親が今見ていたのであれば、そんな子に育てた覚えはないと泣くだろう。だがそれでも構わなかった。
ロゼとゼルドの間には、確かな絆がある。だがそれは目に見えぬもので、かたちとして残るものではない。口で交した約束も、互いを縛るものにはならないだろう。それがとても不確かで、寂しくて、こわかった。もしゼルドに飽きられてしまえば、幸せな時間だけが泡沫の泡のように消えて、あとは惨めったらしく想い続ける自分だけが残るのかもしれない。そんな妄想が時折頭をちらついた。妄想だと分かっていたが、世の中に絶対はない。どれだけ激しく互いを愛し合った恋人でも、年月が経つにつれ多少の変化はある。その変化が離別を引き起こすことだって大いにあるのだ。
ロゼはもっと確かなかたちで、目に見えてわかるような確証が欲しかったのだ。あれだけ親密に仲を深めあっても証明するものが何もないということが、ロゼの不安を掻き立てていた。
ゼルドを見上げながら、ロゼは己の勝利を確信していた。先程からゼルドの顔には青筋がたっていたし、手には痛いほどの力が籠っていた。
―――――あとひと押しか。
ロゼは首を傾げ、上目遣いで瞬きをした。やったことはないが、確かこうすれば男は落ちるとリリーが言っていた。
そう、それで、甘えた声でこう言えばいい。
「ね、おねがい――ゼルド」
結果は、まあ、ご存知のとおりだ。




