5 自立を目指す妻
義母の言葉で、結婚前の夫のあの行為は、単なる欲望の末の蛮行ではなかったのだと、今頃になって知った妻だった。
一週間ほど自室に閉じ籠もった後で、目にしたあの男の顔は痣だらけだった。あまりにも酷い状態だったので、いくら憎い相手でも少し同情したくらいだった。
もっともその後で、酔った勢いで見ず知らずの男と喧嘩した結果だと聞いて、あの時はざまあみろと思ったものだったが。
それにしても、夫が自分をそこまで愛してくれていたとは思いもしなかった。
義妹からは自分が夫から溺愛されているとよくからかわれてはいたが、それを実感したことはなかった。
たまに愛していると言葉にされたことはあったが、いつもそれは頼み事があったり、我儘を言ったり、酔った時にふざけたように言っていたから信用していなかった。
大体『愛している』は浮気がばれた時に決まって口にする言葉だったのだから、真に受ける筈がなかった。
「ごめん! これはちょっとした遊びだったんだ。
私が本当に愛しているのは君だけだよ。わかってるだろう?」
いつも少し困った顔をしてこう言っていたが、何をわかればいいのかわからなかった。
しかし、義母の話で何となく夫の言いたかったことがようやくわかった気がした。
『自分の父親だって浮気を繰り返しているのに母親に許してもらっている。それは父が一番愛しているのが妻のことだと、母がわかっているからだ。
私も妻を一番に愛している。だからたまに他の女に目移りしても、それは単なる遊びに過ぎないと、ちゃんと妻はわかっている筈だ』
そんな風に思っていたのだろう。確かに浮気をされても夫を愛してはいたが、それは自分が夫にとって一番の存在だから……だなんて思ったことは一度もなかった。
だから、いつ夫に離婚を言い渡されてもいいように、元々自己研鑽に励んできたのだ。社交界で賢婦と呼ばれるまでになったのも、もし夫に捨てられても娘と二人で生きていけるように、色々な伝手を作るためだった。
そして一年前に夫から離婚を突き付けられた後は、義妹の協力もあって、何とか仕事の目処はついている。
この侯爵家の優秀な使用人と共に人材派遣サービスの商会を立ち上げるつもりだ。
近頃女性の社会進出も進んでいるので、その女性達をフォローする必要性が高まっているのだ。
例えば老人や子供の世話や、教育、パーティーなどの催し物等の手伝いなど。
侍女や侍従を置きたくても常勤として雇うことができない下位貴族の家でも、必要な時に頼めるならと喜ばれるに違いない。
そしてこの需要は今後ますます高まることだろう。
「目の付け所が違うわね。さすがはぶっちぎりの首席卒業生だわ。
社交界一の賢婦が責任を持って推薦する人なら、安心して頼めるわ。皆さん、きっと大喜びなさるわよ」
一番信用できる義妹が太鼓判を押してくれたので、妻はホッと胸を撫で下ろしたのだった。
ところが思いもよらないことに、半年前に夫は子爵令嬢と別れていた。とはいえ今さら元の関係に戻るつもりはなく、離婚宣言をしたあの日から、二人は一切夫婦としての体をなしていなかった。
夫は何度も妻の寝室を訪ねようとしてきたが、以前は夫の部屋と繋がっていた主寝室は、とうの昔に妻の部屋からしか行けないように改造していた。
しかも妻の部屋には中からも外からも鍵を取り付けていたので、夫は忍び込むことすらできなかった。
さすがに今はしおらしくしているが、そのうちどうせまた新しい恋人を作るだろう。
何せ夫は名門侯爵家の次期侯爵であり、やり手の貿易商。しかも美丈夫で口が上手いときているのだから、簡単に女性は引っ掛かるに違いない。妻はそう思っていた。
間もなくあの日から一年が経つ。いくらあの子爵令嬢と別れたからといっても、いつあの離婚届けを役所に提出されるかわからない。それを思うと不安に押し潰されそうになった。
しかしこちらはもう準備万端なのだ。いつ離婚したよと告げられても大丈夫だと自分に言い聞かせた。
ただ、いくらなんでも義母が生存中にはそんなことはしないと信じたい妻だった。
そんなことをボーッと考えていた義娘に、義母は再び口を開いた。
「一途に人を愛して、それを失くしてたとえ廃人になってもそれはその人の人生。
それを避けるために、愛することや愛されることを誤魔化そうとしてきたなんて、本当に愚かだったわ。
息子に、愛する人と向き合うことの大切さを伝えられなかった。
貴女に辛い結婚生活を送らせてしまってごめんなさいね」
「そんなことはないですよ。決して私は不幸なんかではありませんでした。
それにお義母様の言う通り、もしあの伯爵家に嫁いでいたら、今頃私はどうなっていたかわかりませんもの」
