4 侯爵夫人の深過ぎる愛情
「家族の縁って本当に面倒くさいわよね」
亡くなる一か月ほど前、前後のなんの脈絡もなく突然義母がこう言った。
何のことかしらと息子の妻が首を傾げると、その日は少しは気分が良かったのか、義母は久し振りに小さく微笑んだ。
「私が寝込んでから一度も旦那様は顔を見せに来てくれないでしょう?
きっとみんなからは、なんて冷たい夫なんだと悪口を言われているのでしょうね。
でもね、負け惜しみではなく、会いに来てくれない方が私はいいの。だって、こんなに弱ってしまった自分を見られたくないんだもの。
旦那様もきっと同じなんだと思うわ」
「でも、結婚式で健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことをお誓いになったのではないですか?
それなのに妻が病気になっても見舞いにも来ないなんて酷いと思います」
普段義父への文句どころか話題にもしない義娘が、珍しくきつい言葉でこう言ったので、義母は少しだけ驚いた顔をした。
そして、自分のせいで彼女に辛い思いをさせてきたのだと申し訳なく思った。
「本当はね、愛することと愛されること、その気持ちがイーブンなことが一番幸せなのだと思うのよ、私だって。でもなかなかそう上手くはいかないでしょ?
私は旦那様への愛が強過ぎるの。彼が幸せでいてくれることが私の幸せなの。
だから、もし旦那様が私と同じくらい愛してくれたとしたら、私が先に消えてしまった時に彼はとても辛い思いをするでしょう? 私はそんなことを望んでいないの。
貴女も気付いていたでしょう? 私が旦那様に私以外の女性に目を向けるように誘導していたことを。
何故そんなことをするのか不思議だったでしょ?」
義母の問いに義娘が頷いた。
義母のことを誰よりも尊敬していたが、夫に対して甘やかし過ぎることには納得できなかった。何故自分一人で苦労を背負い込むのかと。
手を取り合って生きるのが夫婦としてあるべき姿なのではないかと。
「私の両親はとにかく夫婦仲が良かったの。そう、貴女のご両親と同じね。それは子供にとっては幸せなことだったわ。でも母が亡くなった後は転がるように不幸になった。全く貴女と同じだったの。
愛する妻を亡くした父はまるで抜け殻のようになって、母と過ごした寝室に閉じ籠もってしまったの。そして城に登城しなくなって官職を追われ、その上領地経営まで見向きもしなくなったわ。
母が生きていた頃は優秀な役人、尊敬される領主だったのに。
父は世間の笑い者になり、親戚連中がやって来て、我が伯爵家を好き勝手し始めたの。まだ学生だった兄と私はただ手をこまねくだけだった。
でもそんな時私と兄を助けてくれたのが、ここの前侯爵だったお義父様とその息子である旦那様だったの。
元々父とお義父様は学生時代からの親友で、兄と旦那様も幼馴染みの同級生だったの。
だから、兄経由で我が伯爵家の窮状を知ったお義父様が手を差し伸べて下さったのよ。
お義父様はお城では国王陛下から厚い信頼を受ける側近だったから、狡賢い親戚もさすがに手出しができなくてスゴスゴと引き下がったわ。
そして父が突然死した後、お義父様が兄の後ろ盾になって下さったことで、なんとか伯爵家を継ぐことができたのよ。
その間、旦那様もずっと兄や私を励まし続けてくれたの。私、そんな優しい旦那様にすぐに夢中になってしまったわ。
もちろん身分違いなのはわかっていたし、才色兼備で女性に大人気の旦那様に好かれようだなんて思っていなかった。
ただ妹分としてでもいいから、何か役に立てるような人間になろうと努力だけは惜しまなかった。
そして学園の卒業の時、用事ができて急遽参加できなくなった兄の代わりに、旦那様がエスコートの代役をして下さったの。
私は旦那様とダンスを踊りながら夢の中の出来事なのかと思ったわ。人生で一番の幸せな瞬間だと思った。
でも、それは甘かったわ。だってそれ以降ずっと私は幸せだったのだもの。
旦那様と結婚して、難産の末に息子と娘を授かり、これ以上子供は望めないと言われて諦めていたのに、もう一人かわいい娘を与えてもらった。
その上、一人の娘が両思いの相手と結婚して二人の男の孫をもうけ、もう一人の義娘がなんと息子と結婚してかわいい孫娘を産んでくれた。
こんなに幸せが続くなんて夢にも思っていなかったわ。
だけど、お迎えが近くなった今頃になって後悔していることがあるの」
「後悔?」
微笑んでいた義母の顔が曇ったので、義娘の胸がギュッと苦しくなった。愛する義母にこの期に及んで後悔の念など抱かせたくないと彼女は思った。
一体何を後悔しているというのだろうか。可能ならばどうにかしたいと思った。
すると義母は義娘の手を取ってこう言った。
「さっき、家族の縁って本当に面倒だと言ったでしょう?
