6 侯爵の憂鬱
侯爵サマにちょっとムカつくかもしれません。
あの会話をしてから間もなくして、侯爵夫人は深い眠りに入り、それから一度も目覚めることなく、その一月後に安らかに天に召された。
そして彼女の葬儀は、よく晴れた春まだ浅い頃に厳かに執り行われた。
喪主が息子だったことに少し周りがざわついたが、仕事で遠方の国に出かけているので、帰国するまでには相当時間がかかるため、それまで待つわけにはいかなかったと、息子が説明した。
それは嘘ではなかった。ただし、愛人付きの仕事ではあったが。
これには同じ穴の狢である息子でさえ、重病の妻がいるというのにそんな遠方に愛人同伴で出かけた父親に腹を立てていた。もちろん、家族や親類及び使用人達もだ。
だからこそ葬儀の五日後にようやく帰宅した侯爵に対して、周りの者達は完全無視を決め込んだ。そして、
「何故葬儀を執り行うのを待てなかったのだ!
何故妻がそんな状態だったのに早く知らせなかったのだ!
妻の最期の言葉は何だったのだ!
自分へ妻から何かメッセージは残されていなかったのか!」
という、侯爵の一方的な苦情や、涙と怒り混じりの問いに答える者は、誰一人としていなかった。
侯爵は妻が亡くなった直後はさすがに沈み込んでいたが、三月も過ぎれば愛人のおかげで徐々に元気を取り戻していった。
母親の望みが叶ったと、娘二人は喜んだ。
それに……あの男をどん底に落とすためには、できるだけ高い所まで引き上げておかないと面白くないではないか。
だから侯爵がまだ喪中だというのに、娘達と同年輩の愛人の伯爵令嬢と再婚したいと言い出した時、嫡男の妻と娘、そして彼女達の計画を知っている使用人達は一切口を挟まなかった。
当然ながら息子や親類達は怒り心頭になって大反対したのだが、結局侯爵に押し切られて結婚式を執り行うことになってしまった。
もっともさすがに前妻が亡くなってわずか半年余り、まだ喪中だということを考慮して、必要最低限の式だったが。
使用人達は、むしろ盛大な式を準備して、大恥をかかせてやりたいと意地の悪いことを考えていたが、さすがに侯爵自身が周りの状況を多少は読んだようだった。
侯爵は新妻を屋敷に迎え入れると、これからは彼女が女主になるのだから、それに従うようにと皆に命じた。
息子はそれに反発したが、息子の妻は粛々とそれに従い、娘を連れて同じ敷地内の別邸へと移り住んだ。
世間では侯爵家では過酷な女主の主導権争いが起きている、という噂話が流れていたが、それは残念ながら完全にデマだった。
嫡男の妻は侯爵夫人を立てて、屋敷の趣きが好き勝手に変えられても余計なことは一切口を出さなかった。
そして、そもそも彼女は本宅に滅多に姿を現わさなかったのだから、争いが起きようがなかった。
ところが結婚して間もなくすると、侯爵自身が度々別邸に訪ねて来るようになった。珍しい他国の土産を携えて。
そしてその度にこんな会話が繰り返された。
「お祖父様、今日は何のご用ですか?」
「君のお母様とお話がしたくてね」
「先触れ無しに来られても困ります。お母様はお父様のお仕事のお手伝いでお忙しいのです。
ですからお会いできません。お帰り下さい」
と。嫁が舅の面会を直接拒絶するのは角が立つ。そこで孫娘が対応していたのである。
侯爵はこの孫娘を溺愛していたので、孫娘に嫌われるようなことはしない。いやできないことを使用人もわかっていたのだ。
しかしこの日の侯爵は簡単には引き下がらなかった。侯爵にはとうとう余裕がなくなってきたからだ。
「では、この手紙を渡してくれないかな。そして私が返事を待っていると伝えてくれないかね」
侯爵は孫娘に手紙を手渡そうとしたが、彼女はじっとそれを見つめるだけでなかなか受け取ろうはしない。
「何故受け取ってくれないんだね?」
すると、孫娘は少し困った顔をしながらこう言った。
「お返事はいつ返せるかわからないのですが、それでも構いませんか?」
「それは困るな。できれば早めに返して欲しいのだが。手紙など仕事の合間にでもすぐに書けるだろう?」
「えっ? そうなんですか?
でも、お母様や執事さんがいくらお手紙をお出ししても、お祖父様やお父様がお返事を返してくださらなかったのは、お仕事でお忙しかったからなのでしょう?
何故お返事が来ないの?って尋ねたら、メイドさん達が、お手紙を書くのはとても大変なことだから、お忙しいとなかなか書けないものなんですよって教えてくれたのですが」
「…………」
「もし簡単だというのなら、どうしてお祖父様はお返事をくれなかったのですか?」
五十近くの男がまだ七つの孫娘に論破されてぐうの音も出なかった。
「ああ、悪かった。お母様がそんなに忙しいとは思わなかったのでね。
では手紙を読んだら本宅の人間にその返事だけでも聞かせて欲しいのだが、お願いできるかな?」
「はい、わかりました」
亡き妻と同じ明るい栗色の髪に明るい水色の瞳をした孫娘は、ニッコリと笑った。その笑顔まで妻にそっくりで、侯爵の胸が酷く痛んだ。
そしてその翌日、侯爵の執務室に息子が怒鳴り込んできた。
「何なんだ、あの手紙は!ふざけているのか!」
侯爵は息子の憤怒している姿に目を見張った。
「何を怒っているんだ!」
「何をだと!