義娘は義母の心の負担を少しでも失くしたくて、学生時代に想いを寄せていた伯爵家の子息の現在の様子について語った。
息子と恋人の仲を強引に引き裂いた伯爵夫妻は、息子の意志などまるで無視をして、伯爵家の利益になると思う同じ伯爵家の令嬢と結婚させた。
しかし自分達が勧めた縁談だったというのに、なんだかんだと嫁いできた嫁をずっと虐めていたらしい。
溺愛していた末の息子が嫁を大切にするのが気に入らないという、そんな理不尽な理由だったらしい。
つまりどんな嫁が来ようと満足などはしなかったのだろう。
そのせいで伯爵家の新妻は次第に精神的に追い詰められていった。その上、産後の肥立ちが悪くてさらに情緒不安定になり、ある日とうとう屋敷に火を放ってしまったという。
「なんでもあの伯爵夫妻は、難産で疲労困憊のお嫁さんに対して、
『残念ね、女の子だったわ。次は絶対に男の子を産みなさいね』
『跡継ぎを産まない限り、お前を伯爵家の嫁とは認めんからな』
そう言い放ったそうです。その瞬間お嫁さんが枕元近くにあった蝋燭を舅と姑に投げつけたんですって。
幸い伯爵夫妻には届かなかったけれど、床の上のジュータンに火が付いて一気に燃え上がったのだそうです」
「まあ!」
初めて知った情報に侯爵夫人は目を丸くした。
「その後はどうなったの? お嫁さんは? 伯爵夫妻は?」
「お嫁さんは夫が抱いて逃げたので命は助かったようです。生まれたばかりの赤ちゃんも乳母が連れ出せたようでなによりでした。
ただし伯爵夫妻は逃げる際に、二人とも顔に火傷を負ったそうです。
そして死人は出ず、伯爵家は全焼は免れたらしいのですが、家財は使い物にならなくて大損害だったそうです。
しかも伯爵家がお嫁さん側に賠償を請求したら、反対に相手から娘が虐待されていたと訴えられて、逆に損害賠償する判決が下りたそうです。
お嫁さんが虐められているところは多くの使用人や出入りする商人達に目撃されていたそうですから。
伯爵夫妻は人前に出ると顔の火傷痕を指差されて、天罰だと罵られるようになって、嫡男に伯爵位を譲って、領地の方で隠遁生活を送っているのだそうです。
もちろん、そのお嫁さんも当時正常な判断ができる状態ではなかったと起訴もされなかったみたいです。それが不幸中の幸いですよね。
今はまだ完全には正気に戻ってはいないそうですが、両親とは別居できたので、少しずつ回復に向かっているそうです。
新しい伯爵とは共通の友人がいて、その人からの情報なので、割と正確だと思います」
「若い二人に少しは希望が見えて良かったわ」
「本当に……
人と比較するのは間違いだとは思うのですが、そのお嫁さんに比べると私は、お義母様や義妹にも愛されて優しくしてもらえて本当に幸せです。使用人の方々にも良くしてもらっていますし。
それに、なんと言ってもかわいい娘にも恵まれましたしね」
義娘は心からそう思いながら言った。間もなく夫とは別れることになるだろう。しかし、本当に結婚生活が全て不幸だったというわけではなかった。
一人で納得している義娘を切なげに見つめながら、義母は言った。
「ねぇ、貴女はまだ若いのだから、やり直しはいくらでもできる。
これからの人生はご両親や私達の縁など全て断ち切って、自分の目、自分の価値観で物事を見極めて判断してね。
ただ最後の我儘を言わせてもらえるのなら、あと少しだけ側に居て欲しいわ。だけどその後はもうこの家がどうなろうと構わないから、好きに生きて行ってね。貴女達の幸せを願っているわ」
すると義娘は目に涙を溜めながらも、ニヤリと笑って義母にこう尋ねた。
「誰に出て行けと命じられても、私は決してお義母様のお側を離れませんわ。
それに、先程伺ったお義父様が幸せでいて欲しいというお義母様の意志も尊重したいと思っています。私も義妹も。
でも私達にはお義母様とは違う想いがあります。ですから、お義母様がその思いを貫いた後でしたら、私達の思いを好きに晴らしても構いませんか?」
義娘のこの言葉に義母は半開き気味だった瞳を大きく見開いた。そして暫く沈黙した後で、フフッと笑いを溢した。
「もちろんいいわ。娘達には色々嫌な思いをさせてしまって申し訳なく思っていたのよ。使用人の皆にもね。
だから貴女がみんなの鬱憤を晴らしてくれるというのなら、こちらからお願いしたいくらいだわ。
直接その様子を見られないのが残念だけど、その感想はいずれ後から来るあの方から教えてもらえるでしょう」
義母のその顔は、まるで楽しいいたずらを思いついた子供のような、幼い顔付きになっていた。
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