私は母が死んだ後の父の姿を見ていたから、夫にだけはそんな思いをさせたくないと強く思い込んでしまったの。
ここの義父母のようにお義父様が先に召された後で、お義母様がその後を追うことができれば理想だと思ったわ。貴女のお母様は残念なことに違ったけれど、大概は女性の方が逞しいから。
だけど、私はあまり丈夫な方ではないし、旦那様より絶対に先にお迎えが来ると思っていたの。
だから旦那様が父みたいにならないように、旦那様が私と同じだけの愛情を私に持たれないように心掛けたの。
そうすれば、私がいなくなっても、旦那様はそれほどショックを受けずに済むと思ったのよ。
両親との縁を断ち切りたかったの。それなのにそれを気にするあまり、私の大切な義娘と孫娘を不幸にするだなんて思いもしなかった。
なんて詫びたらいいのかわからないわ。ごめんなさい、本当にごめんなさいね」
自分に向かって頭を下げて謝る義母を見下ろして、義娘は喫驚した。彼女には謝られる意味がわからなかった。
「本当はね、貴女にも両想いの人と結婚してもらいたかったのよ。でも相手の方自身は良い人みたいだったけれど、そのご両親や親族はとても評判が悪かったでしょう?
相手が次男三男ならまだ良かったのだけれど、生憎末っ子嫡男というではないの。そんな所へ貴女が嫁いでも絶対に幸せになれないと思ったわ。
幸せなんて他人が決めることではないことは重々承知していたけれど、現実は甘くない。愛は大事だけれど、それだけでは幸せにはなれないと思ったのよ。
どうしたらいいのかと悩んでいたら、私が領地へ行っている間に、なんとあの馬鹿息子が無理矢理に貴女と関係を結んだというではないの!
私は頭に血が上ったわ。そしてわけがわからなくなって息子を殴り続けたわ。人を殴ったことなんてなかったから、当然加減もわからず、あの子の顔が腫れ上がって鼻と口から血を噴き出してもずっとね。
でもあの子は一切抵抗することなくされるままだったわ。そして私が疲れ果てて腕を垂らした時に言ったの。
貴女を愛している。だから絶対に貴女を幸せにしてみせると。
あの伯爵家の息子では貴女を決して幸せにできないから、あの男を忘れさせるために酷いことをした。
それで自分を憎むかも知れない。だけど、それでもあの男と結婚するより遥かにマシなはずだと。
それを聞いて愚かにも私は思ってしまったのよ。自分の息子なら一人の女性を愛し続けることができるんじゃないかって。
母を愛し過ぎる父を煙たがっていたくせに、本当に矛盾しているわ。
それなのに、父親を見て育ったあの子は勘違いをしてしまった。妻を心から愛してさえいれば、愛を伝えなくてもわかってもらえると。そんなわけないのにね。でもそれは全て私のせいだわ。
それに私はあの時、貴女が息子と結婚してくれたなら、ずっと貴女の側にいられるとも思って、結局二人の結婚に反対しなかったんだもの。本当に自己中心的よね」
自虐的に笑う義母の痩せ細った手を、自分の両手で優しく包み込みながら、義娘も同様に笑った。
「お義母様が自己中心的だというのなら、私もですわ。
あの人と結婚したらお義母様と本当の親子になれて、ずっと一緒にいられて嬉しいと思ったんですから。
それに……私の娘は彼女の両親が心から愛し合い、望んで生まれてきた子なんですよ」
義娘のこの言葉に、義母は頬を仄かに染めてそれはそれは幸せそうな顔をした。
「その言葉が聞けて嬉しいわ。孫娘に対する申し訳無さが少し減ったもの。
でもね、たとえ貴女がこの先息子と距離をとろうとしたとしても、貴女は私の本当の娘よ。それだけは忘れないで……」
まるで、息子夫婦が互いに離婚届を持っている仲だということを知っているかのように義母がこう言ったので、義娘は動揺した。しかし彼女は必死にそれを隠したのだった。
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