何故自分の仕事を私の妻にやらせようとするんだ!
妻は何度も断っているだろう!
彼女は子育てと私の手伝いで手一杯なんだ!」
「だが、今までずっと手伝ってくれていただろう?」
「それは病気の母上の代わりに仕方なくやってやっていただけだろう!
父上は再婚して今は元気な妻がいるじゃないか!その妻に手伝ってもらえよ。子供もいないんだし暇だろう?」
「暇なんかじゃない。今度ホームパーティーを開くからその準備もあるし」
「はぁ?
私の妻は今まで、子育てや母上の世話、そして私達の仕事の手伝いをした上で、最高級のおもてなしと評判のパーティーまで仕切っていたんだぞ!
パーティーの一つくらい開くのが何だっていうんだ。
これ以上私の妻に無理をさせて、彼女が母上みたいに病気になったらどう責任取ってくれるんだ。
今度別邸に足を踏み入れたら承知しないぞ。もちろん手紙も二度と寄越すな!」
息子が憤懣やる方ない様子で部屋を出て行った後、侯爵はヘナヘナと椅子に座り込んだ。
『これ以上私の妻に無理をさせて、母上みたいに病気になったらどうするんだ』
息子の言った言葉が頭の中で何度も木霊した。
「私が愛する妻を病気にしたのか?誰よりも愛していて、守ってやる、幸せにすると誓ったのに……?」
執務室前の廊下で二人のやり取りを見ていた執事は大きなため息をついて、心の中でこう呟いた。
『今頃お気付きになったのですか?
今更ですよ……』
と。
息子の嫁に断られ、侯爵は仕方なく新妻に仕事の手伝いを頼んだが、即行で断られた。
「私にそんなことができるわけないじゃないですか!
私は普通の妻なんです。刺繍やダンスは得意ですが、帳簿付けや領地の管理なんかできるわけがないでしょう」
「しかし、亡くなった妻や息子の嫁はできるぞ」
「それはあの方達が特別な方々だからできたのですよ。誰にでも真似できるわけではありませんわ。
大体普通そういう仕事は専門の方に頼むものですわ」
「君は病気の妻の代わりなんて自分がいくらでもできると豪語していたじゃないか、あれは嘘だったのか!」
「嘘じゃないわ。
貴方とパーティーに参加すれば、病気の奥様とは違って、侯爵夫人として立派に振る舞えると言っただけよ。
だけど自宅でパーティーを開くのがこんなに面倒くさいことだったなんて、思わなかったわ。
その上書類仕事までやれるわけがないじゃない。非常識よ。
こんなのは専門家に依頼するべきだわ。よければ実家がお世話になっている経理の方を紹介するわよ」
「そんなことができるはずないだろう。他人に任せたら、外に大切な情報が漏れてしまうだろう?」
「知らないわ、そんなこと。
それが嫌なら貴方が自分でやればいいじゃない。もしそれができないのなら、もう息子に爵位も商会も譲ればいいじゃないの。そうして二人でもっと楽しみましょうよ。
結婚前はあんなに遊びや旅行に連れて行ってくれたのに、今は仕事仕事って、ろくに屋敷にも帰ってきてくれないじゃない。ねぇ、お願い」
妻に腕を取られ、媚を売るような妖艶な目で見つめられた夫はギョッとした。
『これが侯爵夫人か?これで嫁や娘と同じ年なのか!何もできないくせに、色気だけはまるで熟女のようではないか』
今頃になって己の新妻に戸惑い、今後襲ってくるであろう大嵐を予感して、侯爵は青ざめたのだった。
亡き妻の側にあったのは完璧な安心感、そう、温かな安らぎだった。しかし、今新しい妻の側にいても全く落ち着かない。
外で彼女と逢っている時はそのスリリングな感じに身も心も若返る気がしたが、自宅で彼女と居てもただ疲れを覚えるだけだ。
それに以前は特別意識もしていなかったのだが、近頃屋敷内の装飾や家具も趣味に合わずに癇に障って、何故か心穏やかに過ごせない。
次第に侯爵は、屋敷にいても本宅でゆっくりすることはなくなり、息子の目を盗んでは別宅を訪問し、孫娘の遊び相手をするようになった。いや、実際は相手をしているのではなく、孫娘に相手をしてもらっていたのだが。
そしてそこには娘の産んだ公爵家の男の孫達もよく遊びに来ていたので、それが侯爵にとって唯一の癒やしになっていた。
しかしその時彼はまだ、その癒やしの時間が期間限定のものだとは思いもしなかったのだった。
読んで下さってありがとうございました!




